第73話 母竜の願い
この日の夜は、普段よりずっと静かだった。
湯場の笑いは早く引き、鍛冶場の火も落とされ、子供たちは早々に家へ戻されている。
外周の見張りだけが、いつもより多い。
松明の火が、柵の間隔ごとに赤く揺れていた。
冷える夜だった。
まだ雪はない。
だが、風はもう冬のものだ。
頬に当たるたび、肌の奥へ細い刃を差し込むような寒さがある。
「異常なし、か」
見張りの男が小さく息を吐いた、その時だった。
「ん?」
耳が音を拾う。
最初は風かと思った。
だが違う、土を擦る音だ。
しかも小動物ではない。
もっと重い。
重く、鈍く、何か巨大なものを引きずる音だ。
見張りの男達の喉が鳴る。
「おい」
「今の、聞いたか」
「ああ」
二人とも、松明を少しだけ高く上げた。
森側、西の柵の向こう。
暗がりの中、木々の間の影が妙に大きい。
風が一度だけ枝を揺らす。
松明の炎がぶれる。
その揺れの向こうで、それは見えた。
焦げ茶色の巨大な生き物だった。
片翼を引きずり、
腹を地面へ擦りつけるようにして、
ゆっくり、ゆっくりと這っている。
土と血と、焼けた鱗の匂いが夜風に乗って届いた。
「なんで…来てるんだよ…」
見張りの一人が、声を震わせる。
飛竜は立っていなかった。
立てないのだろう、それでも進んでいる。
前脚で地面を掻き、爪を食い込ませ、巨体を少しずつ引きずっている。
そのたびに土が鳴る。
折れた枝が鈍く折れる。
あの大きな身体が這っているだけで、森の一角がゆっくり崩れてくるみたいだった。
「鳴らせ!」
もう一人が叫んだ。
「鐘だ!皆を起こせ!」
見張り台の警鐘が夜を叩く。
村の空気が、一瞬で変わった。
家々の中で人が起きる音。
女が子供を抱き寄せる声
男たちが武器を掴む音。
領主館でも、レオはほとんど眠れていなかった。
鐘が鳴った瞬間、もう起きている。
「来たか」
低く呟き、剣を掴む。
廊下へ出ると、ガレスももういた。
着込みもそこそこに、完全に目が覚めている顔だ。
その後ろから、エルマーが髪もろくに整えず出てくる。
アリスは、夜着に外套だけを掛けていた。
ガーネットが扉の奥で、リーナとサラへ短く指示を飛ばしている。
「女衆と子供を中央へ寄せてください」
「灯りは無駄に増やさないで」
全員が一斉に動く。
レオたちが西の柵へ着いた時には、飛竜はさらに近づいていた。
だが、襲ってくるという感じではない。
飛竜はそこで一度だけ、低く喉を鳴らした。
咆哮ではない。
昼のような威圧でもない。
もっと低い、潰れた音だ。
何かを求めるような響き。
「襲撃じゃねえな…」
バルドも槍を手に合流する。
「だからって近づけるわけにもいかん」
レオは飛竜から視線を切らずに返した。
柵の向こう、飛竜の目が松明の火を反射する。
黄金の目は、昼より濁っていた。
それでもまだ死んでいない。
西の柵まで、あと少し。
このまま来れば、もたれかかることはできる距離だ。
「どうする」
ガレスはすでに腰の剣に手を伸ばしていた。
問いは短い。
討つか、追い返すか、様子を見るか。
どれも簡単ではない。
レオは松明の明かり越しに、這う飛竜を見据えた。
昼に見た時より、さらに弱っている。
だが、まだ死ぬ気配もない。
そのしぶとさが、逆に不気味だった。
「弓は?」
レオがガレスに問う。
「集めりゃ数は出せる」
「この距離だ、暴れたら柵ごと持ってかれる」
エルマーは飛竜の這い跡を見ていた。
「レオ、土の反応が薄い」
「どういうことだ」
「昼よりずっと弱い」
「もう土すら動かせんのか」
「たぶんな」
それは一つの情報だった。
土飛竜としての力も、かなり落ちている。
だが、爪と牙は残し尾もある。
死に際の一振りだけで、人間など簡単に潰れる。
「レオ様」
背後から、テオドールの声がした。
彼も来ていた。
外套を羽織り、珍しく部屋仕事の顔ではなく、完全に現場の顔だ。
「来たか」
「予定を変える必要があります」
「明朝、森へ行って再判断では遅い」
「そうだな」
「向こうから来ました」
「つまり、今夜ここで判断です」
警鐘の余韻が、まだ村の空気を震わせている。
家々の中には明かりが増えていた。
だが、誰も外へ出てこない。
出るなと徹底されているからだ。
西の柵のこちら側には、人間達。
向こう側には、瀕死の飛竜。
冬前の夜は、凍るほど静かだった。
その静けさの中で、焦げ茶色の飛竜がまた一歩、這った。
爪が土を掻く音が、妙にはっきり響く。
そして、ついにその巨体が西の柵の手前で止まった。
頭を少しだけ持ち上げる。
息は荒い。
血が黒く乾き、焦げた鱗の間から白い蒸気が立つ。
飛竜は、村の中を見た。
いや、その先の温かい場所を探すみたいに、じっと見ていた。
レオは、剣の柄を握る手にゆっくり力を込める。
今夜は、もう明日考えようでは済まない。
レオは、西の柵の手前まで歩み出ていた。
ガレスも横に並ぶ。
「出すぎるな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえ」
「大丈夫だ」
「その大丈夫が信用ならん」
だが、レオは止まらなかった。
柵越し、松明の明かりの向こう。
焦げ茶色の飛竜は、もう這うことすらやめていた。
巨体を横たえたまま、ただ首だけを少し上げている。
呼吸は荒い。
胸の上下は不規則で、血と焼けた鱗の匂いが、夜風に混じって鼻を刺した。
そして、その目。
昼より濁っている。
死が近い目だ。
それでもなお、獣の光だけではない何かが残っていた。
レオと、飛竜の目が合う。
飛竜が、喉の奥から何かを発した。
低く、擦れ、途切れそうで、それでも確かに言葉の形をしていた。
「なんだと…」
エルマーの顔色が変わった。
さっきまでの魔法狂いじみた軽さが一瞬で消え、目だけが鋭くなる。
エルマーの隣で、アリスもわずかに息を止めた。
何も言わない、顔色すらほとんど変えない。
ただ、剣の柄を握る指先がほんの少しだけ強くなった。
「エルマー」
レオがエルマーを呼ぶ。
魔法使いは、しばらく答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
黙ったままのエルマーに、ガレスが言う。
「今のはなんだ?」
エルマーは、飛竜から目を離さずに言った。
「古代魔法言語だ」
場の空気が、凍った。
「なんだそれは」
「魔法使いが詠唱に使う言葉だ」
「ずっと古い型のやつ」
「飛竜が言葉を知っているってことか?」
レオの声が少しだけ上ずる。
。
「そうなる」
レオの背中に、ぞわりと冷たいものが走る。
ただの魔物ではない、ただの土飛竜ですらない。
古い言葉を知っている。
それはもう、知性あるものだ。
だが、もっと異様なのは別のところだった。
格上なのだ。
明らかに、人より上の生き物だ。
空を支配し、森を踏み潰し、瀕死でもなお村ひとつを脅かせる存在だ。
そんな竜が、人へ向かって言葉を使った。
その異様さに、誰もすぐには言葉を継げなかった。
沈黙を破るように、レオが口を開く。
「何て言った」
エルマーは、そこでようやく一度だけ唾を飲み込んだ。
魔法の未知に対する興奮と、その意味を訳してしまったことへの重さが、両方混じった顔だった。
「小さきひとよ」
「死にゆく我を哀れに思うなら」
「この子を頼む」
「我が事切れたなら、我が遺体は好きにしてよい」
「だから、この子を頼む」
誰もすぐには声を出せなかった。
松明の火が、ぱち、と小さく鳴る。
その音がやけに大きく感じられるほどの沈黙だった。
焦げ茶の飛竜は、もう一度だけ低く喉を鳴らした。
同じ言葉ではない。
だが、音の調子は似ていた。
そういう響きだった。
飛竜の視線が、一瞬だけ自分の腹の下へ落ちる。
その先には、昼に見た卵がある。
母親なのだ、と誰に説明されるまでもなく分かった。
竜という、空の頂点に近い化け物。
人を容易く踏み潰せる格上の存在。
そんなものが、死に際に守ろうとしているのは、自分の子だった。
しかも、自分ではもう守れないから、人に託そうとしている。
その事実が、余計に重い。
「そんなの…ずるいです…」
アリスの声は小さい、剣から手が離れる。
その声は怒っているようで、泣きそうでもあった。
アリスだけではない。
イルゼも顔をしかめ、バルドは露骨に困った顔をし、ガレスでさえ眉間の皺を深くしていた。
討つかどうか。
危険かどうか。
そういう理屈だけでは済まなくなったからだ。
レオは、飛竜を見つめた。
相手は竜だ。
人より上の場所にいるはずの存在だ。
それが今、地に伏し、血を流し、死の匂いをまといながら人へ頼んでいる。
その頼みの中心にあるのは、誇りでも縄張りでもない。
子だ。
自分がどうなってもいい。
骸は好きにしていい。
ただ、この子だけは頼む。
そして、その言葉には妙なプライドも嘘もなかった。
取り繕う余裕すらない、死に際の本音だった。
「エルマー」
「今の、間違いないな」
「間違いない」
「かなり古い型だが、意味は取れる」
「頼んでるんだな」
「ああ」
「人に」
「そうだ、竜が人に頼んでいる」
エルマーの声にも、さっきまでの浮ついた色はなかった。
未知の言語、未知の飛竜。
本来なら狂ったように目を輝かせる場面だ。
だが、今は違う。
研究対象としての興奮より先に、目の前の竜の言葉が重すぎた。
「くそ、こんな手を使ってくるのかよ…」
ガレスが低く吐き捨てる。
「手じゃないだろ」
「分かってる」
「分かってるなら、そう言うな」
「分かってるから余計に面倒なんだよ」
竜の情けを掛けるな、ほだされるな。
村を優先しろ、危険は断て。
理屈だけなら、それでいい。
だが今の言葉を聞いて、昼と同じようにただ討伐対象として扱えるほど全員は鈍くなかった。
「レオ様」
テオドールが静かに進言する。
「今夜、もう一度判断が変わりました」
「ああ」
「相手は飛竜です」
「だが同時に、子を託そうとしている母親でもある」
「そうだな」
「それをどう扱うかで、村の今後の顔も変わります」
レオは返事の代わりに、ゆっくり息を吐いた。
死にかけの母飛竜が、格下であるはずの人に子を託そうとしている。
新大陸は本当に救いがない
この夜の救いのなさは、爪や牙だけではなかった。
母としての願いが、そこへ混ざってしまったことだ。
それが何より厄介で、何より重かった。
続きが気になる方は、ブクマお願いします!
また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!




