その五
「うえぇ。ひっぐ、ひっぐ……」
二人で肩を並べて下階へ向かおうとしていた矢先、階段の中間地点である踊り場の向こうから、泣きじゃくる女子生徒の声が聞こえてきた。
「おい、やべぇんじゃねぇか智之」
「何がだ?」
「ほら、尾張高校七不思議、踊り場の友子さん」
「誰だよ」
「ホントに知らないのかよ。深夜、夜の学校を一人でうろついていると、曲がり角の向こう、階段の方から、……しくしく、しくしくって、女の子の泣いている声がするっていうやつ」
「それ、別に怪談でもなんでもないじゃないか」
「いや、ほら。なんつうかその……学校の階段?」
「ひっぐ、ひっぐ。うまいこと言ってんじゃないわよっ……」
驚くほど近くで声がして、透が正面に向き直ると、踊り場の向こうから瞳が流れ落ちた恐ろしい少女が現れた。
「ぎゃああぁぁーーーーー!! 出たぁぁーーーーーーーーーーーーー!! ――――うぐっ!」
例によって、透は踊り場で一人ノックダウンする。腹部に決まった一撃か、それとも恐怖からか、今回はカウントアウトを迎えて尚も白目を剥いて倒れ伏したままピクリとさえ動かない。
「なんだ。よく見たら田中利香じゃないか」
智之の蒼白だった顔面はにわかに元の血色を取り戻した。
「……よく見なくても田中利香よ。あたしは……」
しょんぼりと肩を落としたまま、上擦った声で返す田中利香。
「いや、なんというかその、メイクが。というかつけまつ毛が……」
「え? あぁーーーーーーーーーーーーー!! ――――はぁ」
利香は慌てて手鏡を取り出すと、覗き込むやいなや女子特有の甲高い素っ頓狂な声をあげて名残惜しそうに目元を撫で、黒く滲んだ指先を見て溜め息をついた。
見つめる気になれず視線を逸らし、智之は何気なく確認した腕時計に目を丸くした。
「まずいな、思ったより時間を食ってしまった。急ごう」
いつにも増して早口で言うと、智之は首筋に無数の冷や汗を滲ませたまま上階へ駆け上がって言った。
「ちょっと……! ほら、行かないの? 置いてかれるわよ」
「……ごほっ! ……俺のことは構うな。先に行け……」
「言っとくけど、最高にカッコ悪いからね。今のあんた」
お前に言われてたくねぇよ。言いかけて、透は草食動物的本能で身の危険を予知し、口を噤む。
「今なんか言おうとしたでしょ」
それを田中利香は肉食動物的本能で察し歯牙に掛ける。
「いえ別に。……痛ひふぃたひふぃたひっ!」
田中利香はしらを切る透の顎を変形するのではないかというほどの怪力で鷲掴みにする。
「言、い、な、さ、い、よっ!」
「うぃはいっへはじでぇ!!」
顎を時計回りに捻る新手の拷問によって透の唇は半ば渦巻状に歪む。さすがにまずいと判断した透は必死の抵抗によってやっとの思いで振り払ったものの、時既に遅く、顎には捻られた跡がクロワッサン状にくっきりと残ってしまった。歯を磨くとき以外鏡を見ることのない彼には当面知る由もないだろうが。
「……畜生、ちょっとしゃくれちったじゃねぇか。――――How are you?」
「なんで英語? あと古い」
「いやぁそのままじゃつまんないかなと思って、ちょっと捻りを入れてみました」
「そうゆうのいらないからマジで。 ……ていうか、いい加減メイク落としてきたいんだけど」
「あぁ、行ってらっしゃい」
透は階段の脇により手を振る。しかし、田中利香は晴れない顔のまま動こうとしない。
「どしたの利香ちゃん」
「その、今更だけど、……追わなくていいの?」
「誰を? ――――あ」
「まさか、忘れてたわけ?」
田中利香が腰に手を当てて呆れかえると、透はいよいよ焦り出し、手をついてがばりと立ち上がる。
「いかん、雑談が過ぎたな。誠に遺憾で有ります」
「うまいこと言ってんじゃないわよ」
駈け出した透の背中を見届けると、田中利香は少し悩んでから四階の方の女子トイレへ向かう。
「ていうか、誰か慰めなさいよね」
二人が去った後、田中利香は思い出したようにぽつりと呟いた。しかしその頃には、涙も悲しみもとうに消え失せていた。




