その三
田中利香が萎れた透を放し咳き込みながら床にうずくまる男子生徒を見下ろす。
「元黒魔術同好会の竜ヶ崎雅人だ」
智之が冷淡に答える。
「……月一で火災報知機鳴らすから、退部になったんだと……」
床で横たわる透が死にかけの蝉のように続ける。
「へぇーって、げぇっ」
科学準備室の煙の中から姿を現した威圧的な人影に、田中利香は口をへの字に歪ませる。
「どうした」
「あれ、オニクロじゃん」
「あ、ホントだ……」
透が叩かれて落ちる蚊のような声で同調する。
鬼の黒田、通称〝オニクロ〟。バスケ部兼化学同好会の顧問であり、物理の教科担任。廊下に立たせるだけで体罰になる今日授業中居眠りする生徒にチョークをぶん投げることで知られている。ちなみに本人曰く、額を刺激することで脳を活性化させる合理的手段であり、断じて体罰ではない。
「生徒指導室……いや、職員室に来い!! 親呼び出してみっちり説教してやるっ!」
「うわっ相変わらず厳しいー。あれ?」
竜ヶ崎雅人が襟首を掴まれ連行されていくのを物影から見ていた田中利香だったが、傍に智之がいないことに気付く。
「へへっ、よーく見ときなよ利香ちゃん。今こそ部費が使われるときだ」
足元で倒れている透が、生まれたての小鹿のように、震える手で起き上がろうと試みる。
「は? 何言って……」
「先生」
田中利香が視線を戻すと、黒田が足を止め、立ちはだかる誰かを見下ろしているのが分かった。黒田の大柄な背中で見えないが、オニクロを前にして物怖じしないこの冷淡な口調は、間違いなく智之のものだろう。
「何やってんのよあいつ、よりにもよってオニクロなんかに」
「まぁ見てなって。……紺か、珍しな――――ぶっ!!」
とある事情によって透の自慢の鼻はひしゃげ、顔面は足の形に陥没した。
「……ブルマよ。馬鹿っ」
田中利香はこれまたとある事情で丈の短い校則ぎりぎりのスカートをおさえ、足元に転がる発情期の小鹿を蹴り飛ばす。
「智之。それはいくらお前が帰宅部部長とはいえ認められない! こんな奴を野放しにしたら、今度は何をしでかすか……!!」
「もうっ! あんたのせいで聞き逃したじゃない!!」
「痛っ、いったぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
田中利香の踵が透の股にクリティカルヒットした。その痛みをここで敢えて表現する必要はないだろう。
「ですが黒田先生。帰宅部部員は委員会活動や学校行事、その他止む終えないと認められた事情が無い限りは放課後の終わりまでに下校しなければならない〝決まり〟なんです」
智之は鬼の怒号をすらりと躱し、正論に〝決まり〟で対抗する。
「んなことは分かってる!! だがな智之。あの火災報知機は直接消防署に連絡が行くようになってるんだ。別の場所で本当に火災が起きていたとしても、人数の多いこちらが優先されちまうんだよ! そんで誰かが命を落としたら、誰が責任を取るんだっ!!」
南館四階の廊下に、人為的かつ驚異的雷が落ちる。
「そうなんだ。……なら黒田があんだけ怒るのも無理ないかも」
「確かに、黒田の言っていることは正しい。けど、相手は天下の旭智之だぜ? 負けるはずがね痛ってぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
透のつま先がひしゃげた理由については省いておく。
「は? こっからどうやって逆転するってのよ。こればっかりは黒田が正しいわ。……認めたくないけど」
「――――ところで先生。最近、ゆずかの新しいブロマイドが手に入りまして……」
「あぁ!? ……分かってるじゃねぇか」
「ん? ちょっと待って。何してんのあいつ」
田中利香が訝しげに注視すると、黒田が後ろ手に数枚のグラビアアイドル写真をしまうのが見えた。
「そうだな、……うん。実際、消防車が来る前に誤報の連絡を入れれば済む話だし。今回は、まぁ、お前に免じて午後五時までで許してやろう」
「「ありがとうございます!!」」
竜ヶ崎雅人は立ち上がって素早く回り込むと、智之と共に飲食店顔負けの会釈をした後、先程と全く同じ体勢で引き摺られていった。
「な?」
智之が真顔で振り返ると、田中利香の拳があった。
「あべしっ!!」
「智之ぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぃぃ!!」
宙を舞う智之。涎と汗の入り混じった鼻血を花火の様に噴き出し、半回転して数メートル先の床に胴体着陸する。頭を打ち付けなかったことだけは不幸中の幸いであった。
「な? っじゃ、ないわよ!! こんなバッカみたいなことに使うくらいだったらラグビー部にだって入部してやるわ。体重二倍くらいある奴からあのデカいレモンみたいなのひったくってやるんだから!」
「……ラグビーボールな?」
「うっさい!!」
「ぐはぁ!!」
仰向けに横たわる透のみぞおちに、締りのいい脚が容赦なく振り下ろされる。
悶絶する透を尻目に、田中利香は階段の方へ踵を返す。
「ん、帰るのか?」
「辞めてやるわよこんな部活!!」
田中利香は階段を下りながら慣れた手つきで携帯電話を取り出し、何処かへかけた。
「――――あ、もしもしお母さん? あのね、転部したいんだけど……うん、うん。分かってる。でもね、この部活なんか――――」
田中利香は、そのまま階下へと姿を消した。




