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第109話 母が遺したもの

レオが水針蜥蜴の討伐祝いで半ば宴会のようになった広場を離れたのは、夜もだいぶ更けてからだった。


館へ戻ってからも、休めるわけではない。

ガーネットと向かい合い、セラフィーナを迎えるための準備を詰めていた。


リーナとサラの礼法を、もう一段引き上げること。

館の中での立ち居振る舞いを揃えること。

そして、レオ自身もこれまで後回しにしてきた貴族としての振る舞いを見直すこと。


「リーナとサラは飲み込みが早いです」

「ただ、まだ村で通じる段階です」

「公爵家令嬢を迎えるなら、そこでは足りません」


「俺も似たようなものだ」


「はい、レオ様もです」


その言い切り方に、レオは苦笑した。


「相変わらず容赦ないな」


「必要ですので」


「違いねえ」


一通りの話が終わる頃には、さすがに疲れが出ていた。

水針蜥蜴の討伐からの解体と宴会、そのあとに館での打ち合わせだ。

今日は長い一日だった。


ガーネットが一礼して部屋を出たあと、レオはようやく椅子へ深く腰を下ろした。

少しだけ目を閉じる。


レオがうとうとしかけていたその時、扉が静かに叩かれた。


「レオ様、夜分に申し訳ございません」

「ひとつ言い忘れていたことがございます」


ガーネットの声だ。


「大丈夫だ、入ってくれ」


扉が静かに開き、ガーネットが入ってくる。


いつもの侍女服。

背筋は伸びている。

だが、先ほどまでとは空気が違っていた。


「遅くに失礼いたします」


「どうしたんだ?」


「お渡しすべき物がございます」


レオは、少しだけ眉をひそめた。

書類などではない。

その言い方は、もっと個人的な何かだ。


ガーネットは部屋の中央までは来なかった。

数歩進みそこで止まる。


それから、胸元の小さな内ポケットから布に包まれたものを取り出した。


「お預かりしていた物です」


「誰からだ」


ガーネットは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「リーゼロッテ様からです」


「母上…か」


レオの声がそこで少し低くなる。


リーゼロッテ。

母の名を、この館で口にする者はレオとガーネット以外にはいない。

ガレスでさえも、彼女のことはよく知らないはずだ。


自分が死ねば、本妻たちがその痕跡を消す。

母自身がそう言っていたことを、レオも曖昧に覚えている。


ガーネットは、ゆっくりと布を開いた。

中にあったのは、小さな指輪だった。


金でも銀でもない。

上等な細工もない。

宝石もない。


いかにも、平民が持っていそうな飾り気のない指輪。

少し古びている。

だが、きちんと磨かれていた。


「これを母上が?」


「リーゼロッテ様が、その母君から譲り受けたものだと伺っています」


レオは黙って指輪を見た。

侯爵家の奥に似つかわしくないほど、地味な品だった。

あの家の中では、誰も目を留めないような代物だろう。


だからこそ、重かった。


「貴族の品ではありません」

「ですが、リーゼロッテ様にとっては何より手放したくなかったものの一つかと」


部屋の空気が静かに変わる。


華やかな遺品ではない。

むしろ目立たない。

だからこそ、母がこれを残した意味が重く感じられた。


「リーゼロッテ様は…」


ガーネットは静かに続ける。


「ご自分が召された後、本妻方は自分の痕跡をほとんど消し去るだろうと仰っておりました」

「ですので、これは私へ託されました」


「レオ様が、もし誰かと結婚することがあれば」

「その時に渡してほしい、と」


レオはしばらく何も言わなかった。

その指輪をじっと見つめていた。


小さくて軽い。

値のあるものには見えない。


だが、母が残したものだ。

自分が誰かと結婚する時に渡せと。


それはつまり、リーゼロッテがレオの未来を見ていたということだ。


侯爵家の都合でもなく。

本妻たちの理屈でもなく。

レオ個人の、その先を。


「母上らしいな」


「豪奢な物ではございません」

「大事な物を大事な時まで隠すという意味では、とてもリーゼロッテ様らしいかと」


「そうだな」


「リーゼロッテ様は、ご自分が残せるものがそう多くないと知っておられました」

「だからこそ、形のないものより小さくても確かに残るものを選ばれたのだと思います」


レオはその言葉を聞いてから、ようやく指輪を受け取った。


指の上に乗せると、本当に軽い。

拍子抜けするくらい軽い。


なのに、妙に手の中へ残る。


「なんで今なんだ」

「もっと前でもよかっただろう」


「いえ」


ガーネットは首を振る。


「今でなければなりませんでした」


「縁談が現実になったからです」

「本当に、レオ様が誰かを迎える可能性が目の前まで来た」

「だから今です」


今までのレオにとって、結婚など遠い話だった。

辺境へ追いやられ、生き延びるだけで精一杯だったのだから。


だが今は違う。

セラフィーナが来る。

公爵家令嬢が、現実にこの村へ輿入れしてくる。


それが政治であれ、家の理屈であれ、結婚の形を持っている以上この指輪を渡す時は今しかない。


「そうか」


「はい」


「ガーネット、よく残してたな」


「残したのではありません」

「預かっただけです」


「ただ、絶対に失くさぬようにはしておりました」

「本妻方の目もありましたので」


「だろうな」


「ええ」


レオは手の中の指輪をじっと見つめた。。


「すまん」


「謝ることではございません」


「たぶん、母上はガーネットだから預けたんだ」

「それを今まで守ったのはガーネットだ」

「だから、礼くらいは言わせてくれ」


ガーネットは、そこでほんの少しだけ目を細めた。


「そう言われると、報われます」


「ならよかった」


しばらく沈黙が落ちた。

悪い沈黙ではない。

指輪が小さいぶん、その沈黙の方がずっと大きく感じられた。


「レオ様」


「なんだ」


「それをどうするかは、レオ様が決めることです」

「セラフィーナ様へ渡すのか」

「あるいは、渡さぬのか」

「その価値まで含めて、決めるのはレオ様です」


レオは、その言葉にゆっくり頷いた。


今回の話は、政略であり家の話だ。

公爵家の理屈だ。


その中にあってなお、この小さな指輪だけはリーゼロッテがレオへ残したものだ。


侯爵家の品ではない。

公爵家へ渡すための物でもない。


母から子へ残されたものだ。


「分かった」


「はい」


ガーネットは一礼して、部屋を出ようとした。

だが、扉へ手をかける前に少しだけ立ち止まる。


「最後にひとつだけ」


「なんだ」


「これを託された時、リーゼロッテ様は微笑んでおられました」

「レオのお嫁さんを見たかったな…と」


「そうか…」


「はい」


扉が閉まる。


手の中には、小さな指輪がある。

豪奢ではないし、目立ちもしない。


リーゼロッテ。

この指輪をガーネットへ託し、自分が誰かと結婚する時に渡せと言った。

その気持ちだけは不思議と分かる気がした。


「母上」


小さく呟く。


春の終わりから初夏。

結婚が現実に近づいている。


その前夜みたいな時間の中で、この指輪はあまりにも静かだった。


レオは椅子へ座り、指輪を掌の上で転がした。

この先、どうするのか。

いつ渡すのか。

そもそも、渡すのかどうか。


それはまだ決めない。

だが、母がこの時のために残したのだということだけは、はっきりと分かった。

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