第75話 支える手、託される命
その時、沈黙を破るようにアリスが一歩前へ出た。
「少しだけ試したいです」
アリスが、飛竜を見たままそう言った。
レオがアリスを見る。
「何を試すんだ?」
「飛竜に効くかは分かりませんが、治癒です」
「本気か?」
「でも、何もしないよりはいいです」
ガレスが眉をひそめる。
「待て、アリス」
「危険ですか?」
「危険に決まってる」
少女は、そこでようやくレオを見た。
目が真っ直ぐだった。
「試すだけです」
「駄目なら、すぐやめます」
「ただ、救えるかもしれない命を見捨てたくないんです…」
今度は、はっきり言い切った。
レオはその顔を見た。
怖くないはずがない。
相手は飛竜だ。
しかも死にかけとはいえ、まだ十分に人を殺せる化け物だ。
それでも、この娘は目を逸らさない。
たぶん、母飛竜の言葉を自分で聞いてしまったからだ。
聞いてしまった以上、何もせずにはいられない。
「少しだけだぞ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
「はい!」
アリスは柵を超え、母飛竜の前へ進んだ。
右手をゆっくりと、その巨体に添えた。
飛竜の黄金の瞳に、警戒の色が走る。
だが、今は動けない。
「我、聖なる灯火に願う」
アリスが低く唱える。
詠唱は教会の祈りに似ている。
だが、よく聞けば少し違う。
もっと古い。
もっと直接的だ。
詠唱が終わると、アリスの掌から淡い金白の光が滲んだ。
バルドが息を呑む。
ガレスも、目だけはわずかに見開いた。
エルマーに至っては、ほとんど呆然としていた。
「本当に使いやがった…」
エルマーが驚きの声を漏らした。
レオもガレスもテオドールも、いやこの場にいる全員がその光に目を奪われていた。
聖なる光は、飛竜へゆっくり流れる。
押しつけるようではない。
傷へ染み込むみたいに、じわじわと。
焦げた鱗の縁がわずかに明るくなり、
裂けた脇腹の血が、ほんの少しだけ止まる。
何より、沈みかけていた目にかすかな力が戻った。
飛竜の胸の上下が、少しだけ整う。
さっきまで途切れそうだった呼吸が、まだ荒いながらも一本筋を通し始める。
アリスは、そのまま魔力を流し続けた。
額に汗が浮き、肩が震える。
だがやめない。
見かねたレオが叫ぶ。
「アリスもうやめろ!」
「もう少しだけ…」
「少しじゃないだろ!」
「このままだと、また落ちます」
少女は歯を食いしばっていた。
声が細い。
だが意地で繋いでいる。
聖職者としての意地なのか。
目の前の母親飛竜に何かを感じたのか。
たぶん、その両方だ。
「っ、は」
次の瞬間、アリスが咳き込んだ。
光が一瞬だけぶれる。
「無茶するな!」
「だいじょうぶです」
「魔力切れそうじゃないか!」
「でも…」
「でもじゃねえ!」
アリスは、それでも手を引かなかった。
足元が少し揺れる。
呼吸も浅い。
それでも、飛竜から目を離さない。
レオが柵の向こうへ踏み出そうとした、その時だった。
ぴゅい、と。
場違いなくらい小さな声がした。
全員がそちらを見る。
アカネたちだった。
いつの間にか、三匹が西の柵近くまでおどおどとやって来ていた。
怯えていたはずなのに、今は不安そうに首を伸ばしている。
「おい、なんで来た」
だが、アカネたちは逃げない。
むしろアリスの足元まで来ると、嘴でちょんと彼女の脛をつついた。
「え」
アリスが目を瞬かせる。
そのまま、三匹が喉を鳴らした。
そして、口から赤い火の魔石を吐き出した。
土の上へ三つ。
小さいが、しっかりと熱を持った火の魔石。
まるで、使ってと言わんばかりに。
「お前ら」
レオの声がかすれる。
アカネは、いつもの得意顔ではなかった。
むしろ必死だ。
スミもヒイロも、落ち着かない様子で尾を揺らしている。
それでも、魔石だけは吐き出した。
「そうかよ」
レオはアカネ達を見て、それからすぐに顔を上げた。
「アリス!そいつを使え!」
「で、でも…」
「いいから!」
レオは魔石を拾い上げると、アリスの手に無理やり握らせた。
冷えかけていた少女の指が、熱を持った魔石に触れて震える。
だが、レオはそれだけで終わらなかった。
そのまま、アリスの手ごと強く握る。
問答より先に、身体が動いていた。
このまま一人で無茶をさせたら、倒れる。
分かっているのに止まれないこの娘を、ここで放っておけなかった。
「レオ様…」
アリスが小さく息を呑む。
握られた手の熱は、魔石だけのものではなかった。
レオの手の力が、そのまま言っていた。
無茶は分かってる。
でも、やるなら支える。
倒れるところまでは行かせない、と。
アリスの胸の奥が、どくんと強く鳴る。
怖さはまだある。
飛竜は目の前だ。
魔力もきつい。
それでも、不思議ともうさっきほど怖くなかった。
レオが信じてくれた。
止めるだけじゃなく、支えてくれた。
それだけで、足元が急に崩れにくくなる。
「やれ」
「でも、無茶はするな」
「はい!」
その返事は、さっきよりもずっとまっすぐだった。
魔石が、アリスの手の中でほのかに熱を強めた。
まるで、アリスに呼応するみたいに。
アリスの身体が大きく震える。
だが、光が戻る。
今度はさっきより少し強い。
聖なる光と、火尾鶏の魔石の熱。
その二つが、奇妙な均衡でひとつになった。
飛竜の身体を、再び金白の光が包む。
焦げ茶の飛竜が、大きく息を吸った。
その胸が、今度ははっきり膨らむ。
脇腹の裂け目も、完全には閉じないまでも、血の流れがさらに鈍くなる。
折れた翼はそのままだ。
だが、今すぐ死ぬところからは一歩戻った。
「死の淵から戻してる…」
テオドールが驚きとも呆れとも言える声を零した。
アリスの額から汗が落ちる。
「アリス、ここまでだ」
「レオ様…でも」
「これ以上はお前が持たない、お前を失いたくはない」
その一言で、ようやくアリスが息を呑んだ。
そして、ゆっくりと手を引く。
少女の身体が後ろへふらつく。
レオがすぐ支えた。
完全に腕で抱えるように。
軽い、思ったよりずっと軽い。
こんな身体で飛竜相手に意地を張っていたのかと、レオは少しだけ腹が立つ。
そして同時に、やっぱり放っておけないと改めて思う。
「無茶をしすぎだ」
「すみません」
「後で説教だぞ」
「はい」
アリスはぐったりしていた。
それでも、飛竜を見ている。
飛竜は頭を上げていた。
昼やさっきより、明らかに目に力が戻っている。
今夜のうちに息絶える線からは、明らかに外れた。
その視線が、アリスとレオ、それに足元のアカネたちへ順に向いた。
「礼でも言ってんのか、こいつ」
ガレスが少しだけ柔らかく言った。
「でも、さっきよりずっとこっちを見てるな」
エルマーも頷く。
焦げ茶の飛竜が、低く短く、また古代の言葉を発した。
今度はエルマーもアリスも、同時に聞き取った。
アリスは、呼吸を整えながら小さく答えた。
「感謝を、って言ってます」
「そうか」
エルマーは、まだ少し信じられない顔のまま笑った。
「飛竜に礼言われる日が来るとはな」
「お前、ちょっと嬉しそうだな」
「そりゃそうだろ」
「そういうやつだよな」
「知ってるくせに」
レオはそこで、足元のアカネたちを見た。
三匹とも、やり切ったみたいな顔をしている。
さっきまで怯えていたくせに、結局は首を突っ込む。
「お前らもな」
「ほんと、どこまで村の中心になる気だ」
「ぴゅい」
アカネが鳴く。
今度は少しだけ、いつもの得意顔に戻っていた。
夜の冷気は相変わらず鋭い。
だが、西の柵の前だけは、妙に熱を帯びた空気で満ちていた。
続きが気になる方は、ブクマお願いします!
また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!




