第8話 カメラの向こう側
「ここで前衛が動くので、私は、その前に立つ場所を変えています」
真帆は配置図の上で、射手の札を右へ寄せた。
東管理区、地上研修棟の第二収録室。白い照明が、机の上の手元をくっきり照らしている。カメラの向こうで、千晴が小さく親指を立てた。
(言えた。噛まなかった)
真帆は、膝の上で握っていた手をほどいた。
「いいですね、瀬川さん。分かりやすい」
鳴海悠斗が、モニターの横で笑った。動画で見るのと同じ、人当たりのいい笑顔だった。
「さっきの『先に味方の通るところを見る』って言い方、すごくいい。見てる人が真似しやすいですよ」
「ありがとうございます。教えてもらったことなので」
「へえ。誰に?」
「……知り合いに」
のあの名前は出さないと、三人で決めてあった。
「ふうん」
鳴海はそれ以上聞かなかった。手元の台本に、何か書き込んでいる。
撮影担当の奥田航平が、確認用の画面を戻した。痩せた男で、ずっとカメラの後ろにいる。
「三枝さんの説明のところ、もう一回いいですか。声、すごくよく録れてたので」
紗月が、前衛の札を通路の線へ置き直した。
「私が先にこっちへ出る、というところからですね」
「はい。……三枝さんの声、落ち着きますね」
奥田が、画面を見たまま言った。
真帆の指が、止まった。
(今の。どこかで)
同じ言葉を、最近どこかで見た気がした。どこだったか、思い出す前に撮影が再開した。
紗月の説明は、一度で終わった。
*
「いったん、お昼にしましょう」
鳴海が手を叩いた。
「後半は装備の撮影で、昼過ぎには終わりますから。お弁当、用意してあります」
机の上に、四角い容器が並んだ。千晴が蓋を開けて、小さく歓声を上げる。
「おいしそう。ちゃんとしたとこのお弁当だ」
共演者の矢野達也は、腕を組んで壁際に立っていた。前衛の装備を実演する役で、肩幅が広い。今日はまだ、ほとんど喋っていない。
真帆は弁当を食べながら、端末を開いた。
のあとのやり取りが残っている。昨夜の店の写真。赤い料理と、蒸し物と、澄んだ汁の麺。
辛くないのもあるよ、と送ったら、既読だけがついた。返事は来なかったけれど、そういう子だ。
(のあは、そろそろ仕事が終わるころかな)
真帆は、短い文を打った。
『順調だよ。午後も予定どおり終わりそう』
送信を押す前に、食べ終えた容器を片づけようとして、端末を机に置いた。
目の前の仕事も、あと少しで終わる。
*
千晴が、椅子から立とうとした。
いつものようには、立ち上がれなかった。机に手をつき、座り直す。
「千晴?」
「……あれ。足じゃなくて。何だろ、力が」
真帆もグラスへ手を伸ばした。
指が、思った場所へ届かなかった。
(……え)
もう一度伸ばす。今度は、腕そのものが重い。持ち上げようとすると、肩の先から力が抜けていく。
「すみません」
紗月が椅子を引いた。立ち上がろうとして、机の端に手を残す。
「体調が悪いので、今日はここで終わりにさせてください。救護へ連絡を」
三人とも、同じだった。
(食べてから。三人とも。同じものを)
真帆の背中が、冷たくなった。
鳴海は椅子に座ったまま、紗月を見ていた。
「少し休めば、大丈夫ですよ」
「休んで済む話じゃありません。三人とも、おかしいんです。救護を呼んでください」
紗月の声は、はっきりしていた。
鳴海は答えず、机の下から紙の束を出した。
真帆は、その一番上の見出しを読めた。
出演同意書。
昨日、のあが一行ずつ指で示した、あの書類だった。直してもらう前の、元のままのものだった。
「じゃあ、休んでる間に、これだけ済ませちゃいましょうか」
鳴海は、紙を紗月の前へ滑らせた。ペンを横に置く。
「今後の出演のこと。灯り火さんには、うちの企画に継続して出てもらいたいんですよ」
「その話は、昨日お断りして、直していただきましたよね」
「ええ。直しましたね。誰かさんに言われて」
鳴海の笑顔は少しも変わらないのに、声だけが低くなった。
「あの野良猫さんでしょう? ああいう書類の読み方、素人じゃないですよね。おかげで、話がややこしくなった」
真帆は、息を呑んだ。
(のあのこと、分かってる)
「正直に言いますね。うちのチャンネル、最近伸びてないんです。灯り火さんと、あの野良猫。今いちばん話題の二組が、うちの専属で出てくれたら、全部立て直せる」
鳴海は、紗月の手元にペンを押しつけた。
「サインしてもらったら、すぐ救護を呼びます。気分が悪くなって、休んで、そのあと皆さん納得して契約した。奥田くんが、ちゃんと撮ってますから」
真帆は、奥田のほうを見た。
カメラの録画ランプが、赤く点いていた。
「撮らないでください」
千晴の声が、震えながらもはっきり響いた。
「病院に行かせて。荷物も返して」
千晴の鞄は、いつの間にか部屋の隅に移されていた。三人分の鞄を、矢野が足元に集めている。
「返してください」
紗月が、椅子の脇へ手を伸ばした。矢野がその手の前に立つ。
「サインしてからにしろって、言ってんだろ」
「私たちは、サインしません」
紗月は、ペンに触れなかった。
「同意はしません。救護を呼んでください」
同じ言葉を、紗月は二度、三度と繰り返した。声は揺れていなかった。けれど、机についた手は、もう体を支えるので精一杯だった。
真帆は、出口を見た。
矢野が扉の前へ戻り、幅のある体で道を塞いだ。
真帆は、自分の脚に力を入れた。床を踏ん張れない。普段なら三歩で届く扉が、ひどく遠かった。
(動けない。誰も、動けない)
確認用の画面には、昼前に撮った真帆の手元が止まっている。外で見ている人は、いない。収録は録画で、公開していない。
(誰も、知らない)
そのとき、机の上の端末が目に入った。
昼に置いたままの、真帆の端末。画面が暗くなりかけている。
矢野は鞄を集めたが、机の上までは見ていなかった。
真帆は、右手を机の上に戻した。
手首を持ち上げようとすると、力が抜ける。だから、持ち上げなかった。机につけたまま、指先だけを這わせるように近づけた。
ゆっくり。
鳴海は紗月に紙を押しつけている。千晴が奥田に何か言っている。矢野は扉の前だ。
指先が、端末の縁に触れた。
画面が明るくなる。のあとのやり取りが、そのまま出てきた。
書きかけの『順調だよ』が、まだ送信欄に残っていた。
真帆は、それを消した。
(まだ仕事中かもしれない。邪魔を……)
ためらいかけた指を、真帆は画面に押しつけた。
(違う。今、助けてほしい)
住所は要らない。昨日、同じ場所の案内を送っている。のあは部屋の名前を知っている。
指が、うまく文字を拾わない。一度押し損ねて、打ち直す。
『研修棟、第二収録室。鳴海たちに出してもらえない。体が動かない。助けて』
文を整える余裕は、なかった。
「おい」
矢野の声がした。
真帆の心臓が跳ねた。けれど、矢野が見ていたのは千晴だった。千晴が、奥田のカメラへ手を伸ばそうとして、椅子から落ちかけていた。
「千晴!」
紗月の声。
その瞬間に、真帆は送信を押した。
画面が切り替わるまでの一秒が、ひどく長かった。
『送信済み』
真帆は、その文字を確かめた。
それから、のあとのやり取りを隠すように、端末を机の上に伏せた。
顔を上げると、扉が見えた。
矢野の背中の向こう、閉じた扉。
(のあ)
真帆は、伏せた端末の上に手を置いたまま、扉から目を離さなかった。




