第46話 村になった夜
村へ戻った時点で、もう空気が違った。
担架に乗った鹿を見た瞬間、子供たちは目を輝かせ、女たちは一斉に台所仕事の顔になり、男たちは肩を叩き合って笑った。
「鹿だ!」
「今日は肉だぞ!」
子供たちはもう、大騒ぎだった。
鹿は巨猿とも火尾鶏とも違う。
あれは化け物を倒した肉だ。
だが鹿は違う。
森へ入り、狩りをして、仕留めて持ち帰った村の肉だ。
それが、皆にとって妙に嬉しかった。
解体は広場の端で行われた。
ガレスが手早く指示を飛ばし、レオが若い連中へ要所を教え、女たちは臓物と肉を見分けながら手際よく分けていく。
初めての鹿だ。
だが、もうただ喜ぶだけの村ではない。
肉は食う、皮は使う。
骨も取り、脂も残す。
全部が資源だと、もう分かっている。
マルタが肉の張りを指で確かめながら言った。
「いい鹿だよ」
それを聞いた子供たちが、また騒ぐ。
「大当たり!」
「今日はいっぱい食べられる!?」
「食べられるとも!」
広場には、久しぶりに肉の匂いを待つ空気が満ちていた。
肉はすぐにいくつかの形へ分けられた。
筋の多いところは煮込み。
脂の乗ったところは焼き。
柔らかい部位は薄く切って炙る。
パン炉の熱が、こういう時は本当に強い。
じわじわと鍋を温め、炙り用の石板もすぐに熱を抱く。
温かい湯はもうある。
香草も少し使える。
塩も、商隊から入った分がある。
前なら、鹿が獲れたところで、ここまでちゃんと食卓へ持っていく形は作れなかっただろう。
「ほんと、村になったねえ」
マルタが鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
誰に向けたわけでもない言葉だったが、近くにいた何人かが静かに頷いた。
肉があり、パンがある。
火は消えず、水路には水が流れている。
少し前には、考えにくかった光景だ。
やがて夕方が落ちる頃、広場いっぱいに鹿肉の匂いが広がった。
焼ける匂い、煮える匂い。
脂がじゅっと音を立てる匂い。
子供たちはもう待ちきれない。
男たちも露骨に落ち着きがない。
女たちは女たちで、鍋の味見をしながら口元が緩んでいる。
「まだかい!?」
「まだだよ!」
「さっきからそればっかりだな!」
「だって鹿だよ!?」
そう言い返す子供の声に、広場のあちこちで笑いが起きる。
レオはその様子を見ながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば」
「ん?」
ガレスが振り返る。
「酒がまだ少しあったな」
その一言で、近くにいた男たちの耳がぴくりと動いた。
バルドが振り向く。
ミハルも止まる。
男達は、持っていた木椀を落としかける。
「酒?」
「今、酒って言ったか?」
「まだあったのか!?」
レオは少しだけ口元を歪めた。
「前に少し取っておいたやつがある」
「出すのか?」
「出すぞ」
その瞬間、男たちが本当に歓声を上げた。
「おおっ!」
「久しぶりだぞ!」
「やった!」
子供たちは子供たちで「酒ってそんなにいいの?」という顔をしている。
女たちは呆れたように笑う。
「男ってほんと分かりやすいねえ」
「鹿肉よりそっちの顔してるよ」
「違う違う、両方だ!」
その言い訳に、また笑いが起きた。
レオは肩をすくめながら言った。
「パン炉が動いてる」
「水路も通った」
「卵も安定してきた」
「畑も動き始めた」
「狩猟も今日、一歩目ができた」
広場が少し静かになる。
「まだ全部が安定したわけじゃない」
「でも、流れはでき始めた」
「だから今日は出す」
「おお!」
「久しぶりに飲むぞ!」
その時、誰かが大声で叫んだ。
「宴会だ!」
「宴だ!」
その声が、あっという間に広場へ広がる。
「今日は祭りだろこれ!」
酒は、樽の底に少し残してあった分と、瓶に詰めてあった分をかき集めた。
大量ではない。
村中が酔いつぶれるほどでもない。
だが、こういうものは量の問題ではない。
今日は飲んでいい日だという許しの方が大きい。
女たちは笑いながらも、しっかり肉を盛り、パンを並べ、汁をよそう。
酒だけでは終わらない。
ちゃんと食わせる。
そこが村の女たちの強さだった。
やがて、木皿が並び、鍋が中央へ置かれ、焼いた鹿肉が塩を振られて回り始める。
最初のひと口を食べたのは、子供だった。
「うまっ!!」
「鹿ってすごい!」
「もっと!」
それを見て、大人たちも一斉に手を伸ばす。
焼いた肉は、野性味がある。
だが臭みは少なく、噛むほどに旨味が出る。
煮込みは柔らかく、塩と香草だけでも十分うまい。
鹿の脂はくどくない。
それが逆に、パンともよく合った。
酒が回り始めると、男たちは露骨に機嫌が良くなった。
「ミハルの二射目、よかったぞ!」
「いや、最後はガレスさんだろ!」
「最初の一本外した時はどうなるかと思ったぞ!」
「言うなって!」
笑いが起きる。
肉が回り、酒が減る。
子供たちは子供たちで、鹿肉を頬張りながら、ヒイロやアカネたちへ肉を取り分けていた。。
「アカネ食べすぎ!」
「ぴ!」
「ヒイロとスミは生のほうがいいのかな?」
そのやり取りを見て、また笑いが広がる。
「宴って、こういう感じか」
レオがぽつりと漏らすと、ガレスが横で笑った。
「何だその言い方」
「いや、あんまり縁がなかった」
「貴族の宴はあっただろ」
「そういうのじゃない」
「どう違う」
「こっちは、腹が満ちて、明日も少しやれそうで、だから飲むんだ」
「そうだな」
「そっちの方が、宴らしい」
「違いねえ」
しばらく、二人はそのまま広場を見ていた。
女が笑い、男が騒ぎ、子供が肉を頬張る。
それはきっと、前の領主たちがいた頃にはなかった宴だ。
ちゃんと、自分たちの力で掴んだ肉と、今の流れの上にある宴。
それが、妙に良かった。
宴の熱は、夜が更けてもすぐには冷めなかった。
パン炉の火は静かに息をし、焼けた鹿肉の匂いはまだ広場に残る。
酒の回った男たちの笑い声が、ときおり大きく弾ける。
子供たちはとうに眠そうなのに、まだ起きていたがっていた。
女たちは呆れた顔でそれを追い立てながら、どこか自分たちも楽しそうだった。
レオは少し離れた場所に立ち、その光景を眺めていた。
大した宴ではない。
豪奢な料理もなければ、音楽隊も、銀食器もない。
あるのは、鹿肉と、温かいパンと、少しばかりの酒だけだ。
それでも、こんなにも満ちていると思える夜は、たぶん初めてだった。
村人たちが笑っている。
腹を満たし、酒を回し、明日の話をしている。
ただ今日を耐えきった顔ではない。
ちゃんと、明日も生きるつもりの顔だ。
「いい顔になったな」
誰にともなく、レオはそう呟いた。
少し前まで、この村にあったのは不信と諦めばかりだった。
侯爵家に見捨てられた村。
いつ潰れてもおかしくない、細い息の集まり。
だが今は違う。
巨猿を倒した。
火尾鶏を討った。
パン炉ができた。
狩猟も形になり始めた。
商隊とも繋がった。
まだ、何も完成してはいない。
それでも、村はようやくただの捨て置かれた開拓地ではなくなった。
ちゃんと、村になり始めている。
だが、ここで満足するわけにはいかなかった。
レオは広場の外れから、村全体を見渡す。
柵はまだ仮のままだ。
家々は粗末で、壁板の隙間から風が入る。
畑は増えたとは言えない。
水路だって、まだ試験段階にすぎない。
「やることは多いな」
その言葉に、隣で同じように広場を見ていたガレスが鼻を鳴らした。
「本当に村を太らせるなら、もう一段大きい流れが要る」
「ああ」
レオはさらに視線を遠くへ向けた。
森の向こう、港へ繋がる方角だ。
「あと、港までの道」
「せっかくハウルの商隊が定期的に来るんだ」
「こっちも、誠意は見せたい」
「誠意、ねえ」
「道が少しでもましになれば、向こうの荷も傷みにくい」
「来やすくもなる」
「それはでかい」
「村に店を出すって話だって、ただ口だけじゃ終わらせたくない」
ガレスはそこまで聞いて、少しだけ笑った。
「商売のことまで言うようになったか」
「村の頭なら、そこも見るだろ」
「板についてきたな」
レオは答えず、今度は家々を見た。
あばら家だ。
正直に言ってしまえば、その一言に尽きる。
雨が強ければ不安だ。
風が吹けば寒い。
冬が来れば、今のままでは耐えきれない家もあるだろう。
面倒事は、山ほどある。
これからも、次から次へと出てくるだろう。
それでも、不思議と重苦しくはなかった。
むしろ、充実していた。
やるべきことがある。
それが全部、この村を良くすることに繋がっている。
その感覚は、レオにとって初めてのものだった。
「侯爵家にいたままだったら」
ぽつりと、言葉が漏れる。
ガレスは何も言わない。
ただ、続きを待った。
「たぶん、こんな気持ちにはならなかった」
「適当に飼われて、適当に使われて、そのままどっかの分家か、辺境の飾りで終わってた」
「でも、今は違う」
「自分でやってる感じがする」
「そうだろうよ」
ガレスの返事は、いつも通り素っ気なかった。
だが、それで十分だった。
自分で決めて、自分で動いて、人を動かして、村を前へ進めている。
それが、こんなにも胸を熱くするものだとは思わなかった。
広場では、まだ宴が続いている。
ミハルが鹿の仕留めの話で笑われていて、
ユルが「いや、最初の一矢は悪くなかった」と言い訳している。
マルタは酒の回った男たちをまとめて怒鳴っていた。
アカネたちは檻の中で丸くなっている。
それでも、時々ぴっと鳴く。
パン炉の火は今日も消えない。
水路には細い水が流れている。
畑には、まだ小さいが希望の種が入った。
隣村も、ひとまずは立っている。
ここまで来た。
本当に、ようやく。
レオは、宴の灯りの向こうを見た。
森があり、港があり、隣村があり、そして、この先にまだ見ぬ新大陸の広がりがある。
やることは山ほどある。
でも、それでいい。
今はもう、それを面倒だと思うより先に、少しだけ楽しみだと思えていた。
「行くか」
レオがそう言うと、ガレスが短く頷く。
「ああ」
「次の一手だ」
「お前の好きなやつだな」
「嫌いじゃない」
「知ってる」
そして二人は、まだ笑いの残る広場へ戻っていった。
宴の夜は、もう少しだけ続く。
だがその先には、次の仕事が待っている。
開拓は、まだ始まったばかりだ。
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