第121話 村が変わる境目
昼を少し回った頃だった。
村の見張りに立っていた若者が、広場へ駆け込んできた。
「来た!」
張った声が広場へ飛ぶ。
「来たぞ!公爵家の馬車だ!」
その一言で、村が揺れた。
荷を運んでいた男たちが顔を上げる。
水路脇で話していた女たちが一斉に村の入口の先を向く。
子供たちは何が起きたのか半分も分かっていないくせに、大人の空気に引っ張られて背伸びした。
「ほんとか!?」
「見えるのか!」
「どこだ!」
「ほら、あの先だ!」
「うわ、ほんとだ」
「まじかよ…」
ざわめきが、波のように広がっていく。
知っていたし、話も聞いていた。
準備だってしてきた。
それでも、実際に道の向こうに馬車が見えた瞬間それは全部別物になった。
来るらしいではない、本当に来たのだ。
館の前では、すでにレオたちも出ていた。
レオ、テオドール、ガーネット、ガレス。
その少し後ろに、リーナとサラ。
広場の空気が揺れる中で、彼らだけはもう位置を取っている。
「見えたな」
レオの声にも、若干の緊張がある。
「ええ、予定通りです」
テオドールは、いつものようにレオの後ろに控えていた。
「予定通りでも、実際に見えると違うな」
レオは小さく息を吐いた。
「分かっていた話と、目の前に来る話は別です」
ガーネットは、視線を道の先へ置いたまま静かに頭を下げた。
「レオ様、館の中は整っています」
「そうだな、苦労を掛けた」
そう返しながらも、レオの視線は前から動かなかった。
馬車が少しずつ大きくなってくる。
レオは無意識に息を整えた。
逃げる気はない。
受けると決めた、迎えると決めた。
覚悟はしていた。
していたが、覚悟と現実は別だった。
胸の奥が、少しだけ熱を持った気がした。
緊張か警戒か、それとも別の何かか。
自分でもうまく分からない。
一方、村人たちのざわめきは収まりきらなかった。
「公爵家の馬車…」
「思ったより普通じゃないか?」
「普通ってなんだよ」
「もっと金ぴかだと思ってた」
「それはそれで嫌だろ」
「たしかに」
ラナが腕を組み、少しだけ目を細めた。
「マルタ、派手じゃないね」
「そうだね」
「でも、いいものだって分かる」
「分かる人には分かる、ってやつかい?」
「そういうのが一番高いのさ」
「嫌な話だねえ」
「でも本当だよ」
ドーレン達大工衆は、少し離れたところから馬車の動きを見ていた。
「揺れが少ないな」
「荷馬車と違うんだよ」
「そうだろうな」
「でも、面倒そうだ」
「村がまた一段変わるのも分かる」
子供たちはもっと素直だった。
「おひめさま?」
「公爵家って、おひめさまなの?」
「違うだろ!」
「でも、すごい人なんだよね?」
「たぶん!」
そこでマルタの視線が飛び、子供たちは揃って少し静かになった。
だが、その目だけは道の先から離れない。
馬車の方でも、村が見えてきていた。
最初は道の先に家々の影が見えただけだった。
次に水路の線、広場の開けた空間。
そして奥に見える領主館。
「あれが…この村の?」
セラフィーナが無意識に呟いていた。
「領主館です」
アリスが答えた。
セラフィーナの視線が、自然とそこへ向く。
まだ距離はある。
だが、見える。
セラフィーナは何も言わなかったが、視線は一瞬も逸れなかった。
アリスは、その横顔をちらりと見る。
セラフィーナが、もうすぐレオと会う。
その事実だけで、胸の奥が少しだけざわついた。
嫌だ、とはもう簡単には言えない。
この人が来ることは、村のためになる。
それは分かっている。
でも、分かっているのと平気でいられるのは別だった。
それでもアリスは前を向く。
ここまで来たのだ。
目を逸らしている場合ではない。
アリスは目を閉じて、心の中でだけ言う。
「レオ様…来ました」
村のざわめきは、馬車が近づくにつれてまた質を変えた。
ただ騒いでいたものが、少しずつ見る空気に変わっていく。
馬車の金具、馬の毛並み。
護衛の立ち姿。
そして、窓の内側にいる女の影。
「あれが…」
誰かが小さく呟く。
「セラフィーナ様?」
まだ顔までははっきりしない。
それでもいると分かるだけで、広場の空気はまた張った。
テオドールが、レオへ小さく耳打ちした。
「思った以上に持ちこたえています、騒ぎすぎていない」
「昨日までの積み重ねだろ」
「そうですね」
ガーネットも静かに確認する。
「リーナ、サラ」
『はい』
「ここから先、声を上げすぎない」
「動きも急がない」
『承知しました』
ガレスは腕を組んだまま、道の先を見ていた。
「坊ちゃん」
「なんだ」
「顔、硬いぞ」
「うるせえ、分かってる」
「悪くねえ、逃げる顔じゃない」
「当たり前だ」
そう返しながら、レオはもう一度だけ息を整えた。
逃げる気はない。
だが、軽く受ける気もない。
ここが境目だと分かっていた。
公爵家令嬢がこの村へ入る。
それはつまり、この村がもう以前のままではいられないということだ。
道を作り、詰め所も作った。
館も整え、村人にも伝えた。
全部、今日のためだった。
ここでぶれたりはしない。
馬車がついに広場まで来た。
ここまで来ると、村人たちにもはっきり見える。
そして、窓の内の顔がはっきり見えた。
銀の髪、整いすぎた顔立ち。
ガラス越しでも、格の違いが村人達にも理解できた。
「うわ…」
「ほんとに公爵令嬢」
「きれい…」
「なんだあれ、人か?」
「失礼だぞ」
「でも分かるだろ」
ざわめきは小さいのに強かった。
大声ではない。
けれど、見た者から順に飲み込まれていく感じだ。
この女は、来ただけで空気を一段変える。
マルタが小さく息を吐く。
「ラナ、これはすごいね」
「立ってるだけで、周りが勝手に静かになる顔だよ」
「棘があるねぇ、ラナ」
「公爵家令嬢ってのは、ああいうのなんだろうさ」
子供達も、さすがに声を潜めていた。
「ほんとに、おひめさまみたい」
「おい」
「でも、分かるよ…」
本当に来た。
公爵家令嬢セラフィーナ・ウインザルフが、この村へ。
夏が来る前に、この村は一つ変わる。
そう思っていた。
その境目は、たぶん今だ。
馬車が止まる。
先にアリスが降り、侍女服の女が二人続いた。
広場はしんと静まっていた。
もう、ざわめきすらない。
誰もが見ている。
誰もが、この一瞬を覚えてしまうだろうというくらいに。
レオは一歩前へ出た。
ガーネットが、ほんのわずかに息を整える。
テオドールは静かに背筋を伸ばす。
侍女が扉を開け、護衛の女が手を差し出す。
セラフィーナが降りてくる。
春の終わりの光の中で、その銀の髪がほんの少しだけ揺れた。
村が静かに息を呑んだ。
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