第102話 迎える春
春が近い。
それは、空気の匂いで分かった。
朝はまだ冷える。
だが、吐く息はもう冬ほど重くない。
日が昇れば土が少しずつ温み、水路の脇にも柔らかな湿り気が戻ってくる。
村は、冬を越えたのだ。
レオは、そんな村をぐるりと見回り始めた。
オーフェンの葡萄畑も、少しずつ形になってきていた。
南の斜面。
冬の間に剪定された木々が、等間隔に並んでいる。
まだ花はない。
葉も、ようやくこれからというところだ。
だが、その列を見れば分かる。
これはもう思いつきではない。
未来を見越して組まれた、れっきとした畑だ。
オーフェンは朝から斜面に立ち、一本一本の枝を確かめていた。
「ここは悪くない、風が抜けるし水も溜まりすぎない。冬越しも思ったより上手くいった」
「春からが本番だろ」
ゆっくりと土を踏みしめながら、レオがぶどうの木を眺める。
「花がついて、芽が伸びて、そこから先でようやく実になる。だが、ここまでは悪くない」
「それならいい」
斜面には、まだこれからしかない。
だが、そのこれからが妙に頼もしかった。
村の広場の方へ向かうと、サトウカエデの方はいまがまさに稼ぎ時だった。
イルゼ主導で、樹液の採取はもう村の春先の大仕事になっている。
「採りすぎるな!来年も、その先も取るんだ」
「分かってる。でも出てると欲張りたくなるんだよ」
ミハルが樽を抱えながら苦笑する。
「そこを我慢するのが仕事だよ」
木ごとに印がつけられ、採取量がざっくり記録される。
今年多く取った木は、来年少し休ませるかもしれないという話まで出ていた。
ただ取るだけではない。
森の恵みとして、来年以後もずっと受け取るために使う。
その発想が、もう村に根づき始めていた。
「領主様、これはいいね、森と共にって考えが分かりやすい」
煮詰めた鍋を軽くかき混ぜながら、マルタが言う。
「どういう意味だ」
「森を食い潰さずに使うって、皆が分かり始めてる」
「以前なら、出るだけ取ったと思うよ」
「でも今は違う。村になったねえ」
「そうかもな」
煮詰められたシロップは、もう珍しい甘味では終わっていない。
全部が少しずつ繋がり始めている。
冬にまいた小麦も、順調だった。
とくに、巨猿の珠の魔力を土へ混ぜた試験区画は、目に見えて違う。
「やっぱり違うな」
レオが畑をぐるりと見渡した。
「葉の色が濃い、伸びも早い」
「ただし、良すぎるのが吉かどうかはまだ分からない。背が伸びすぎれば倒れるかもしれない」
魔力の調整に来ていたエルマーが、土を見ながら返す。
「でも、夢はあるな」
鍬を手にした、バルドが麦の穂を見る。
試験区画と通常区画を並べると、違いは素人目にも分かった。
そこだけ、少し違う世界のように見える。
小麦が順調なら、パンが安定する。
パンが安定すれば、人が増えても支えやすい。
その単純な理屈が、今は何より強かった。
森も、雪が溶け始めていた。
深いところまではまだ行かない。
だが、入口付近ならもう冬の終わりがはっきり見える。
獣たちも、少しずつ動き出していた。
鳥の声が戻り、小さな足跡が増える。
鹿の気配も前より近い。
「坊ちゃん、狩猟解禁だな」
いつの間にか訓練場になっていたスペースで、ガレスがいつものように若い衆を鍛えていた。
「いきなり奥までは入らいようにな」
「若いのにはもう言ってある。春の森は、浮かれたやつから死ぬ」
狩猟班は、もう一度編成が見直された。
冬の間に鍛えた足、新しく入った若者。
ガレスは相変わらず厳しい。
だが、その厳しさはもう、ただ怖いものではなかった。
一方、森の入口付近での山菜や木の実の採取は、女と子供の仕事になった。
もちろん、護衛として戦える男がつく。
その約束の上で、春の恵みを拾う。
アリスも、時々そこへ混ざっていた。
剣の訓練だけではない。
村の仕事もちゃんと女衆と共に混ざる。
「これは?」
「山菜だよ、いいね」
「これは?」
「木の芽だよ、捨ててきな」
「難しいです!」
「アリスは、剣はできるのに、そっちはひどいねぇ」
「そういうこと言わないでください」
「事実だよ」
「むぅ」
女たちは笑い、子供たちもつられて笑う。
春先の採取は、冬の閉塞を破る仕事でもあった。
外へ出て、風を感じて、土の匂いを吸って、また始まるのを体で知る。
レオは、そんな村のあちこちを見て回った。
そして、西の丘の向こうの空を見上げる。
ヴァルカは、村へ定住はしなかった。
結局彼女が住処にしたのは、森を越えた西側にある、小高く突き出した岩場だった。
西の丘よりさらに先。
村からは直接見えにくいが、空へ抜けるには良い場所だ。
ヴァルカは、村へは必要な時しか来ない。
だが、完全に離れているわけでもなかった。
アズとは、何か魔力的な繋がりがあるらしかった。
ヴァルカが丘へ来る気配がすると、アズが先にそわそわし始める。
空を見上げ、西を向き、ぴゅい、ぴゅいと落ち着かなく鳴く。
逆にアズが怪我をした時は、離れていてもヴァルカが察している節があった。
「レオ様、親子ってそういうもんですかね」
そんなアズを見ながら、アリスが言う。
「飛竜だからな」
「便利な言葉ですね」
そしてヴァルカ自身も、簡潔にそれを認めた。
『人の王よ、私に用がある時は我が子に言え』
エルマーがそれを訳した時、レオはしばらく黙っていた。
それ以来、ヴァルカへ伝えたいことがある時はアズに話しかけるようになった。
もちろん、本当に全部伝わっているかは分からない。
だが、不思議と必要な時にはヴァルカが来る。
レオも、あれから何度かヴァルカの背に乗った。
最初の一度よりは、少しだけましだ。
それでも、毎回怖いものは怖い。
それでも、乗るたびに見えるものが増えた。
村の形、森の開け方、西の岩場までの線。
自分たちが開拓した土地の小ささ。
そのうえで、新大陸という広大な大地。
その小ささと、そこからどれほど広く見えるのか。
その両方が、空では同時に分かった。
鐙の話が出たのは、数度の飛行を経てからだった。
最初は、レオがヴァルカの背で体を安定させるために、ドーレンへ何か工夫できないかと振ったのがきっかけだ。
「鐙?馬のやつか」
ドーレンは眉を上げた。
「発想はそこだ」
「問題は固定する場所だな」
ドーレンが腕を組む。
話は意外なほど本格的になった。
木型を作り、革の当て方を考える。
金具を最低限にする。
鱗の隙間へ食い込まない形にする。
作業しているドーレンに横で、アリスが真顔で不意に言った。
「ドーレンさん、二人乗りにしてください」
「あ?」
「いずれ必要になるかと」
「私も乗ります」
「却下だ」
横で見ていたレオが、ばっさりと切る。
「まだ何も言ってません」
「言ってるだろ」
「でも、聖騎士として」
「聖騎士志望であって、竜騎士じゃないだろ」
「一文字しか変わりません!」
「まず一人で安定してからだ」
ドーレンが切って捨てる。
「正論なのが悔しいです」
結局、二人乗り案は保留になった。
だが、アリスは諦めていない顔だった。
そんな中、春の匂いが村全体へ濃くなり始めたある日、帝都から書状が届いた。
今度は侯爵家の使者ではない。
正式な一団でもない。
書状だけだ。
だが、その封と印が重かった。
アルヴェイン侯爵家とウインザルフ公爵家の連名だ。
レオは領主館の執務室で、その封を切った。
同席しているのは、テオドールとガーネット。
少し遅れてアリスも入ってくる。
「読むぞ」
文面は、いかにも帝都だった。
硬いが丁寧だ。
必要なことは過不足なく入っている。
要点は一つだった。
「セラフィーナ嬢の輿入れは、春の終わりから初夏」
「その頃になる」
部屋が静まった。
やはり来る。
それも、もういずれではない。
季節で区切られた。
春の終わりから初夏。
「決まりましたね」
テオドールが静かに言う。
「時間はまだある」
「ですが、思ったよりないとも言えます」
「そうだな」
ガーネットは紙面ではなく、レオを見ていた。
「春の終わりなら、間に合います」
「いえ、間に合わせます」
「ガーネット、頼む」
「はい」
アリスは、少しだけ唇を結んだあと口を開いた。
「本当に来るんですね、セラフィーナ様が」
「そうだ」
アリスは、黙って頷いた。
嫌だと思う気持ちは、たぶんまだある。
だが、もうそこだけには立っていない。
来るなら、迎える。
そのために、自分の場所も固める。
そういう顔だった。
レオは、手紙を机へ置いた。
春の終わりから初夏。
その頃には、葡萄の芽ももっと伸びているだろう。
小麦も形になる。
シロップの仕込みも一段落する。
アズはさらに飛べるようになっているはずだ。
館も今より整う。
帝都の令嬢を迎えるには悪くない季節だ。
そう考えてしまう時点で、もう完全に受ける側の頭になっている。
窓の外では、春の光が村へ落ちていた。
もう後戻りはない。
だが、悪くない。
地は整い、空も育ち、帝都からは花嫁が来る。
そういう春が、今この村へ向かっていた。
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