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第58話 初恋みたいな記憶、ガーネットへの手紙

新領主館が形になり始め、リーナとサラが正式に入ることになったところで、すぐに別の問題が浮かび上がった。


当たり前だが、二人とも侍女としては初心者だった。


リーナは真面目だ。

静かな仕事にも向いている。

言われたことを丁寧に積むのも得意だろう。


サラは読み書きができる。

書類や来客の振り分けにも強い。

頭も回るし、場数もそこそこ踏んでいる。


だが、それと侍女の作法は別だった。


「礼法の教育がいりますね」


テオドールが言った。


新領主館の会議室になる予定の部屋で、レオとテオドールは向かい合っていた。

まだ壁の木の匂いが新しい。


「やっぱり、礼法がネックになるな…」


「ええ、素人目に見ても貴族の家に仕えるレベルにはありません」


「来客の通し方、茶の出し方、部屋の整え方、主の衣服や寝具の扱いとかだな」


「そこが一番大きいでしょうね」


「ただ、家事が出来るだけじゃ駄目か」


テオドールは少しだけ書類から目を上げた。


「私も、最低限の礼法は知っています」


「リーナとサラに指導できるか?」


「無理です」


「だろうな」


「レオ様は?」


「無理だ」


「でしょうね」


「即答するな」


そこへ、ガレスが戸口から顔を出した。


「何の話だ」


「侍女教育の話だよ」


「無理だな」


「師匠も即答か」


「傭兵が侍女を育てられたら怖いだろ」


「それはそうだ」


実際、そこはもう笑って済ませるしかなかった。


レオもガレスも、戦いと生き延び方は教えられる。

テオドールも書類と段取りは教えられる。

だが、侍女のちゃんとした仕込みは別物だ。


そこには、館の中で長く積まれた知識と作法が要る。


「なら、呼ぶしかないか」


レオがそう言った時、テオドールが顔を上げた。


「心当たりが?」


「ああ」


「誰です」


「昔の伝だ」


レオは少しだけ黙ってから、続けた。


「まだ、母が生きていた頃」

「母の専属侍女として仕えていた女がいた」


「専属侍女ですか」


「そうだ」


「信頼できる方ですか?」


「できる」


「かなり?」


「かなりだ」


その答えに迷いはなかったので、テオドールも表情を変えた。


「差し支えなければ、お名前を伺っても?」


「ガーネットだ」


「今はどこに?」


「母が亡くなったあと、すぐに屋敷から放逐された」


部屋の空気が少しだけ重くなる。


分かりきった話ではある。

平民の妾の侍女など、後ろ盾の主が死ねば真っ先に切られる。


「その後、帝都の下町でシスターになったって聞いた」


「修道女に?」


「実際に見に行ったわけではないがな」


「なぜまた」


「母の霊を慰めるためだとか、そんな話だった」


レオは、そこで少しだけ目を伏せた。


母のことを口にする時だけ、今でも少し空気が変わる。

恨みではない、怒りでもない。

もっと静かな、置き去りにしたものへの感覚だ。


「仕事振りも、人柄も問題ない」

「母のそばにいた頃、あの人だけは変に気取らず、それでいてきっちりしていた」


「それだけではなさそうですね」


テオドールが、少しだけ意地の悪そうな表情を見せた。


レオは少しだけ苦く笑った。


「そうだな」


レオは、六つか七つの頃のことを思い出し始めた。


まだ母が生きていた頃。

とはいえ、生きていると言っても、あの頃の母はもう長く床を離れられなかった。

病が重く、部屋の中はいつも薬草の匂いがした。


リーゼロッテは平民の女だった。

侯爵に見初められて妾になったが、屋敷の中では最初からよそ者だった。

笑顔で頭を下げながら、目だけで見下してくる連中はいくらでもいた。


その中で、ガーネットだけは違った。


当時、二十くらい。

辺境の騎士爵家の娘で、末端とはいえ貴族の生まれだ。

本来なら、平民上がりの妾など見下してもおかしくなかった。

だが、ガーネットは一度もそういう顔をしなかった。


母に対しても、まだ幼かったレオに対しても、表と裏を使い分けることなく、最初から最後まで誠心誠意だった。


レオが覚えているのは、薄暗い母の部屋だ。

寝台の上で、顔色の悪いリーゼロッテが笑っている。

その傍らで、ガーネットが静かに湯を替え、薬を煎じ、枕元を整えていた。


あの屋敷の中で、優しくしてくれたのは二人だけだった。

母であるリーゼロッテと、その母に仕えていたガーネット。


廊下で上の子らに突き飛ばされて、レオが膝を擦りむいたことがあった。

泣くのを我慢して、誰にも見つからないよう隅へ隠れた。

泣けば余計に惨めになると、子供なりに分かっていたからだ。


そこへ見つけたのが、ガーネットだった。


「レオ様」


そう呼ぶと、しゃがんで何も聞かずにハンカチで血を拭いた。


「痛いのは、痛いでいいんですよ」


「母さんに心配を掛けたくない」


「我慢が偉い時もあります。でも、我慢しなくていい相手には、我慢しなくていいんです」


そう言って、ガーネットは笑った。

あの時のことを、レオは妙にはっきり覚えている。


綺麗だった、優しかった。


たぶん、あれは子供の初恋みたいなものだったのだろう。

もちろん、当時のレオにそんな言葉はなかった。

ただ、母の部屋にガーネットが来ると、少し安心した。

それだけは確かだった。


「屋敷の中で、あの人だけはちゃんと人として接してくれた気がする」

「母にも、俺にも」


レオは静かに言った。


テオドールは、その言葉を聞いてすぐに頷いた。


「そこまでレオ様が言うなら、十分ですね」


「そうだな、呼べるなら呼ぶべきだ」


ガレスも同意する。


「そうだな…頼んでみるか」

「侍女長を任せるのに足ると思う」


「お前がそこまで言うなら足るだろ」

「少なくとも死にぞこないの傭兵や、書類屋が見よう見まねで教えるより百倍いい」


それは、ひどくもっともだった。



その日のうちに、レオは手紙を書くことにした。


机に向かい、筆を持つ。

だが、最初の一行がなかなか出ない。


「珍しいですね」


テオドールが横から顔をだした。


「何がだ」


「レオ様が迷っているので」


「うるさい」


「戦の段取りや、商隊への文ならもっと早いでしょうに」


「まあな」


「母君の関係者だからですか」


「たぶん…そうだ」


レオは正直に答えた。


ガーネット。

あの女は、母の死後自分まで守れる立場ではなかった。

それは分かっている。


だが、あの時代を知る人間へ、自分から来てくれと頼むのは、思っていた以上に妙な気分だった。


「どう書けばいいと思う」


「率直に、レオ様のお気持ちを述べればいいかと」


「飾らず?」


「はい」


「貴族っぽくなく?」


「今さら取り繕う方が変です」


「それもそうか」


ガレスが横で笑った。


「来てほしいなら、そう書け」


「雑だな、師匠は」


「十分だ」


「いや、もう少しこうあるだろ」


「会いたいなら、会いたいでもいい」


「それは少し違う」


「なら、頼りたいだな」


その言葉が、一番しっくり来た。


頼りたい。


まさに、その通りだった。


レオは再度筆を取り、今度は止まらなかった。


ガーネットへ。


久しい、などと書くべきかは分からない。

あなたがこの手紙を読む頃、驚くか呆れるか、その両方かもしれない。


俺は今、新大陸の開拓村にいる。

侯爵家から放り出されたと聞いているかもしれないが、事実その通りだ。


ただ、思っていたより悪くない。

村は小さいが、ようやく回り始めている。

畑があり、水路があり、鍛冶場と錬金術師のアトリエも動き出した。

領主館も建て直している。


そこで、あなたに頼みたい。


村に、館を回せる人間が必要になった。

若い娘が二人入るが、侍女としては初心者だ。

俺にも、ガレスにも、他の村人達も、当然ながらまともに教えることはできない。


あなたの仕事振りと人柄は覚えている。

母のそばにいた頃、あなただけは本当にきちんとしていた。

あの屋敷で、母とあなただけが、俺に優しかったことも覚えている。


もし、今の暮らしを捨てることが苦でなければ。

もし、まだこの名前に少しでも縁を残してくれているなら。

この村へ来てほしい。


侍女長として、館を回してほしい。

そして若い者を育ててほしい。


断るなら、それで構わない。

だが、来てくれるなら本当に助かる。


レオ=アルヴェイン


「いいんじゃないですか」


テオドールが、手紙を清書しながら言った。


「ずいぶん素っ気ないな」


「変に飾るより、ずっといいですよ」


「そうか」


レオは手紙を見下ろした。

下手に貴族ぶった文より、こっちの方が届く気がした。



ハルトの商会へ託す段取りはすぐ決まった。


次に港へ向かう便に乗せる。

帝都の下町にある教会区画まで、ハルトのツテを使えばそれなりの速さで届くだろう。


「来ると思うか」


「半々ですね」


テオドールが手紙に封蠟を施しながら返した。


「低いな」


「いえ、高い方です」


「そうか」


「修道に入った人が、外へ戻るのは軽くない」

「ですが、レオ様個人への情もあるかもしれない」


「俺に?」


「母君ごと、でしょうね」


「なるほど」


ガレスはそこで、短く言った。


「来るさ」


「適当だな」


「傭兵の勘だ」


「当たるのか」


「絶対外れて欲しくないときは当たる」


「雑だな」


「だが、お前の母親に本気で仕えてたなら」

「放ってはおかねえ気がする」


その言い方は、妙に胸に残った。

来るかもしれない、来ないかもしれない。

それは分からない。


だが少なくとも、頼るに足る人間の顔を、レオが今でも覚えていたことだけは確かだ。

手紙は出した。

後は待つしかない。


だが、待つ間にも村は止まらない。

領主館は建つ。

家は埋まり、人が来て、仕事が増える。

だからこそ、侍女長が要る。


この館を、ちゃんと回すために。

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