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第110話 聞いた話

ガーネットから母の指輪を受け取って数日が経った、ある夜のことだった。

レオは珍しく、自分からガレスを酒に誘った。


場所は領主館の一室、とはいっても執務室や応接室ではない。

もっと小さな、物置にしてもいいような小部屋だ。


小さな木の机と椅子が二つ。

酒瓶が一本。

つまみは、水針蜥蜴の舌炙ったもの。


豪華ではない。

だが、気を抜いて話すにはちょうどいい。


「珍しいな、坊ちゃんから酒なんざ」


「たまにはある」


「そうか?」


「半分くらいはな」


「便利な数字だな」


「だろ」


ガレスはそこで、少しだけ目を細めた。


「でも、今日は違う顔してるぞ」


「そうかもな」


レオは酒を注いだ。

自分にも、ガレスにも。


しばらくは、たいした話はしなかった。


村のこと、新入りのこと。

ユアンはやっぱり足が速いなとか、アズは焼き肉の味を覚えやがったとか、そんな話だ。


二杯目に入ったあたりで、レオは不意に口を開いた。


「これは、聞いた話なんだが」


「聞いた話…ね」


「そうだ」


「便利な前置きだな」


「便利だろ」


「それで?」


レオは、杯の縁を指でなぞるようにしながら言った。


「帝都の下町に、どこにでもあるようなパン屋があった」


ガレスは何も言わない。

ただ、静かに聞いている。


「そこに娘がいた」

「貴族のお嬢様みたいに華やかなわけじゃない、気品があるわけでもない」

「ただ普通の、少しだけ笑顔の優しい娘だった」


レオは、少しだけ視線を落としたまま続けた。


「その娘はある日、たまたま下町へ来ていた上級貴族に見初められた」

「屋敷へ上がってほしいと」

「平民じゃ断れなかった」


ガレスは茶化さない、急かしもしない。

そういう時の相手として、この男はやはりちょうどいいとレオは思った。


「ほどなくして、その貴族は娘に手をつけた」

「だが、無責任ではなかった」

「子供が生まれたが、きちんと認知した」

「貴族籍まで与えた」


レオはそこで杯をあおった。

味は分かる。

だが、いつもより少し喉に引っかかる気がした。


「その貴族は、娘に安らぎを求めたのかもしれない」

「ごく普通の、少しだけ笑顔が優しい娘に」

「貴族の令嬢にはない何かを、求めたのかもしれない」


そこで、レオは一度言葉を切った。


「しかし、彼女は若くして亡くなった」

「原因は分からない」

「一説では、疎ましく思った正妻の仕業だとも」

「まだ幼い子供を残して死んだ」


そこまで言って、ようやくレオはガレスを見た。


「彼女は、幸せだったのかな」

「どう思う」


蝋燭の火がが小さく揺れる。

外はもう夜だ。

村のざわめきもここまでは届かない。


ガレスは、すぐには答えなかった。

酒を一口飲み、それから低い声で言った。


「難しいな」


「だろうな」


「簡単な話じゃねえ」


ガレスは椅子へ少し深く腰を預けた。


「幸せだったかどうかなんざ、本人にしか分からねえ」

「周りが勝手に決めるもんでもねえ」

「だが、その貴族がただ食い散らかして捨てたわけじゃねえなら」

「その娘にとって、全部が地獄だったとは限らん」


レオは黙って聞いていた。


「平民の娘だ、貴族の屋敷へ上がるなんざ怖かっただろうさ」

「断れもしねえ、自分で選んだ道とも言いにくい」

「でも、その中で子供が生まれて、認知されて」

「その子を見てた時間もあったんだろ」


ガレスは、そこで少しだけ目を細めた。


「なら、生まれてよかったと思った時はあったかもしれねえ」

「全部が嘘だったら、その子に何か残そうなんて思わねえだろ」


レオの目が、ほんの少しだけ潤んだ。

あの指輪の重さを、無意識に思い出していた。


ガレスは、それに気づいているのかいないのか。

そのまま続けた。


「幸せだったかって聞かれりゃ、そうだとも言い切れねえ」

「平民の娘が上級貴族に見初められるなんざ、おとぎ話みてえに聞こえるが」

「実際は、怖えことの方が多い」

「周りの目も、屋敷の空気も、正妻も」

「全部あの娘には重かったろう」


レオはそこで小さく笑った。

笑ったというより、苦く息を吐いたに近い。


「そうだろうな」


「幸せだったかなんて他人が決める事じゃねぇよ」

「そういう話だ」


しばらく、沈黙が落ちた。


悪くない沈黙だった。

断言しない。

綺麗にもまとめない。

その曖昧さが、逆にありがたかった。


「でも」


「なんだ」


「その娘が、子供に何か残してたとしたら」

「それは、全部が悪かったわけじゃないってことか」


ガレスはそこでレオを見た。

まっすぐではない、少しだけ斜めから。

昔から知っている年長者の目で。


「そうかもしれねえな」

「少なくとも、その子にゃ生きてほしかったんだろ」

「自分が死んだ後も、覚えててほしかったのかもしれねえ」

「自分みてえな目に遭っても、全部を諦めるなって意味かもしれねえ」

「何か残したなら、そこに願いはあったはずだ」


レオは杯を見下ろした。

母のことを、全て思い出せるわけじゃない。

下町のパン屋の娘だった頃の顔なんて、知るはずもない。


けれど、少しだけ笑顔の優しい娘だったと。

そういう話を、誰かから聞いたことはある。


その娘が上級貴族に見初められ、子供を生み、若くして死んだ。

それでも何かを残した。

その流れを自分の中でどう整理すればいいのか、まだよく分からない。


「坊ちゃん」


「なんだ」


「その話、聞いた話って顔じゃねえぞ」


レオは、そこで少しだけ口元を歪めた。


「うるせえ」


「そうかよ」


「そうだ」


「じゃあ、それでいい」


ガレスは、それ以上は踏み込まなかった。

ただ酒を注ぎ直し、いつもより少しだけ柔らかい声で言う。


「一つだけ言っとく」


「なんだ」


「その娘が幸せだったかどうかは、誰にも決められねえ」

「でも、その子がこれからどう生きるかは、その子が決められる」


レオはゆっくり頷いた。


その言葉は、妙に胸へ落ちた。

母の人生を、今から救うことはできない。

正妻がどうだったのかも、確かなことは分からない。

幸せだったかどうかも、結局は誰にも言い切れない。


だが、自分がこれからどう生きるかは、自分で決められる。

少なくとも今は、そうだ。


「そうだな」


「そうだ」


そこでようやく、少しだけ酒の味が戻った気がした。


「ところで」


ガレスが不意に言った。


「なんだ」


「その聞いた話の子供なんだけどよ、だいぶ面倒な村を作ってるらしいな」


「うるせえ」


「でも、悪くねえ」


「そうか」


「そうだ」


ガレスは、そこで少しだけ笑った。


「少なくとも、その娘が見たら笑うかもしれねえ」

「なんだこの忙しい村は、ってな」


「それは言いそうだな」


「だろ」


部屋の中の空気が、ようやく少しだけ軽くなった。

夜は静かだ。

その静けさの下で、春はもうかなり近づいている。


それでもこの夜だけは、少しだけ昔の話をしていたかった。

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