第68話 不束者ですが、よろしくお願いします
ガレスが戻ってきて、客間の空気が少しだけ緩んだ、その時だった。
テオドールが書類を整えながら、ふと口元をわずかに歪めた。
「まあ、この話が来る前にレオ様が先に結婚してしまえば、一つは問題が減ります」
「は?何だ急に」
「急ではありません」
「理屈としては、かなり筋が通っています」
「その顔で言うと余計に怖いな」
テオドールは肩をすくめた。
「分家とはいえ、独立した家です」
「そうだな」
「家長たるレオ様が先に婚姻を決めてしまえば、本家への事後報告でも一応は形になります」
「一応、って何だ」
「文句は言うでしょうが、差し込み婚をやりにくくはなります」
「それは分かる」
「ええ、そこで」
テオドールはそこで、あからさまに冗談っぽい口調を混ぜた。
「アリス殿あたり、どうです?」
「は?」
「年も近いですし」
「ちょっと待て」
「元子爵令嬢ですよ」
「だからやめろ」
そこで、ガレスが盛大に吹き出した。
「っは、はは!」
「師匠まで笑うな」
「いや、すまん」
老剣士は笑いを噛み殺しながら言う。
「でもよ、絵面はちょっと見てえ」
テオドールは、まだわずかに笑みを残したままだ。
「実際、条件だけ見れば悪くないでしょう」
「条件で人を語るな」
「今、婚姻の話をしているので」
「そ、そうか」
「それに、本人が真っ直ぐすぎて政治に向かないのは、逆に安心材料でもあります」
「安心できるか」
「少なくとも、本家の差し込んでくる令嬢よりは」
「それは、まあ」
「ほら」
「ほら、じゃない」
レオは露骨に眉をしかめたが、完全には言い返せない顔をしていた。
それが余計に、二人の笑いを誘う。
レオはテオドールを睨む。
「お前、絶対面白がってるだろ」
「半分くらいは」
「便利な数字やめろ」
「ですが、冗談を抜きにしても先にこちらで婚姻を決めるというのは、本家の搦手を一つ潰す手にはなります」
「それは分かる」
「だからこそ嫌なんだよ」
「なぜです?」
「村の理屈で考える話をしてたのに、最後に俺の結婚へ飛ぶからだ」
「家の話ですから」
「家の話だけどもだ」
ガレスがそこで、まだ少し笑いながら口を挟む。
「アリスか、悪くねぇんじゃないか」
「師匠は、何を当然みたいに」
「いや、だってよ」
「だってじゃねぇよ」
「見目は悪くない。腐っても元貴族。それに開拓村への適正もある」
「かなり優良だろ」
「誰が品定めしろと言った」
ガレスは肩をすくめた。
「坊っちゃんには、あれくらい元気な嫁の方がちょうどいいって言ってるだけだ」
「余計なお世話だ」
「お前、基本ちょっと暗いからな」
「うるさい」
そのやり取りが続いていた、その頃。
客間の外、扉のすぐそばで、アリスは茶の入ったワゴンを押したままぴたりと固まっていた。
リーナの手が少し足りないと聞いて、お代わりを運ぶだけのつもりだった。
ただそれだけだった。
だが、扉の手前まで来た時、中から自分の名前が聞こえた。
アリス殿あたり、どうです。
そこから先は、耳を塞ぐ間もなかった。
年も近い。
元子爵令嬢。
悪くねぇんじゃないか。
元気な嫁の方がちょうどいい。
そこまで聞こえたところで、アリスの頭は綺麗に止まった。
胸の奥がどくんと鳴る。
頬が一気に熱くなる。
恋愛経験など、当然ない。
聖騎士を目指して剣ばかり振ってきた娘に、そういう話への耐性などあるはずもなかった。
嫁。
その二文字が、ありえないほど強く頭の中へ刺さる。
そして、止まったはずの思考が、今度は勝手に暴走し始めた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
領主館の前に、自分が立っている光景が浮かんだ。
レオがいて、自分がいて、二人で村のことを話している。
畑のこと、移住者のこと、湯場のこと、鍛冶場のこと。
自分はただ隣に立っているだけではない。
館の中を回し、時には剣を取り、時には子供を叱り、レオと一緒にこの村を切り盛りしている。
しかも、そこからさらに勝手に先へ飛ぶ。
子供が二人いた。
男の子と、女の子。
男の子はこの村の次の領主になる。
少し無愛想だけど、父親に似て真面目そうだ。
女の子は金の髪を揺らして笑っている。
その子がやがてリデル子爵家を再興させるのだ。
などと、あまりにも都合のいい未来図まで浮かんでしまう。
そこまで行ってから、ようやくアリスは我に返った。
「な、何を考えているんですか私は…」
小声でそう呟いたが、耳まで赤い。
ワゴンを押す手まで熱い。
しかも、よりにもよって相手がレオだ。
女のくせに剣などと言わない。
聖騎士の夢を笑わない。
真っ直ぐな剣を、ちゃんと見てくれた男。
そして、ただの貴族の坊ちゃんではなく、生き死にを潜ってきた剣を持つ男。
そんな人に、自分の名が冗談でも婚姻の相手として出た。
それだけで、胸の奥が妙に騒いで落ち着かなかった。
入るべきか、逃げるべきか。
いや、お茶は運ばなければならない。
アリスはしばらく扉の前で棒立ちになり、最後には半ば勢いで扉を押した。
「誰、誰が何ですか」
客間の中にいた三人が、一斉に固まる。
「聞かれたな」
とガレスが小さく言う。
「聞かれましたね」
とテオドール。
「お前らのせいだぞ」
アリスは俯いたまま、茶の入ったワゴンを押して入ってくる。
「お茶のお代わりをお持ちしようと思ったら、私の名前が聞こえたのですが」
「気のせいだ」
レオが即答する。
「気のせいではないと思います」
「じゃあ聞き間違いだ」
「それも違うと思います」
「鋭いな」
ガレスがぼそりと言う。
アリスの声から、いつもの張りがない。
落ち着いているわけでもない。
少し動揺が混じり、語尾がわずかに震えていた。
それでも、ガーネットに鍛えられたリーナの真似をするみたいに、必死でワゴンをまっすぐ押してくる。
だが、動揺は隠し切れなかった。
レオの顔を見るたびに、さっきの勝手な未来図が頭へ戻ってくる。
隣に立つ自分に、子供二人。
再興されたリデル子爵家。
頭の中だけが忙しすぎる。
「何の話をしていたんですか?」
「政治の話だ」
「私の名前が出る政治って何ですか?」
「教会の件だ」
「でも、年も近いって聞こえました」
「あと、元子爵令嬢とも」
沈黙。
テオドールが、珍しく先に視線を逸らした。
ガレスは完全に面白がっている。
レオは、心底面倒くさそうな顔だ。
「テオドール」
「何でしょう」
「説明しろ」
「なぜ私が」
「お前が始めた物語だ」
「理不尽ですね」
「いいからやれ」
テオドールは小さく咳払いした。
「レオ様の婚姻話です」
「本家の搦手対策として、先に結婚してしまえばいいのではという冗談を」
「その流れで、年の近いアリス殿の名前が出ただけです」
アリスの顔が、そこで数拍遅れて真っ赤になった。
「なっ…!」
アリスは目を白黒させていた。
魔物へ突っ込む時より、よほど動揺している顔だった。
「わ、私は、その」
「落ち着け」
「で、ですが」
「ですが、じゃない」
「でも、年が近いのは事実で」
「そこに引っかかるな」
「で、でも」
頭の中ではまだ、さっきの未来図が消えていない。
しかも、今は本人の前だ。
まともな言葉が出るはずがない。
アリスはついに、半歩前へ出てしまった。
そして、顔を真っ赤にしたまま、何をどう間違えたのかぺこりと頭を下げた。
「ふ、不束者ですがよろしくお願いします!」
客間が完全に止まった。
レオも。
ガレスも。
テオドールも。
全員、一瞬だけ本当に言葉を失った。
「何を言ってる」
「わ、私も分かりません!」
「でも何か、言わなきゃと思って!」
「それは今言うことじゃない!」
「そうですよね!」
ガレスがついに耐えきれず、声を殺して笑い始める。
テオドールはこめかみを押さえていた。
完全に面白がっているのに、顔だけは崩さないあたりが余計に腹立たしい。
レオは額を押さえた。
「お前らな」
「私は黙っていましたよ」
とテオドール。
「黙ってればいいって話でもない」
「ですが、これは予想外でした」
「俺だって予想外だ」
アリスはなおも真っ赤なまま、服の裾をぎゅっと握っていた。
冗談だと分かっている。
本気の話ではない。
それでも、もうだめだった。
頭のどこかで、確かに意識してしまったのだ。
レオを、そういう相手として。
そこへ、廊下の向こうからガーネットの足音が近づいてきた。
「アリスさん」
「は、はい!」
「何を騒いでいるのです」
「えっと、その」
ガーネットは、部屋の中の空気を一瞬で読んだ顔をした。
レオ。
ガレス。
テオドール。
そして、真っ赤になっているアリス。
「なるほど」
「大体の流れは分かりました」
「ガーネットすげぇな」
レオが感心するように口を開いた。
「テオドール様、あとで少しお話があります」
「なぜでしょう」
「ご自分で考えてください」
「理不尽ですね」
「半分くらいは」
「その文化、便利ですね」
アリスはまだ顔を赤くしたまま、視線を泳がせていた。
「わ、私は別に、その」
「分かってる、本気にするな」
「してません!」
「してた顔だぞ」
「してません!」
その声が妙に必死で、今度はガーネットまでほんの少しだけ口元を緩めた。
「アリス、私が引き継ぎます下がりなさい」
「は、はい!」
アリスはそのまま、半分逃げるように廊下の向こうへ消えていった。
扉が閉まる。
少しの沈黙。
それから、ガーネットが静かに言った。
「今後、あまり妙な冗談で振り回さないでください」
「善処します」
とテオドール。
ガーネットは一礼し、今度こそ本当に下がった。
部屋に残った三人は、ようやく少しだけ息を吐く。
ガレスはまだ笑いを引きずったまま、肩を揺らしていた。
「ちょっとだけ、面白かったぞ」
そう言って、老剣士は腹を抑えて笑った。
本家の搦手。
婚姻。
権利の整理。
面倒な話は山ほどある。
だが、村の中ではこうして、少しずつ人の関係も重なっていく。
そしてその頃、廊下の向こうで茶器を抱えたアリスは、壁に背を預けたまま、まだ胸の鼓動を抑えきれずにいた。
「…嫁」
と小さく呟いて、自分で自分の顔がまた熱くなる。
冗談だと分かっている。
でも、もう遅かった。
レオのことを、ただの領主でも、ただの村の男でもなく、
少しだけ別の目で見始めてしまったことを、
アリスはまだうまく言葉にできなかった。
続きが気になる方は、ブクマお願いします!
また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!




