第9話 助けて
「区画、片づきました。これから戻ります」
坑道の出口へ向かいながら、のあは小声で言った。
『おつー』
『今日も早い』
『午後から何かあるの?』
「ご飯です」
『ご飯のために早く終わらせる女』
『えらい』
(えらくはない。腹が減ってるだけだ)
午前の駆除は、予定よりずっと早く片づいた。納品を済ませて着替えても、昼過ぎの約束には十分間に合う。
真帆からは、昨夜のうちに店の写真が届いていた。辛くないほうの、澄んだ汁の麺。
(皿は分けてもらおう。混ぜられたら食えない)
のあは連絡の画面を開いた。仕事が終わったら一言送ると、約束している。
先に、真帆の名前が出た。
『研修棟、第二収録室。鳴海たちに出してもらえない。体が動かない。助けて』
足が止まった。
もう一度、頭から読んだ。
部屋の名前も、相手の名前も、昨日聞いたものと同じだった。真帆は、言葉を選べるときは、何がどうおかしいのかまで書く。その真帆が、助けて、とだけ結んでいた。
のあは、短く打った。
『今行く』
送信を確かめて、魔銃を闇へ沈めた。回収袋も、全部しまう。
(納品はあとだ)
走り出した。
*
『え』
『走ってる?』
『何かあった?』
ゴーグルの端で、コメントが流れる。
止める余裕はなかった。のあは走りながら、地上の管理連絡の番号を呼んだ。
「東管理区で依頼を受けている、のあです。研修棟の第二収録室へ、救護をお願いします」
『第二収録室……ですか?』
「灯り火の三人です。体が動かない、出してもらえないと連絡が来ました。出口を塞がれています。対応できる人も、お願いします」
『あなたは今どちらに』
「坑道の出口。私が近いので、先に行きます」
『手配します。無理は――』
通話を切った。
出口脇の係員が顔を上げる。のあは研修棟のほうを指さして叫んだ。
「救護、呼んであります! 来たら研修棟へ!」
明るい空の下へ飛び出した。風が髪を顔から引き剥がす。
『救護って言った』
『灯り火??』
『昨日の野良猫の話の?』
『やばいやつじゃん』
地上の通路を、台車が横切った。のあは止まらず、押している人の背後へ回り込む。振り向かれるころには、次の角を曲がっていた。
(昨日、三人とも普通に立ってたじゃないか)
千晴は四本目の飲み物を、机の端に置いていた。戻ってきたら飲めばいいね、と。
真帆は店の写真を、のあの分だと言って送ってきた。
紗月は伏せた端末を、何度も見ていた。
(あのメッセージ。制作側しか知らない日付。……気づいてたのに)
奥歯を噛んだ。
(考えすぎならいい、じゃなかった。俺が、もっと)
研修棟の案内板が見えた。
(今は、いい。着いてからだ)
*
自動扉が開くのも待てずに、体を滑り込ませた。
受付の職員が、驚いて顔を上げる。
「第二収録室の人から、助けてって連絡が来ました。救護を呼んであります。来たら、部屋へ案内してください」
「え、収録中の――」
「中の人が、出られないと言っています」
のあは廊下を走った。
靴音が響く。胸元のカメラが、服と擦れる音を立てる。
第二収録室。
扉の前で、足を止めた。
「真帆さん」
中で、椅子が動く音。
「……のあ?」
小さかった。けれど、聞き違えようのない声だった。
「開けます」
「待て。誰だよ」
男の声が重なった。のあが取っ手を下げるより先に、内側から扉が押さえられる。隙間から、肩の張った男が体を押し出してきた。
矢野達也。昨日の動画で見た、前衛の共演者だった。
のあの前に立つと、部屋の中がほとんど見えなくなる。
「撮影中だ。帰れ、ガキ」
「中の人を、迎えに来ました」
「終わってからにしろって言ってんだよ」
矢野の肩越しに、紗月の声がした。
「帰るって、言いました。出してください」
声の最後が、かすれていた。
のあは矢野を見上げた。
(帰るって言ってるだろ)
「扉を開けて」
「関係ねえだろ。どけ」
矢野の手が伸びてきた。のあの肩を突き飛ばすつもりの、大人の手だった。
(どくのは、お前だ)
その手は、のあに届かなかった。
のあは伸びてきた腕の内側へ潜り込み、矢野の膝の外側を、横から踏み抜いた。
鈍い音がした。
膝が、曲がってはいけない向きに折れた。
矢野の口から、声にならない息が漏れる。巨体が傾いた。倒れる先に顎がある。のあは一歩引いて、落ちてくる顎の下へ掌底を突き上げた。
矢野の頭が跳ね、背中から廊下の床に落ちた。
起き上がろうとする腕が、途中で止まった。
のあは、もう取っ手を握っていた。
*
扉を開け放った。
白い照明。散らばった弁当の容器。机の上に、見覚えのある紙の束とペン。
紗月は椅子に座ったまま、机の端に腕をついていた。のあを見て、何か言おうとして、唇だけが動いた。
千晴は床に近い位置で、椅子の脚をつかんでいた。落ちかけたのを、そこで止めたらしい。
真帆は、椅子の脇の床に座り込んでいた。両手で端末を胸に抱えている。
(目は開いてる。息もしてる。三人とも)
それを確かめて、ようやく、のあは部屋の奥を見た。
鳴海悠斗が立ち上がっていた。その横で、奥田航平がカメラを構えたまま固まっている。録画のランプが、赤く点いていた。
「な、何だ、お前」
鳴海が、声を裏返した。
「いきなり入ってきて、何のつもりだ。こっちは撮影中なんだよ。今の、暴行だぞ。奥田、撮れてるな?」
のあは答えなかった。
机の上の紙を見た。一番上の見出しが読めた。出演同意書。昨日、自分が一行ずつ指で示した、直す前のほうだった。
のあの中で、何かが冷えた。
(ああ。そういうことか)
「のあ……」
真帆の声がした。
のあは三人と鳴海たちの間に入った。机の端と椅子の間。そこに立てば、三人のうち誰に手を伸ばしても、のあの前を通ることになる。
「離れて」
鳴海に向かって言った。自分でも驚くほど、低い声だった。
「ふざけるな。こっちは契約の話をしてたんだ。お前には関係――」
「帰るって、何回言わせた」
のあは一歩も動かず、鳴海の目を見た。
鳴海の顔から、笑みが完全に消えた。
「……奥田、そいつのカメラ止めろ! 配信してんだろ、それ!」
奥田がカメラを置き、のあの胸元へ手を伸ばしてきた。
のあは、その手首を取った。
ひねる。関節の向きに逆らって、一息に。
乾いた音。
奥田は悲鳴を上げて膝から崩れた。のあは手首を離さないまま、奥田の体を床へ落とした。肩が床を打つ。二度と起き上がる気を起こさせないように。
「僕は、言われた、だけで……」
奥田の声は、最後まで続かなかった。
鳴海が動いた。
のあではなく、千晴のほうへ。椅子の背へ手を伸ばす。千晴の体ごと引き寄せて、盾にするつもりの動きだった。
(触るな)
のあの中で、最後に残っていた加減が、消えた。
足元の影から闇が噴き上がり、鳴海の視界を塗りつぶした。鳴海の手が空を掻く。千晴の椅子から、指一本分、届かない。
のあは、その伸びた腕を取った。
肘を、逆へ。
折れる音は、奥田のときより重かった。鳴海が叫ぶ前に、のあは腕を引いたまま体を回し、鳴海の膝裏を蹴り抜いた。支えを失った体が前へ倒れる。のあは倒れてくる肩を押さえ込み、その勢いのまま床へ叩きつけた。
鳴海の顔が、床の上で横を向いた。
起き上がれなかった。折れた腕を抱えようとして、それもできない。喉から、細い息だけが漏れていた。
のあは闇を引いた。
部屋に、白い照明が戻る。
のあは、鳴海の背中の上から膝を下ろさなかった。三人のほうへ、もう何も届かないことを確かめるまで。
廊下の矢野も、床の奥田も、動かない。鳴海の腕は、自分の意志ではもう上がらない。
(……届かない。もう、どこにも)
ようやく、のあは立ち上がった。
*
「紗月さん」
振り向いて呼ぶと、紗月がこちらを見た。
「うん。……いるよ」
かすれていたが、紗月の声だった。
のあは真帆の前に膝をついた。
「真帆さん。聞こえますか」
「聞こえる。……来て、くれた」
真帆の手が震えている。胸に抱えた端末ごと、ずり落ちそうになっていた。のあは端末を受け取らず、真帆の手ごと、落ちない位置へ支えた。
「千晴さん」
「聞こえてる。……のあちゃん、今の、すごかったね」
千晴は笑おうとしたらしかった。うまくいかなかった。
「無理に話さなくていいです」
のあは端末で地上の連絡先を呼び直した。
「第二収録室です。三人とも意識はあります。でも、自分では動けません。昼の食事のあとからです」
『救護が今、研修棟に入りました』
「邪魔をしていた男三人は、押さえました。三人とも骨が折れていると思います。そちらにも手当てを。廊下に一人、部屋に二人」
通話を切ると、真帆がのあの胸元を見ていた。
「……のあ。カメラ」
のあは、自分の胸を見下ろした。
小さなランプが、点いていた。
(……つけっぱなしだった)
坑道を出てから、一度も止めていない。走っているあいだも。扉の前でも。部屋の中でも。
ゴーグルの端を見た。
コメントが、読めない速さで流れていた。
その上の数字。
視聴者、一万八千四百十二人。
のあは、息を止めた。
(全部、流れてた)
廊下で、足音が増えた。救護の鞄を持った人たちが、開いた扉から駆け込んでくる。
のあは、三人を画面に映さないよう、ゆっくりと体を廊下へ向けた。
配信終了のボタンに指を置いて、ほんの一瞬だけ、押すのをためらった。
それから、押した。




