第80話 初雪の卵部屋と名前のつかない空気
アリスが卵番として本格的に動き始めるころ、ついに冬が来た。
最初は、朝の空気がやけに重いと思う程度だった。
それが昼を過ぎるころには空の色が一段白くなり、
夕方には、静かに最初の雪が落ちてきた。
「来たな」
レオが灰色の空を見上げて言った。
領主館の軒先から見上げる空は低かった。
音が吸われるような、雪の日特有の空だ。
ふわり、ふわりと、白いものが落ちてくる。
激しい降りではない。
だが、止む気配もない。
村人たちは最初こそ少し外へ出て空を見上げていたが、すぐにそれどころではなくなった。
冬の最初の雪は、綺麗だが優しくはない。
森への狩りは中止になった。
冬の森は、もう別の場所だ。
秋までの理屈で入ると、簡単に人が死ぬ。
まして今は、森のどこかに母飛竜もいる。
余計な刺激は避けるべきだった。
狩りが止まったことで、村の動きも少し変わった。
男たちは薪割りと補修へ回る。
女たちは保存食と炊事の比重が増す。
鍛冶場では、冬のうちに直せるものを直し、
アトリエでは、イルゼが薬と石鹸の備蓄を進める。
そして、湯場裏の卵部屋。
そこだけは、冬が来ても止まらないどころか、むしろ存在感を増していた。
アリスは、本当に卵番になった。
朝起きたら、卵部屋へ行く。
温度を見て、火の魔石の具合を確認する。
昼、交代の合間にも顔を出す。
子供が近づいていないか見る。
アカネたちが妙につついていないかも見る。
夕方、もう一度見て夜番へ引き継ぐ。
最初は、すごいものを任された顔だった。
だが、日が経つほどに、それは少しずつ自分の仕事の顔へ変わっていった。
雪が降り始めると、卵部屋の意味はさらに大きくなった。
外は冷えるし、風もある。
普通に置けば、殻の熱はあっという間に奪われるだろう。
だが、湯場裏に作った臨時の保育室は、その点だけは強かった。
湯場の熱を少し拾い、
火の魔石の温度を逃がしすぎず、
さらに布と板で空気を溜める。
豪華ではない。
だが、冬の村で作れる孵化のための部屋としては、かなり上等だった。
アカネたちは、卵に対して不思議な距離感を取っていた。
最初は気になってうろうろした。
次に、近づきすぎてアリスに怒られた。
そして今は、部屋の前あたりで丸くなることが増えた。
スミは部屋の入口近くに座りたがる。
ヒイロは少し離れてうろうろする。
アカネだけは、たまに本当に卵の様子を見ているみたいな顔になる。
「母親気分か?」
通りがかったバルドが零す。
「お前の方が先輩だもんな」
「ぴぃ」
「そこは認めるのか」
雪が本格的に積もる前に、村の仕事はほとんど屋内へ寄っていった。
鍛冶場の音は、むしろ夏よりよく響く。
湯場は三日に一度でも、冬に入ってからさらに価値を増した。
誰もが、前ほど怯えずに迎える冬を感じていた。
もちろん、楽ではない。
家があって、湯があり、備蓄も薬もある。
去年までのような、ただ耐えるだけの冬ではない。
その中心から少し外れた湯場裏で、アリスは毎日卵を見ていた。
雪の朝も、曇った昼も、凍える夜の引き継ぎの時も。
時々、卵に向かって話しかけてすらいた。
「寒くないですか?」
「私はちょっと寒いです」
「でも、あなたはもっとですよね」
「ちゃんと生まれてくださいね」
「待ってますから」
冬は、確かに始まった。
雪が降り、森への狩りは止まり、村は冬の形へ閉じていく。
だがその中で、飛竜の卵だけは、これから開くものだった。
白い季節の中で、ひとつだけ。
まだ見ぬ何かへ向かって、静かに熱を抱えている。
アリスはその前に立つ、剣を持つ手とは別の手で。
聖騎士志望のじゃじゃ馬シスターは、
いつの間にか、本当にこの村の卵番になっていた。
その日も、アリスは卵の前にしゃがみ込んで記録を取っていた。
「昨日より、ほんの少しだけあったかい気がします」
「気のせいじゃないか」
入口からレオが入ってくる。
アリスがぱっと顔を上げた。
「レオ様」
「交代の様子見だ」
「そうでしたか」
「邪魔したか?」
「いえ!」
その返事が少しだけ弾んでいて、レオはふと口元を緩めた。
アリスはまた卵へ視線を戻した。
手を伸ばしはしない。
けれど、すぐ届く距離に指先を置いている。
その横顔を見ながら、レオは静かになった部屋の空気を感じた。
外では雪が落ちている。
村は冬支度の音を小さく響かせている。
なのに、ここだけは妙に落ち着いていた。
そして、その中心にいるのがアリスだということが、少し不思議だった。
前までは、やたら元気で、
やたら真っ直ぐで、
気がつくと騒ぎの真ん中にいる女だと思っていた。
それは今も間違っていない。
だが、こうして卵の前に座っている姿は妙に静かで、
妙にしっくり来る。
見ている方の気持ちまで、少し落ち着かせるような空気があった。
アリスは、少しだけ嬉しそうに笑った。
けれど次の瞬間、その笑みが微妙に揺れる。
「レオ様…テオドール様が、変な冗談を言ったじゃないですか」
「ああ」
レオはすぐに思い出した。
婚姻の話。
本家の搦手対策として、アリス殿辺りどうです?と、テオドールが言ったあの時。
アリスは卵の方を向いたまま、ぽつりと言った。
「冗談だって分かってます」
「分かってるんです」
「でも、残るじゃないですか、ああいうの」
レオは、少しだけ返事に困った。
戦の話なら早い。
だが、こういうのは違う。
「嫌だったか」
「え?」
「名前を出されたの」
「ち、違います!」
アリスが慌てて顔を上げた。
「嫌とかじゃ、なくて」
「じゃあ何だ」
「困った、というか」
「びっくりした、というか」
「ちょっとだけ…嬉しかったというか」
最後の方は、かなり小さかった。
だが、レオにはきちんと届いた。
届いてしまったせいで、今度はレオの方がすぐに次の言葉を出せなかった。
「また、意外なこと言うな」
「どうしてです?」
「お前、聖騎士一直線で、そういうの全部後回しかと思ってた」
「後回しではあります!」
「そうか…」
「そうです!」
アリスはそこまで言ってから、また少ししゅんとした。
「でも、ちゃんと分かってます」
「今はそういう時じゃないってことです」
「だから、変な意味で受け取らないでください」
「受け取れって言ったり、受け取るなって言ったり、忙しいな」
「もう」
アリスは困ったように笑った。
それから、少しだけ肩の力を抜く。
「レオ様が、あの時…魔法の事を秘密にしてた時」
「私のこと、ちゃんと頭ごなしに怒らなかったの」
「ちょっと、嬉しかったです」
「そうか」
「全部、後でいいって言ってくれたから」
その言葉に、レオは少しだけ目を逸らした。
あの時は、本当に飛竜の方が重かった。
だから後回しにした。
ただ、それだけのつもりだった。
だが、アリスにとっては違ったらしい。
この人なら大丈夫だと、思えたのだろう。
責められるより先に、順番をつけてくれたことが。
秘密を暴くより先に、今ここにいる自分を見てくれたことが。
それが分かると、レオの胸の奥にも妙な熱が残った。
この女は、真っ直ぐすぎる。
危なっかしい。
放っておくと無茶をする。
だから目が離せない。
最初は、面倒を見る側の感覚だった。
だが今は、それだけでもない気がする。
雪の降る日、湯場裏の小さな部屋で、
卵の前にしゃがみ込みながら、顔を赤くしているアリスを見ていると、
妙に目を逸らしづらかった。
「怒るにも順番がある、それだけだ」
「でも、優しかったです」
卵部屋の熱が、静かに回っている。
火の魔石が、赤く弱く脈打っていた。
アリスはまた卵へ視線を落とした。
けれど、さっきまでより少しだけ表情が柔らかい。
「冗談が残ったままなら、俺も忘れないでおく」
「え」
今度はアリスが、本当に固まった。
「そ、それって」
「深い意味まで、今つけるな」
「でも」
「今は卵番だろ、まずはそっちをちゃんとやれ」
「その先の話は、その先だ」
「その先…」
「それは…少しだけ、期待してもいいやつですか」
「お前、そういうとこだけ妙に踏み込んでくるな」
「す、すみません」
「完全に駄目なら、最初から言う」
「だから、今はそれで十分だ」
アリスの顔が、また一気に赤くなった。
今度は耳だけじゃない。
首筋まで熱が上がっているのが分かる。
「わ、分かりました」
「本当か?」
「分かったことにします」
「便利な返事だなぁ」
「今はこれが限界です」
その返事があまりに正直で、レオは小さく笑った。
笑ってから、自分でも少し驚いた。
こういう話で、自分の方が先に肩の力を抜くとは思っていなかった。
しかも相手がアリスだ。
少し前までなら元気なシスターだな、で終わっていた。
今は違う。
真っ直ぐで、無茶で、でもちゃんと人のために動いて、卵に向かって本気で話しかけるような女だと知っている。
知ってしまった分だけ、前より少し見え方が変わっていた。
レオはそれ以上何も言わず、部屋の入口へ寄りかかる。
アリスは卵の前に座ったまま、でも時々ちらりとこちらを見る。
その視線が合うたび、アリスは慌てて卵へ向き直る。
けれど、頬の熱までは隠せていなかった。
外では雪が静かに降っている。
村は冬に閉じている。
なのに、卵部屋だけは少しだけ温かかった。
飛竜の卵の熱だけではない。
たぶん、別の何かも少しだけ混じっている。
「レオ様」
「なんだ」
「卵、ちゃんと生まれますかね」
「生まれるようにするんだろ」
「はい」
「なら、生まれる」
「そういう言い方、ずるいです」
「何がだ」
「信じたくなるので」
「じゃあ信じろ」
「はい!」
アリスはそう言って、卵へそっと視線を戻した。
けれど、その指先はさっきより落ち着いていた。
冬の最初の雪の日。
卵部屋には、飛竜の卵と、まだ名前のつかない空気がひとつ。
静かに置かれていた。
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