第67話 婚姻という搦手
ハルトを見送ったあと、館の中は少しだけ静かになった。
客間には、さっきまでの茶の香りだけがまだ薄く残っている。
扉の向こうでは、リーナが後片付けに入り、ガーネットが何やら指示を飛ばしている気配があった。
だが、この部屋だけは別だった。
レオはソファに深く座り直し、しばらく何も言わなかった。
向かいにはテオドール。
彼はは茶を一口だけ飲み、いつものように表情を崩さない。
ガレスは腕を組んだまましばらく座っていたが、やがて立ち上がった。
「少し席を外す」
それだけ言って、老剣士は部屋を出ていく。
話の中身が、もっと粘ついた貴族の理屈へ移ったと悟った顔だった。
扉が閉まる。
それでようやく、レオは息を吐いた。
「面倒だな」
少しの沈黙。
それから、テオドールが静かに口を開いた。
「どんな搦手で来るか、細部までは分かりません」
「だろうな」
「ですが、ハルトの言う人を送るというのは十分考えられます」
「やっぱりそうか」
「私もそこは同意です」
レオはテオドールの顔を見た。
「でも、お前の考えは違うって顔だな」
「はい、ハルトの言う手伝い兼監視役とは、少し違う方向性を私は予想しています」
「違う方向?」
「婚姻です」
その一言で、レオの顔が露骨にしかめられた。
「婚姻かよ…」
テオドールは淡々と続けた。
「本家として、正面から分家の領地へ介入するのは難しい」
「そうだな」
「ですが、婚姻を通せば話は変わります」
「妻の実家経由、か」
「そうです」
「嫌な手だな」
レオはソファの背へ頭を預けた。
嫌そうな顔を隠そうともしない。
「新大陸で苦労している弟のため、本家の長たる兄が良縁を世話してやる」
「兄上なら、言いそうだな」
「そこが厄介です」
たしかに、それなら外聞もいい。
兄として弟を思う。
辺境で孤立している分家へ、後ろ盾のある嫁を入れる。
言葉だけ見れば、むしろ親切ですらある。
だが実態は違う。
「嫁の実家が、実質の目になります」
「しかも、監視以上の意味を持ちます」
「どういうことだ」
「婚姻は、人を一人送り込むだけではありません」
「…寝所、家中、後継か」
「その通りです、全部に絡む」
「最悪だな」
「ええ、かなり」
レオはそこで、額を軽く押さえた。
「レオ様が分家として独立してる以上、本家は家の中のことまでは直接口を出しにくい」
「だからこそ、家の中へ入り込める婚姻は便利なんだな」
「そういうことです」
「くそが」
そこが一番面倒だった。
差し出されるのが、どこぞの落ち目の男爵令嬢ならまだいい。
断っても理由を作りやすい。
だが侯爵家と繋がりの深い伯爵家や、有力子爵家あたりの娘が来ればどうなるか。
ありがたい話になる。
ありがたい顔をした紐だ。
「兄上なら、やりかねん」
「やりますね」
「しかも本人は、本気で悪くない手だと思っている可能性すらあります」
「ありそうだ」
少しの沈黙の後、レオは目を閉じたまま言う。
「断る理由は?」
「薄いです」
「即答かよ」
「即答できます」
「少なくとも、嫁はいらないのでは通りません」
「分かってる」
テオドールは淡々としていた。
だが、そこに情がないわけではない。
曖昧な慰めを挟まないだけで、ちゃんと本気で考えている。
「じゃあ、どうする」
「対策はあります」
「あるのか」
「あります」
「聞こう」
テオドールは指を折りながら言った。
「まず一つ、婚姻を家の事情ではなく、領地経営上の問題へずらします」
「ずらす?」
「ええ」
「例えば?」
「今の村は、外から人が流れ込み始めています」
「婚姻より先に、受け入れ体制、住居、食糧、土地整理、役所機能の整備が必要だとする」
「つまり、嫁を迎える前に、領地の骨を固めるべき時期だと」
「その通りです」
「弱くないか?」
「単体では弱いです」
「ですが、他の理屈と重ねれば使えます」
もう一本、指が立つ。
「二つ、分家としての権利文書と開拓名義の整理」
「それはハルトも言ってたな」
「婚姻の話が来る前に、こちらの立場を曖昧にしない」
「家の長として、自ら領地を整える段階にあると外へ示す」
「まだ本家が花嫁を差し込んで家中を整える段ではないという空気を作る」
「空気、か」
「貴族社会では大事です」
「嫌な文化だな」
「ええ、でも使えます」
そして、三本目。
「三つ目、先にこちら側から婚姻の条件を高くしておきます」
「条件?」
「例えば、相手には新大陸暮らしへの適応が求められる」
「まあ、当然だな」
「領地運営に理解があること」
「それも要る」
「本家や実家の過剰介入を認めないこと」
「そして、分家の独立性を侵さないこと」
「かなり露骨だな」
「そこまで条件を並べれば、ありがたい押しつけ婚はかなりしづらくなります」
「そんなの、兄上が飲むか?」
「飲まないでしょうね」
「だったら…」
「だから意味があるんです」
レオはそこで、ようやく少し笑った。
「お前、ほんとに嫌な方向へ頭が回るな」
「褒め言葉として受け取ります」
「今のは褒めてる」
「光栄です」
テオドールはさらに続けた。
「それに、もう一つあります」
「まだあるのか」
「婚姻話が来た時に、一番危ないのはレオ様ご本人が曖昧に受けることです」
「この村が大事なのは分かります」
「分かってる」
「人を増やすために、家格ある婚姻も必要ではと考える可能性も」
「なくはない」
「ただし、村のためになる婚姻ならだ」
「そこが危ないんです」
「何が」
「村のためという言葉は、搦手を飲み込む時の一番便利な毒になります」
「恐ろしいな…」
その言い方は、妙に刺さった。
たしかにそうだ。
自分の好き嫌いなら突っぱねやすい。
だが、村のためになるかもしれないと思った瞬間、線が緩む。
そこへ本家が入ってくる。
「婚姻だけは、急がないと先に決めておいてください」
「村のためを理由に、曖昧に受けない」
「最低でも、春を越して、人の流れと本家の出方を見てからです」
「分かった、そこは守る」
「なら大丈夫でしょう」
「大丈夫か?」
「少なくとも、今の時点で本家の思惑へ飛び込むよりは、ずっとましです」
客間には、また少し静けさが戻った。
婚姻。
それは、村の外から見れば家を整える話に見える。
だが、中へ入ればもっと粘ついた話だ。
だからこそ、今のうちに考えておく必要がある。
「兄上は」
レオがぽつりと言った。
「俺がここまでやるとは思ってなかっただろうな」
「だからこそ、手札を切り替える」
「失敗前提の処理から、成功しかけた分家への制御へ」
「くそだなほんと」
「しかし、こちらも最初の頃とは違います」
「村があり、人がいて、記録も残せる」
「戦う土俵は、ちゃんと作れます」
「そうか」
「そうです」
レオは、そこでようやく長く息を吐いた。
面倒だ。
だが、逃げ場のない面倒ではない。
少なくとも今は考える材料があり、隣に頭脳労働を押しつけられる男もいる。
「よし、何からやる」
「まずは文書です」
「全部、年内に整理しましょう」
「嫌になるな」
「それが仕事です」
レオは、少しだけ笑った。
「婚姻の話まで考えなきゃならんのは、ほんと嫌だが」
「ええ」
「村が大きくなるってのは、そういうことなんだろうな」
「そういうことです」
ちょうどその時、客間の外でガレスの足音が戻ってきた。
扉が開き、老剣士が顔を出す。
「終わったか」
「仕事が増えた」
「そりゃ、ご苦労なことだ」
「婚姻まで来たぞ」
「坊ちゃんがかよ」
「そうなるよな」
「そりゃ面倒だな」
「ガレスの仕事も増えるぞ」
「何だと…」
「本家が送ってきそうな親切な護衛とか、相談役の見分けだ」
「それは俺向きだな」
「だろう?」
そこでようやく、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
春までにやることが、また増えた。
だが、それでいい。
村はもう、ただ生き延びるだけの場所ではない。
だからこそ、貴族の理屈も寄ってくる。
なら、こっちも理屈で備えるまでだ。
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