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幕間⑧ さよならとは言わない

そのころ、帝都のウインザルフ公爵邸。

セラフィーナの出発前夜。


公爵家の屋敷は、表向きはいつもと変わらぬ静けさを保っていた。


使用人たちの足音は抑えられ、廊下の燭台は整然と灯り、磨き抜かれた床は月光を鈍く返す。


客を招く夜ではない。

宴の夜でもない。

だが、屋敷全体がどこか張りつめていた。


それも当然だろう。


明日、セラフィーナ=ウインザルフは帝都を発つ。

新大陸へ、婚約者のもとへ。

その事実を、屋敷の誰もが知っていた。


セラフィーナの私室に、派手な荷はなかった。

大きな衣装箱はある。

だが、その中身は帝都の令嬢らしい華美な飾りではない。


実用性を重視した衣服。

悪路に耐える靴。

最低限の宝飾。

それに、いくつかの書物。


机の上には、整然と分けられた束が置かれていた。

セラフィーナがこれまでの情報をもとにまとめた、新大陸の資料だ。


公爵家の令嬢の出立というより、赴任前の官僚の机に近い。


「お嬢様、衣装はこちらでよろしいでしょうか」


控えていた侍女長が静かに言った。


「ええ、無駄に増やす必要はありません」


「ですが」


「夜会へ行くわけではないわ、帝都の空気を箱に詰めて持っていく気はないの」


「承知いたしました」


侍女長はそれ以上言わず、一礼して布を畳み直した。


長年仕えた侍女だ。

主が何を削り何を持っていくのか、その意味をよく分かっている。


セラフィーナは窓辺に立っていた。

カーテンは半ば開いている。

窓の向こうには、帝都の夜があった。


石造りの街。

無数の灯。

遠くに見える宮城の明かり。


幼い頃から見慣れた景色だ。

明日には、その景色が背後へ回る。


セラフィーナは、皇帝との謁見を思い出していた。


帝都を脅かすような土地にしろ。

あの男は、笑ってそう言った。

無能を装うことに疲れ果てた皇帝は、本気で帝国をひっくり返したがっている。


セラフィーナは静かに目を閉じた。


復讐のために新大陸へ行くのではない。

逃げるためでもない。

婚約破棄の埋め合わせでもない。


帝都の外に、新しい理屈を作る。

それが結果として、帝国へ影を落とすならそれでいい。


「雅ではあるわね」


小さくそう呟いて、セラフィーナは少しだけ口元を緩めた。


誰に聞かせるでもない。

ただ、自分の矜持に対して言っただけの言葉だった。


そんな時、扉が静かに叩かれた。


「お嬢様、閣下がお話があられるそうです」


長く仕えている侍従の声だ。

セラフィーナが侍女長へ目線で合図をする。


侍女長が静かに扉を開けると、公爵家当主ヒカシュー=ウインザルフが入ってきた。

その後ろから、侍従が影のように付き従う。


公爵家当主であり、セラフィーナの父。

今夜ばかりは、公爵としてより父として部屋へ入ってきたように見えた。


とはいえ、その足取りに乱れはない。

この男もまた、感情を大きく表へ出す質ではない。


「まだ起きていたか」


「明日出る娘に、それを言いますか」


「まあ、そういうな」


「そうですか」


短いやり取りの後、ヒカシューは部屋をぐるりと見た。


厳選された衣服に書類の束。

護身も兼ねた魔法の杖。


娘の選んだ出立の形だ。


「思った以上に削ったな」


「必要なものはあります」


「向こうにいけば、そうそう持ってはこれんぞ」


「向こうで要るものではありません」


「そうか」


ヒカシューは、そこで窓の外へ目を向けた。


「後悔はないか」


「ありません」


その返事を、ヒカシューは否定しなかった。

否定する理由もない。


もうここまで来たのだ。

娘は決めている。

ならば父がすべきは、迷いを増やすことではない。


「セラフィーナ」


「はい」


「新大陸は、帝都ではない」


「承知しています」


「不便も多いだろう」


ヒカシューは、そこで少し間をおいた。


「だが、足りぬからこそ作れる」

「お前はそういう娘だ」


セラフィーナは、わずかに目を細めた。


父から露骨に褒められることは、そう多くない。

まして今夜のような夜には、なおさらだ。


「珍しいですね、お父様がそんなことを言うのは」


「娘が家を出るのだ、少しくらいは言わせてくれ」


その言葉に、セラフィーナはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「向こうで、最初から全部を握ろうとするな」


「分かっています」


「お前は、できてしまうから危うい」

「相手が未熟であればあるほど、先に全部見えてしまう」

「だが、見えてもすぐに取るな、隣に立つ余地を残せ」


セラフィーナは、少しだけ沈黙した。

ヒカシューの言いたいことは分かる。


レオは帝都の教育を受けた貴公子ではない。

辺境で村を起こしてきた若い当主だ。

剣の腕はあるだろう、腹も据わっているだろう。

だが、帝都の理屈すべてに長けているわけではない。


そこで自分が先に全部を整えてしまえば、婚約は成立しても並び立つことにはならない。


「分かっています、奪うために行くのではありません」

「作るために行きます」


「ならいい」


そう言いながら、ヒカシューが侍従へ視線を向けると、侍従が何かを手渡した。

受け取って、セラフィーナへ向き直る。


「持っていけ」


「これは?」


「茶葉だ。お前が普段飲んでいたものだ」


セラフィーナは、そこで初めて少しだけ意外そうな顔をした。


「お父様が、そのようなものを?」


「なんだ、不満か?」


「いえ、少し意外です」


「向こうへ行けば、しばらく同じ味は手に入るまい」

「最初の一杯くらい、飲み慣れたものがあってもいい」


セラフィーナは、包みを受け取った。


高価な宝飾でもない。

権威を示す印でもない。

ただの茶葉だ。


だが、今夜はその方がよほど胸に残った。


「ありがとうございます」


「お前のそういう顔も久しぶりだな」


ヒカシューが部屋を出ようとした時、セラフィーナは静かに呼び止めた。


「お父様」


「なんだ」


「婚約破棄の件、まだあれを屈辱だと思っています」


「知っている」


「ですが、それだけではなくなりました」


ヒカシューは振り返らなかった。

ただ、足を止めた。


「新大陸へ行くことは、もう私自身の選択です」

「誰かの尻拭いではありません」


「よろしい、それでこそウインザルフの娘だ」


「はい」


それだけ言って、父は部屋を出た。

扉が閉まる。

セラフィーナは、しばらくその音の残りを聞いていた。


夜は深い。

だが、眠気はなかった。


侍女たちも、やがて最後の確認を終えて下がっていく。

部屋には、セラフィーナ一人になった。


彼女は机の前へ座ると、白紙を一枚引き寄せる。

ペンを取るが、書くことはなかった。


書きたい言葉があるわけではない。

上手く説明できない感傷を、この夜に残すつもりもない。


代わりに、頭の中にはまだ見ぬ土地の輪郭が浮かんでいた。


レオ=アルヴェイン。


まだ顔を見たことはない。

噂と報告と、紙の上の情報だけだ。


それでも、帝都の男たちとは違うだろうと思う。

少なくとも、完成された男ではない。

整えられた道の上で、正しい手順だけを踏んできた男ではない。


未完成の土地で未完成のまま立ち、それでも形にしてきた男だ。

そのことが、少しだけ興味深かった。


「どういう方なのかしらね」


誰もいない部屋で、セラフィーナは小さく呟いた。


帝都の男たちのように、完成された礼と理屈を纏っているわけではないだろう。

だが逆に、だからこそ見えるものもあるはずだ。


辺境へ追いやられてなお潰れず、村を起こした。

人を集め、商いを動かしている。


それは、少なくとも無能の所業ではない。


「未完成の土地で立っていられる方なら、退屈はしなさそうね」


その言葉に、自分で少しだけ笑った。

婚約相手として考えるには、少し不遜な感想かもしれない。

だが、それが今の本音だった。


怖れがないわけではない。

帝都を離れる不安がないわけでもない。

知らぬ土地へ入る緊張も、当然ある。


それでも、その先にいる男がただの飾りではないと思えることは、悪くなかった。


セラフィーナは立ち上がり、窓辺へ戻った。


帝都の灯が広がっている。

幼い頃から見てきた景色だ。

もう明日には、離れていく景色でもある。


「さよならとは言わないわ」


小さくそう言う。


「いずれ、こちらから見返してあげる」


それは帝都への別れではなく、宣言に近かった。


セラフィーナ=ウインザルフは、逃げるのではない。

座を移すだけだ。


そしてその先にある新大陸は、左遷先でも傷を隠すための舞台でもない。

自分の手で新しい理屈を立てる場所になる。


まだ見ぬ婚約者も、まだ見ぬ土地も、すべては明日から現実になる。

夜風が、少しだけカーテンを揺らした。


出発前夜。

帝都最後の夜は静かだった。

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