第123話 まだ政治の距離で
レオたちが館へ入ると、村人たちはようやく息をつくことができた。
誰かが大声を出したわけではない。
何か決定的に恐ろしいことが起きたわけでもない。
それなのに、広場に残った皆の肩からは同じように力が抜けていた。
「本物だね」
最初に口を開いたのはラナだった。
誰もすぐには返さなかった。
だが、その言葉には皆が頷いていた。
ただ威張るだけの貴族とは違う。
声を荒げたわけでもない、見下したわけでもない。
それなのに、立っているだけで分かる。
あれが、本物なのだと。
「怖いってのとも違うんだよな」
ミハルが頭を掻く。
「こっちが勝手に背筋を伸ばしたくなる感じだ」
「それだね、偉そうじゃないのにちゃんと上だと分かる」
マルタも腕を組みながら頷いた。
「そこがまた本物っぽい」
「冷たいだけなら、もっと楽だったろうにね」
ラナは領主館の方を見ながら、最後にぽつりとこぼした。
子供たちは子供たちで、別の意味で大騒ぎだった。
「見た?」
「銀の髪だった!」
「ほんとに絵本みたいだった!」
女の子たちは、もう完全に目を輝かせていた。
大きなドレスを着ていたわけではない。
王冠があったわけでもない。
それなのに、そう見えてしまう。
服や飾りだけの話ではないと、子供でも分かってしまうのだ。
男の子たちは、もっと単純だった。
「おい、なんか言えよ」
バルドが笑うと、一人が呆けたまま答えた。
「きれいだった」
別の子も真顔で頷く。
「でも、ほんとにきれいだった」
大人たちも、その感想は否定しなかった。
結局それが、一番素直な感想なのだろう。
噂で聞くのと、実際に広場へ降り立つのを見るのとではまるで違う。
この村は今日、本当に一段変わったのだ。
「見物は終わりだ」
「いつまでも呆けてると格好悪い、仕事に戻れ」
ガレスが軽く腕を振りながら、全体へ向けて話した。
そうして人はまた散っていく。
だが、誰もが心のどこかで思っていた。
今日からこの村は、もう一段上の空気と付き合うことになるのだと。
館の中へ入った瞬間、セラフィーナは空気の変化を感じた。
外とは違う。
広場は土と風と人の熱の場所だが、館の中は整える意志の場所だった。
扉が閉まり、外のざわめきが一段遠のく。
代わりに、床板の軋みや茶器のわずかな触れ合いといった小さな音が浮いてくる。
まず、清潔だった。
豪奢ではない、それは最初から分かっている。
宮殿でも、帝都の古い名家の本館でもない。
辺境の領主館だ。
だが、清潔さは格とは別だ。
そこに手が入っているかどうかは、一歩入れば分かる。
床は磨かれている。
角に埃が溜まっていない。
急ごしらえで取り繕っただけの館なら、どこかに綻びが出る。
ここはそれが少ない。
悪くない、とセラフィーナは思った。
少なくとも、辺境だから仕方ないという甘えは感じない。
先導するガーネットの足取りにも目がいく。
速すぎず、遅すぎず。
振り返る角度も間の取り方も、ちゃんと訓練されている。
若くはない。
だが、年を取っただけの侍女ではない。
館の芯を支える人間の歩き方だった。
「こちらでございます」
ガーネットが客間の前で頭を下げる。
「お疲れのところ恐縮ですが、まずはお茶を」
「ええ、頂くわ」
客間へ入ると、そこもまた静かだった。
広くはない。
だが、狭苦しくもない。
余計な飾りを置いていないぶん、かえって空間が整って見える。
セラフィーナは、そこで初めてほんの少しだけ肩の力を抜いた。
辺境にしては想像以上だ。
辺境にしてはという留保はつくが、その中ではかなり上だ。
ここまで持ってくるには、ただ金を使っただけでは足りない。
整えようとする意志がいる。
茶が運ばれてきた。
給仕役はリーナだ。
少し緊張しているが、手は震えていない。
後ろにつくサラは、客間全体へ意識を配っている。
茶器そのものより、誰が何を必要とするかを見ている顔だった。
完璧ではない。
帝都の大貴族の本邸にいる侍女たちほど、洗練されきってはいない。
だが、十分に仕込みが入っている。
ここ数日で詰めたのではない。
詰めた部分もあるだろうが、それだけではここまでの動きにはならない。
元からある程度の芯があり、そこへ急いで線を通した。
そういう仕上がりだった。
リーナが茶を置く。
わずかに間が硬いが、位置は正確だ。
「失礼いたします」
「ありがとう」
セラフィーナが言う。
リーナの目が一瞬だけ揺れた。
返されると思っていなかったのかもしれない。
だが、すぐに頭を下げる。
「恐れ入ります」
その後ろで、ガーネットの視線がほんのわずかに動いた。
褒めも叱責もしない、ただ見ていた。
レオは向かいへ腰を下ろしながら、セラフィーナの視線の動きを見ていた。
見ているな、と思う。
ただ客として座るのではなく、館の癖を拾っている。
あの短い時間で、たぶん相当なことをもう見ているのだろう。
「どうだ、この村の印象は?」
「正直に言っても?」
「そうしてくれ」
セラフィーナは、茶へ手を伸ばす前に答えた。
「辺境にしては、想像以上です」
「そこは正直だな」
「嘘をつく理由がありません」
「それもそうか」
少し離れたところで控えていたアリスが、思わず胸の前で拳を握りそうになっていた。
だが、ぎりぎりで止める。
ガーネットの視線があるからだ。
それでも、顔には少しだけ出ていた。
褒められたんだ、村がと。
セラフィーナは、その小さな変化を見逃さなかった。
「ただし、辺境にしてはという前提が付くわ」
「帝都と比べれば、足りないものは当然ある」
「でも、足りないことを分かっていて詰めた跡がある」
「そこは評価できます」
ガーネットが、その言葉へ静かに頭を下げた。
「ありがたく存じます」
「あなたが整えたのね」
「恐れ入ります」
その時だけ、ガーネットの声がほんの少しだけ柔らかくなった。
セラフィーナは茶を一口含んだ。
「静かなのがいいわ」
「静か?」
「見せたいものを並べすぎていない」
「足りないからといって、飾りで埋めようとしていない」
「それは品になります」
レオは、その言葉を少し意外に思いながら受けた。
「そういうもんか」
「辺境だからと焦って、帝都の真似事を雑に持ち込む方がよほど見苦しい」
その返しを聞きながら、レオは思った。
悪くない。
思っていたより、ずっと。
最初から噛み合うわけではない。
そんなことは分かっていた。
だが、少なくとも空気は壊れていない。
セラフィーナは、見て判断したうえで言葉を返す。
こちらも、それを受け止めている。
そこが成立しているだけで、最初としては十分だった。
そして、もう一つ。
やはりこの女は、思っていた以上に生きている。
姿絵では美しかった。
だが、それだけだった。
今、目の前にいるセラフィーナは違う。
見ているだけで、無意識に目が引かれる。
それは政治とは別の感覚だった。
まだ名前もつかない、ごく小さな引力のようなもの。
レオは、それを自覚しきる前に胸の奥へ押し込めた。
「その…セラフィーナ様」
ガーネットの傍で控えていたアリスが、少しだけ前へ出た。
「何か?」
「館だけじゃなくて、村もちゃんと整えてます」
「アリス、落ち着け」
レオがアリスへ視線を投げた。
「す、すみません」
「謝るな」
「はい…」
セラフィーナは、そのやり取りを見ていた。
この少女は分かりやすい。
そして、その分かりやすさに少しずつ慣れてきている自分にも気づいていた。
セラフィーナは、得に気にはしてないように見えた。
レオは、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
悪くない。
最初の印象としては、それで十分だった。
少なくとも、互いに相手を値踏みするだけで終わってはいない。
会話が成立している。
それは領主と領主婦人になりうる相手として、かなり大きかった。
「長旅だったろう、まずは休んでくれ」
「そのつもりです」
「客間の隣に部屋を用意してある」
「我々は?」
ミラが少しだけ眉を上げた。
エリーは変わらず笑みを絶やさない。
「侍女お二人はこちらへ」
「護衛のお二人は、外寄りの部屋を」
ガーネットが、静かに答える。
若い侍女たちも、ここで初めて館の中を細かく見ることになる。
たぶん彼女たちの評価もまた、これから始まるのだろう。
セラフィーナは立ち上がった。
その動き一つ取っても静かだ。
だが、ただ静かなだけではない。
ここから先を見るために、一度切る動きだった。
「では、少し落ち着いてからまたお話を」
「ああ、その方がいい」
館の中に、まだ張りつめた空気はある。
だが、その空気はもう最初の鋭さではなかった。
辺境にしては想像以上。
その評価から始まるなら、悪くない。
そう思えるだけの手応えが、この最初の客間にはあった。
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