第59話 過去を知る女、未来を連れて来る少女
ガーネットとアリスが新大陸へ到着したのは、冬の匂いが少しだけ混じり始めた頃だった。
港は、帝都のものとは比べものにならない。
石畳も粗く、倉も小さく、人の流れにも洗練はない。
だが、それでも生きている港だった。
塩の匂いと、魚と、木材と、汗の匂いが混じり合い、荷を運ぶ男たちの怒鳴り声が絶えない。
ガーネットは船を降り、そっと息を吐いた。
旅装の裾を軽く払う。
灰色がかった実用本位の服。
外套の下には、侍女らしい華やかさはない。
あるのは、長旅に耐えるための堅実さだけだ。
だが、肩にかけた革鞄の中には、きちんと収めてあった。
以前、侯爵家で使っていた侍女服。
もう一度袖を通すことになるとは思っていなかったが、捨てられなかった。
捨てられなかったからこそ、今ここにある。
そして、その隣に立つアリスは、最初から戦闘を前提にした装いだった。
教会の祝福を受けたロングソードを腰に差している。
左腕には、同じく祝福を受けた銀製のバックラー。
鎧は亡き父の遺品を打ち直したハーフプレート。
辛うじて、その上からシスターの外套を掛けているから、教会の人間に見えなくもない。
それがなければ、どう見ても若い騎士か傭兵だった。
「相変わらず、目立つわね」
とガーネットが言う。
アリスはきょろりと辺りを見回しながら、胸を張った。
「いいことです!」
「そうかしら」
「辺境では、舐められないことが大事です!」
「たぶん、半分くらいはそうでしょうね」
「半分ですか?」
「もう半分は、無駄に目を引くという意味よ」
「えー」
そう言ってアリスは、外套のフードを軽く払った。
母譲りの長いプラチナブロンドが風に流れる。
陽の光を受けて、細い銀糸みたいに揺れた。
癖のない、真っ直ぐな髪だ。
ガーネットはそれを見て、胸の内で小さく思う。
ほんと、いい意味でも悪い意味でも真っ直ぐよね。
考えも、言葉も、剣も、たぶん生き方そのものも。
だからこそ扱いづらい。
だが、だからこそ嘘がない。
しかも困ったことに、この娘は黙っていればかなり可愛い。
黙っていないから、すぐ全部台無しにするのだが。
目を輝かせて新しい景色を見る時など、年相応の少女らしさがそのまま表へ出る。
司祭が、なぜアリスを同行させたのか。
そこだけは、ガーネットにもまだ腑に落ちないところがあった。
先行者利益のため、教会の人間を一人置く。
そこまでは分かる。
だが、アリスは政治も腹芸もできるタイプではない。
人の顔色を読みながら、教会に都合のいい種を蒔くような人間ではない。
なら、なぜアリスなのか。
新大陸という土地を考慮してか。
アリスの剣士としての実力は高い。
並の騎士より強いことは、ガーネットも知っている。
生存性を重視したのか。
あるいは、あの司祭なりに、教会の色を濃くしすぎたくなかったのか。
「駄目ね」
ガーネットは小さく息を吐く。
「あの人の考えを読むなど、私では無理だわ」
「何か言いましたか?」
「いいえ、何でもないわ」
「では行きましょう!」
切り替えるしかない。
司祭の腹の中より、今は目の前の土地の方がよほど大事だ。
港には、ハルトの商会の男が迎えに来ていた。
「ガーネットさんと、アリスさんで?」
「はい」
「こっちです、馬車を回してあります」
「助かります」
「ハルトの旦那から、大事な客だから丁重に運べと」
「大事な客ですか!」
とアリスが少し嬉しそうに言う。
「私は手荷物みたいなものよ、アリスは大荷物ね」
とガーネット。
「そんなことありません!」
「半分はそうよ」
「半分なんですね」
馬車へ荷を積み込み、二人はそのまま村へ向かった。
港を離れ、少しずつ道が細くなる。
やがてガーネットは小さく目を見開いた。
「道が…まともね」
帝国の主要街道には遠い。
それでも、ちゃんと通すための道になっている。
轍が均され、ぬかるみには石と木片が入れられ、枝も払われている。
辺境の開拓村へ続く道としては、かなりましだ。
アリスは、少し不思議そうに窓の外を眺めていた。
「これ、開拓村がやったんですか?」
「そのはずよ」
「すごいですね!」
「思っていたより、ずっと」
ガーネットは窓の外を見ながら、少しだけ目を細めた。
この時点で、もう分かる。
レオは、放り出された貴族のままではない。
少なくとも、この道一本を見るだけで、誰かが先を見て手を入れていると分かる。
やがて村の外縁が見えた時、今度はガーネットもアリスも、本当に言葉を失った。
「うわぁ」
先に声を漏らしたのはアリスだった。
広い畑がある。
ただあるだけではない。
ちゃんと育っている。
冬用の葉物が緑の葉を付けている。
土には手が入っていて、水路まで走っている。
「水路まであります!」
アリスが興奮を抑えきれない。
「見れば分かるわ…でも…」
思っていたより、はるかに村だった。
もっと荒れた開拓地を想像していた。
柵があり、粗末な家が散り、何とか冬を越えようとしている程度の場所を。
だが違う。
ここはもう、普通の村の顔をしている。
広がり始めた家々。
湯気の立つ建物。
鍛冶場らしき音まで聞こえる。
「すごいです」
アリスが素直に言った。
「ええ」
ガーネットも認めるしかない。
「本当に、すごいわね」
そして、村の前にはもう人影が見えていた。
子供たちがこちらへ気づき、歓声を上げている。
「来た!」
「また馬車だ!」
その声は、ここまで届いた。
怯えた声ではない。
面白いものが来た時の、素直な子供の声だ。
それだけでも、この村の空気が分かる。
「子供が元気ですね」
アリスが窓から顔を出して、子供たちへ手を振る
「そうね」
ガーネットは、その向こうに立つ人影を見た。
前に出ている若い男。
少し日に焼けて、肩の力が変わっていて、だが顔立ちは見覚えがある。
レオだ。
昔はもっと、少し影があった。
肩身の狭さをそのまま背負っているような少年だった。
だが今は違う。
まだ若い。
それでも、ちゃんと前に立つ者の顔をしている。
「あの子」
ガーネットは、ほとんど無意識に呟いていた。
「大きくなったわね」
「知ってる人なんですか?」
「ええ」
「どんな人です?」
「そうね」
ガーネットは少しだけ考え、それから静かに言った。
「昔は、可哀想なくらい周りに気を遣う子だったわ」
「へえ」
「でも今は、少し違うみたい」
「いい意味ですか?」
「たぶん、そうね」
そしてその隣には、老剣士。
さらに少し後ろには、痩せた文官らしい男。
魔法使いらしき、ローブを纏った男もいる。
見れば分かる。
この村は、もう一人では回っていない。
ちゃんと人がいて、動いている。
だからこそ、レオもああいう顔になったのだろう。
馬車が村の入口前で止まる。
子供たちが、きらきらした目で見上げてくる。
その中に、妙に大きな鳥蜥蜴じみたものまでいるのが見えて、アリスが一瞬固まった。
「あれ、何です?」
「まずそこに目が行くのね」
「だって見たことないです!」
「私もよ」
ぴゅい、と鳴く声。
なるほど。
あれが、船を手配したハルトという商人が言っていた魔物の子だろうか。
ガーネットがそう思っている間に、レオがこちらへ歩いてきた。
一歩ごとに、昔の面影と今の顔が重なっていく。
そして、目の前まで来て止まった。
「お久しぶりです」
その一言を聞いた瞬間、ガーネットの中にも昔の光景がよみがえった。
薄暗い部屋と薬草の匂い。
寝台の上で、やせた手を伸ばすリーゼロッテ。
その傍らに立つ、小さなレオ。
母の手を握りながら、泣くのを我慢していた横顔。
廊下の隅で膝を擦りむいて、それでも声を殺していた顔。
自分が名を呼ぶと、少しだけ気を緩めてくれたあの子。
あの頃は、守ってやらなければ折れてしまいそうだった。
だが今、目の前にいるのは違う。
同じ顔立ちなのに、目が違う。
立ち方が違う。
もう、ただ守られるだけの子ではない。
「ええ、久しぶりですね」
ガーネットは少しだけ笑った。
「来てくれて、ありがとうございます」
「礼はまだ早いですよ」
「そうかもしれません」
「まずは、ちゃんと働けるか見てからです」
「そこは変わりませんね」
「変わった方が困るでしょう?」
「たしかに」
そのやり取りに、周りの空気が少しだけ和らぐ。
だが、レオの方は一瞬だけ言葉を失っていた。
近くで見るガーネットは、記憶の中よりずっと大人だった。
当たり前だ、自分が子供だったのだから。
それでも面影はある。
六歳の頃、膝の傷を拭いてくれた優しい手。
母の枕元で静かに湯を替えていた横顔。
自分にとって、母以外で唯一やさしかった人。
昔は綺麗だと思うだけだった。
それが何かも分からず、ただ目で追っていた。
今こうして再会してみると、その頃の妙な胸のざわつきまで思い出してしまう。
少し困る。
かなり困る。
だが、それを顔に出すほど子供でもない。
レオはそこで一度だけ息を整え、それからアリスへ視線を向けた。
そして、一拍止まる。
教会の外套を掛けている。
だが腰には長剣を携えている。
左腕には銀製と思わしきバックラー。
外套の下から見える金属鎧。
どう見ても、付き添いシスターの格好ではない。
レオは、少しだけ警戒した様子で声を掛けた。
「そちらは?」
「アリス=リデルです!」
アリスが胸を張る。
「今回、同行シスターとして参りました!」
「そ、そうか」
「聖騎士志望です!」
「戦うシスターかよ」
とガレスが横でぼそりと言う。
アリスはそこで、ぱっとレオを見た。
近くで見ると、思っていたより若い。
でも、若いだけではない。
ちゃんと人の上に立つ目をしている。
それに、見た目よりずっと柔らかい声をしていた。
この人が、ガーネットさんの昔の主筋。
放逐されても、なお手紙を出させる相手。
そして、こんな村をここまで育てた人。
なるほど、と思う。
少し納得した。
そして同時に、少しだけ胸が弾んだ。
面白そうだ。
この村も、この人も。
アリスは、そういう時の顔を隠せない。
「辺境でも、ちゃんと領主様なんですね」
「一応は」
「いいですね」
「何が?」
「一応って言っちゃうところがです!」
「褒められてるのか、それ」
「かなり!」
その明るさに、近くの子供たちまでつられて笑う。
ガーネットは、そこで静かに目を細めた。
ああ、なるほど。
この娘はこうやって空気を明るくするのか。
騒がしい、無鉄砲。
だが、場に光が入る。
自分は敵ではない。
最初の一手でそう思わせるだけの華やかさが、アリスにはあった。
「事情は後で聞きます」
レオはガーネットを見て言った。
「そうしてください」
「私も、その方が助かります」
その返しに、さすがにレオも少しだけ笑った。
村の前には、子供たちの歓声がまだ残っている。
新しい侍女長候補と、聖騎士志望のシスター。
この村は、どうやらまた一段騒がしくなりそうだった。
続きが気になる方は、ブクマお願いします!
また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!




