第45話 鹿一頭の重み
森へ入ると、朝の空気はまだ冷たかった。
湿った土の匂い。
鳥の声に、遠くで枝が擦れる音。
そして、獣の気配もある。
「悪くないな」
とガレスが低く言った。
「いますね」
とミハルが声を潜める。
レオが周囲を見渡しながら、若手に指示を出す。
「だが、獲物を見る前に風を見ろ」
「風ですか」
「匂いが流れる。こっちの気配も、向こうの気配も、風で読める」
「はい」
狩猟班は二手に分かれた。
射手側と追い立て側。
射手はミハルとユル。
まだこの中では一番、弓の形になっている二人だ。
若い男二人はその補助であり、次の番でもある。
レオとガレスは追い立て側に回る。
弓は持っている。
だが今日は、自分たちが仕留めるためではなく、獲物を射手の筋へ流すために持ってきた。
「本当に射たないんですか」
ミハルが小声でレオに聞く。
「お前らが外した時だけ射つ」
「それ、だいぶ重いですね」
「そう思え」
配置につく。
鹿道を見て、風下を避け、獲物が抜けやすい筋を読む。
森の中は開けていない。
だからこそ短弓が活きる。
枝に引っかからず、さっと構えられる。
「いたな」
最初に気づいたのはガレスだった。
前方、少し開けたところ。
雌鹿が一頭。
さらにその奥に、若い雄が一頭。
二頭いる。
だが、狙うのは一頭だけだ。
老剣士が目だけで合図する。
レオも小さく頷いた。
若い雄、まだ大きすぎない。
肉も取れる、角もそこそこ。
初手としてはちょうどいい。
レオとガレスは、そこでゆっくり左右へ広がった。
真っ直ぐ追わない。
逃げ道を絞る。
焦らせるが、散らせない。
「ここだな」
ガレスが言うと、レオも目だけで了解を返した。
二人は弓を握ったまま、わざと小さく草を鳴らした。
枝を踏み、土を擦る。
何か来ている、と鹿に知らせる程度に。
雌鹿が先に顔を上げる。
耳が立つ。
若い雄も、少し遅れて首を上げた。
次の瞬間、二頭は反応した。
だが、思った通りだ。
まっすぐ奥へ逃げるのではなく、横へ抜ける。
そこが、射手の待つ筋だった。
二人は完全に勢子へ徹した。
大声は出さない。
だが、圧だけはかける。
鹿が走る。
枝を跳ね、下草を蹴り、開けた筋へ入る。
「今だ」
レオの低い声が飛ぶ。
ミハルが弓を引いた。
ユルも続く。
飛んだ矢は、わずかに前へ流れた。
だが、悪くない。
鹿を大きく乱すには十分だった。
続けて、ユルの矢が鹿の後ろ脚の付け根あたりを掠めた。
致命ではない。
だが当たった。
「よし、続けろ!」
ガレスが吠える。
鹿が大きく跳ねる。
痛みで走りが乱れる。
その一瞬で、ミハルがもう一度引いた。
今度は深く息を入れ、肩を上げず、腰で支える。
骨鏃の矢が、鹿の脇へ深く刺さった。
「入った!」
とミハルが叫ぶ。
「まだだ!近づくな!」
レオが即座に注意をとばす。
若い雄鹿は、なおも走る。
だが、さっきまでの勢いはない。
血が出て、足も乱れている。
そこで初めて、ガレスが自分の弓を上げた。
「見とけ」
短く言って、引く。
無駄がない。
矢は低く速く飛び、鹿の首筋の少し後ろへ深く入った。
鹿が大きくよろめく。
「今だ、囲め!」
レオが今度は声を張る。
若い男二人が左右から回る。
ミハルとユルも、指示通り真正面ではなく半円を作るように動く。
鹿はなおも一度だけ跳ねた。
だが、そこで足がもつれ、ついに崩れた。
土へ倒れる。
脚が二度、三度と空を掻いて、それから止まった。
森が静かになる。
誰もすぐには動かなかった。
初めての組織的な狩り。
そして、初めて自分たちで追い立てて、射って、仕留めた鹿。
その重さが、一拍遅れて全員に落ちてくる。
「やった」
とミハルが呟く。
「やったな」
とユル。
「本当に…」
若い男が声を漏らす。
「静かにしろ」
ガレスの声は少しだけ柔らかかった。
「まだ終わってねえ」
「息を見ろ。周りを見ろ。一本で浮かれるな」
「はい」
返事には、さっきまでとは違う熱があった。
レオは鹿の脇へしゃがみ込み、刺さった矢を見る。
ミハルの二射目は十分いい位置だ。
ユルの一射目も浅く当てて流れを乱した。
そして最後はガレスが締めた。
「悪くない」
「本当ですか」
ミハルとユルが、笑顔を見せる。
「ただし、最初の一本は焦った」
「ユル、お前は当てたが、あれで終わったと思うな」
「はい」
「でも二人とも、射った後に前へ出すぎなかった。そこはいい」
「そこはちゃんと狩猟班だった」
それを聞いた瞬間、二人の顔が変わった。
嬉しさだけではない。
自分たちはちゃんと班として動けたのだという、自信へ変わる顔だった。
ガレスが少しだけ笑う。
「鹿一頭、初回はそれで十分」
「欲張らなかったから取れた」
若い男二人も、倒れた鹿を見て目を輝かせていた。
まだ弓を射つ番ではなかったが、自分たちの班で取った獲物だという実感があるのだろう。
「これ、村まで運べますか」
若い男がレオに聞く。
「運ぶ、そのためにお前らがいる」
「はい!」
ミハルとユル、若い男達が両手を突き上げていた。
帰り道、鹿は簡易の棒担架で運ぶことになった。
軽くはない。
だが、その重さが今日は心地いい。
レオは、担がれて揺れる鹿を見ながら思った。
これで終わりじゃない。
ここから始まる。
全部が少しずつ繋がり始めている。
「初陣としては、上出来だな」
「八割くらいな」
ガレスが鹿を見ながら返す。
「またそれか」
「嫌いじゃねえだろ」
「まあな」
森の入口が見えてくる。
村の匂いもする。
狩猟班はちゃんと班として森へ入り、班として戻る。
しかも鹿を一頭連れて。
それは、村にとって思っている以上に大きい一歩だった。
村の手前まで戻ったところで、レオは一度立ち止まった。
担架の上には鹿。
若い連中の顔には、初めて獲物を持ち帰る高揚がはっきり出ている。
だからこそ、今ここで言うべきだと思った。
「浮かれるな」
その一言で、全員の顔が少し締まる。
レオは鹿を見て、それから狩猟班の面々を見渡した。
「獲物を仕留めた時が、一番無防備なんだ」
「倒した、取れた、終わった。そう思った瞬間に、人間の気は緩む」
レオは続ける。
「だが、森はそこで終わらない」
「血の匂いを嗅いで寄る獣もいる」
「仲間の獣が近くにいることもある」
「仕留めた獲物に気を取られて、周りが見えなくなる。それが一番危ない」
ユルが小さく頷いた。
「確かに、鹿が倒れた時、ちょっと前へ出そうになりました
それから、レオは少しだけ声を強くした。
「だから決めておけ」
「一人は必ず、獲物の回収中も警戒を切らすな」
「解体でも、担ぎ上げでも、血抜きでも同じだ」
「全員で獲物を見るな」
「一人は必ず、外を見る」
「それが班だ」
ガレスが横から補う。
「獲物を取った時に死ぬやつは多い」
「欲しかったもんが目の前にあると、人は前しか見なくなる」
「だからこそ、後ろを見るやつを決めとくんだ」
「はい」
今度の返事は、全員ちゃんと重かった。
もうただの初めて鹿が取れた嬉しさだけの顔ではない。
狩りが仕事であり、生き残るための技術だと、少しだけ分かった顔だ。
「今日は俺とガレスがいた」
「でも次からは、お前らだけで入る日も来る」
「はい」
「その時に、生きて帰るための決まりを今のうちに染み込ませろ」
「分かりました」
レオはそこで、ようやく少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ帰るぞ」
「はい!」
「今日は鹿だ」
とガレス。
「次も鹿とは限らん。だが、今日の教訓は忘れるな」
「はい!」
担架がまた持ち上がる。
鹿が揺れる。
村の匂いが近づく。
初陣は、ただ獲物を取って終わったわけではない。
狩猟班としての形も、少しだけ持ち帰ることができた。
それが、今日一番大事な収穫だった。
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