第103話 二人の空
春の終わりが近づくなか、鐙の試験も並行して進められることになった。
ドーレンとエルマーが頭を突き合わせて作った試作品は、まだ荒い。
だが、形としては十分だった。
革を主体にし、金具は最低限。
ヴァルカの鱗の流れを邪魔しないよう、腹側へ回す固定もかなり慎重に作られている。
人間の馬具ほど完成されてはいない。
それでも、試してみる価値はあるところまでは来ていた。
「問題は、まずヴァルカの許可だな」
レオが試作品を眺めながら言う。
「坊ちゃん、そこは雑に行かねえんだな」
ガレスが少し茶化すように笑う。
「飛竜だからな」
後日、ヴァルカに話を振ると実にあっさりしていた。
『たかが、その程度で我は揺らがぬ』
エルマーから、ヴァルカの言葉を聞いたドーレンが腕を組んで唸る。
「言うねえ」
『問題はない。好きに試せ、だとよ』
エルマーが続ける。
「助かるな」
ドーレンは小さく息を吐いた。
試験の日は、風も穏やかでよかった。
西の丘、いつもの場所だ。
ヴァルカは少しだけ面倒そうな顔をしながらも、じっとしてくれている。
飛竜の顔で面倒そうというのも妙だが、少なくとも人の細工に付き合ってやっている感はあった。
ドーレンが鐙を確認する。
革の締まり、金具の位置、重さの偏り。
「よし、今のところ浮きはない」
「乗って違和感があれば、すぐ言ってくれ」
「言うのはヴァルカの方だろ」
レオが準備をしながら、軽く返す。
「細かいこと言うな」
レオは、すでに何度かヴァルカの背に乗ったことがある。
徐々に慣れてはきてるし、ましにはなっている。
ましなのだが、それでも飛竜の背に乗るという事実が軽くなることはなかった。
「行くぞ」
「おう。落ちるなよ」
ガレスが軽く手を振る。
「縁起でもねえな」
「最初に言っといた方がいい」
レオは鱗の縁へ手をかけ、足を上げる。
今度は鐙がある。
確かに、前より乗りやすい。
「やっぱ違うな」
エルマーが感心したように言う。
鐙へ足をかけ、体重を預ける。
前より安定している。
少なくとも、しがみつくだけではなくなった。
「ドーレン、悪くねえ」
「だろ、俺を誰だと思ってる」
「村の大工」
「領主様は冷たいな」
ドーレンは豪快に笑った。
では、試すか。
そういう空気になった、その時だった。
「失礼します!」
やたら元気な声と一緒に、アリスが駆けてきた。
そのまま、本当に飛び乗ってきた。
「何してんだお前!」
ガレスが声を上げる。
「二人乗りの試験も必要かと!」
「今か!?」
「今です!」
「なんでだ!」
「流れで!」
アリスは勢いだけで来たわけではなかった。
ちゃんとタイミングを見て、ヴァルカの前脚の動きとレオの位置を読んで、半ば跳びつくように前へ収まっている。
「こういう時だけ判断が速いな」
レオの表情は困ったようで、困っていなかった。
「褒めてます?」
「褒めてねえ」
ガレスが地上で頭を抱える。
「降ろせ!」
「待ってください!」
「せっかくなので!二人乗りします!」
「そのせっかくが一番危ねえんだよ!」
「でも、将来的には必要かもしれません!」
「未来の話を今やるな!」
「でも、今しか試せません!」
「正論みたいに言うな!」
ヴァルカは、そんな人間たちの揉め事など知ったことではない顔だった。
少しだけ首を傾け、低く喉を鳴らす。
「アリス、何て?」
『早くしろ、だそうです』
「それ私も同じこと言いたいです!」
「お前が原因だろうが」
結局、揉めながらも、なんとかアリスをレオの前へ固定することになった。
完全ではない。
だが、レオが後ろから支え、アリスは前へ低く体を預ける形なら問題はなさそうだった。
鐙の位置も再確認し、手をかける位置も決める。
「アリス、絶対暴れるなよ」
「暴れません!」
「叫ぶなよ」
「努力します!」
「言い切れ」
「が、頑張ります!」
「駄目だな、これ」
「ひどいです!」
ガレスが、下で腕を組みながらぼやく。
「まあ、死にはしねえだろ」
「その言い方やめてください!」
「ほんとに怖くなってきました!」
「今さらか」
「今です!」
ヴァルカは、その間ずっと待っていた。
待っていたというより、人間とはそういうものかとでも言いたげな静けさだった。
「よし、行くぞ」
「はい」
アリスの声は少し震えていた。
「怖いなら降りろ」
「降りません」
「そうか」
「ここまで来たので」
レオはそこで、アリスの腰へ手を回した。
体勢が不安定なままでは危ない。
だから支えるしかない。
理屈ではそれだけのことだった。
だが、前にいるアリスの肩がびくりと跳ねた。
「おい固まるな」
「だ、だって」
「だってじゃねえ。落ちるぞ」
「分かってます」
「なら前見ろ」
「見ます」
そう答えながら、アリスの耳はもう真っ赤だった。
後ろから抱きかかえられるような形になっている。
それを自覚した瞬間、顔まで熱くなった。
恥ずかしい、かなり恥ずかしい。
できれば今すぐ地上へ戻って、少し離れたところで深呼吸したいくらいには恥ずかしい。
それでも心の奥のもっと厄介なところが、別のことを言っていた。
嬉しいと。
「アリス、ほんとに落ち着け」
「努力してます」
「全然してねえ声だな」
「今は無理です」
「正直だなぁ」
「こういう時だけは」
その返しに、レオが小さく笑ったのが背中越しに伝わる。
それだけで、アリスの鼓動はまた一段速くなった。
いよいよ、いい加減にしろばかりにヴァルカが動いた。
地を蹴り、風を掴む。
大きな翼が春先の空気を裂く。
「わあああっ!」
「叫ぶなって言っただろ!」
「無理です!」
「だろうな!」
ヴァルカは、最初から迷いがなかった。
今日はどこへ行くのか。
それはレオには分からない。
ヴァルカの気分と風次第だ。
今日の空は、北へ向かった。
西の丘を抜け、村の上を横切り、さらに北へ。
アリスが前で固まっている。
レオはその背とヴァルカの鱗を同時に意識しながら、必死で体勢を整える。
「前、見ろ!」
「無理です!」
「見ろ!」
「見ました!」
「どうだ!」
「すごいです!」
「だろうな!」
ヴァルカは、今日はいつもより長く飛んだ。
何かを察したのかもしれない。
それとも、二人乗りの重さと揺れを確かめながら、あえて安定した長距離の飛びを選んだのか。
いずれにせよ、今日は遠い。
村はもう見えない。
西の丘も、とっくに点になった。
地上の線が変わり、森が途切れ川が細い銀になる。
そして、その先に。
「おい、下を見ろ」
アリスが、恐る恐る視線を落とす。
下には、広大な草原が広がっていた。
森とも畑とも違う。
起伏のゆるい大地が、果てまで続いている。
春先のまだ若い色をした草が、風に大きく波打っていた。
「こんな場所があったんですね」
「俺も初めてちゃんと見た」
さらに、その草原の一角に人の営みが見えた。
天幕だ。
白と茶の布で作られた、移動式の住まい。
丸いもの、細長いものが大小まばらに並んでいる。
その周りには、小さな群れも見えた。
家畜か馬に近い何かかもしれない。
「話に聞いていた、現地部族か?」
「遊牧の民、でしたっけ」
「ほんとにいたんですね」
「当たり前だろうが」
「でも」
アリスは、少しだけ息を整えて続けた。
「空から見ると、なんだか」
「なんだ?」
「物語みたいです」
その言葉に、レオは少しだけ黙った。
たしかにそうだった。
地上で聞く話は、ただの情報だ。
遊牧民がいて草原がある。
天幕で暮らす者たちがいる。
だが、空から見れば違う。
世界の端だと思っていた村の向こうに、別の世界がちゃんと広がっている。
知らない人間がいて、知らない暮らしがあって、その営みが確かに続いている。
それを一度に見せつけられる。
それが、空だった。
ヴァルカは、その草原の上を一度だけゆっくりと旋回した。
高い。
だが、向こうから見えないほど高くはない。
あえて見せている高さだ。
「これ、気づかれてますよね」
「だろうな」
「やばくないですか」
「やばいかもな」
「かもじゃないです!」
「でもヴァルカは落ち着いてる」
「たしかに」
「つまり、今すぐ叩き落とされることはたぶんない」
「その基準いやです!」
ヴァルカは、もう一度だけ草原を見たあと、今度は大きく旋回する。
さらに北へは行かず、ゆっくりと進路を戻した。
「帰るのか」
ヴァルカは答えない。
だが、翼の向きがそう言っていた。
「よかった」
「いきなり遊牧民の真上で降りるとかされたらどうしようかと」
「それは俺も少し思った」
「ですよね」
「でも、この景色は覚えた」
「そうですね」
アリスは、もう一度だけ草原を振り返る。
「村の外に、こういう世界がある」
「空へ上がると、見えちゃうんですね」
「ああ」
「それが、空の一番厄介なところだ」
「厄介?」
「大地の理屈が、小さく見える」
アリスは、その言葉に黙って頷いた。
本当にそうだった。
村のこと、セラフィーナのこと、自分のこと。
さっきまで胸をいっぱいにしていたあれこれが、空へ上がった途端、少しだけ違う形に見えた。
消えたわけではない。
だが、世界の全部ではなくなった。
「それでも、戻る場所はちゃんと村なんですね」
「そうだな」
「空から見ても、あそこだって分かる」
その返事が、少しだけ嬉しかった。
アリスはそう思い、でも口にはしなかった。
帰りの空で、ヴァルカは一度も揺らがなかった。
二人を乗せ、風を選び、地を見下ろし、当然のように飛ぶ。
その背にいるだけで、レオにはまた一つ分かった。
空を持つということは、戦に強いだけではない。
世界の見え方そのものを変える。
村の外、森の外、地図の向こう。
そこにも人がいて、別の営みがある。
そういうものを、誰よりも先に知ってしまう。
「ますます鬼札ですね」
アリスが小さく言う。
「今の見たら、余計にな」
やがて、遠くに西の丘が戻ってきた。
村も見える。
畑も、森も、パン炉の煙も。
地上へ戻るのだと分かると、アリスは少しだけほっとした顔をした。
だが、その目はもう最初とは違う。
怖がっていたのに、ちゃんと見てしまった顔だ。
見たものを、たぶん忘れない顔だった。
「レオ様」
「なんだ」
「また、乗ります」
「懲りねえな」
「怖いですけど」
「でも?」
「見たいです」
レオは、その言葉に少しだけ口元を緩めた。
「そうか」
「はい」
「じゃあ、まず一人でちゃんと飛べるようになれ」
「それとこれとは別です!」
「別じゃねえよ」
「二人乗りは必要です!」
「うるせえ」
そう言いながらも、声は少しだけ柔らかかった。
その柔らかさに気づいて、アリスはまた頬が熱くなる。
空の上で抱えられていた時とは違う。
今度は、もう少し静かに嬉しかった。
ヴァルカは、そんな人間たちのやり取りをどうでもよさそうに聞き流しながら、西の丘へと降りていった。
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