第7話 収録の予定
「出ません」
仕事部屋の戸を開けて、三秒だった。
千晴が端末をこちらへ向けたまま、固まった。
「……まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてありました。鳴海悠斗の共演の件ですよね」
「なんで知ってるの」
「配信のコメントで、噂になってました」
のあは机の端に鞄を置いた。コメントが映るゴーグルは外しているのに、昨夜の流れを思い出すと、まだ文字が見える気がする。
『野良猫、鳴海の企画に出るってマジ?』
『鳴海の講座、分かりやすいから好き』
『のあちゃん喋らないのに講座どうすんの』
(喋らないから出ないんだよ。……いや、それ以前の問題だ)
「のあの分は、もう断ったよ」
紗月が、机の向こうで資料から顔を上げた。
「本人に聞かずに返事はできませんって。のあが出ないなら、それで終わり」
「……ありがとうございます」
「出るのは、私たち三人だけ。初心者向けの講座で、明日の収録」
千晴が、少し照れたように端末を胸に抱えた。
「こういうの、やってみたかったんだよね。自分たちの配信だと、手元がうまく映らないし。見てる人が迷うところを、ちゃんと説明したくて」
「私も、立ち位置の話をするつもり」
真帆が机の配置図に、小さな札を並べた。
「のあに直してもらったところ。前は遅れてたのを、先に場所を決めたら撃てるようになったって。自分の言葉で話したいんだ」
のあは配置図を見た。この前、箸袋で示した角に、少し似ている。
「どうしてそこに立つかも、入れるといいですよ」
「うん。……あ、今の、メモしていい?」
「どうぞ」
真帆がペンを走らせる。のあの手が、机の上の焼き菓子に伸びた。
(まあ、三人が楽しそうなら、いいか)
*
「で、これが出演の同意書」
紗月が、印刷した紙を机に置いた。
「読んだけど、確認してから返事しようと思って。こういうの、慣れてなくて」
のあは、一番上の行だけを何気なく見た。
見ただけのつもりだった。
気づけば、下の行まで読んでいた。
(……あ、これ、職業病だ)
前の人生で、何百枚読んだか分からない種類の書類だった。広告の出稿契約、タイアップの覚え書き、インフルエンサーとの業務委託。言い回しが違っても、骨格は同じ。
五行目で、指が止まった。
「紗月さん。これ」
「どれ?」
「『出演者は、本企画に関連する今後の撮影に、優先的に協力するものとする』」
のあは、紙の上の一文を指でなぞった。
「『関連する』の範囲が、どこにも書いてないです」
「……うん?」
「向こうが『関連してる』って言えば、全部これに入ります。来月の企画も、来年の企画も」
紗月の眉が、ゆっくり寄った。
「それと、ここ。『撮影素材の編集および二次利用の権利は、制作者に帰属する』」
「それは、普通じゃないの? 向こうが撮るんだし」
千晴が首をかしげた。
「普通です。でも、期限と範囲がないです。皆さんが映った素材を、どこで、いつまで、どう切って使うか。向こうが全部決められます」
(切り抜きで、言ってないことを言ったみたいに繋がれても、文句が言えないやつだ)
「あと、ここ。『出演者は、競合となる企画への出演について、事前に制作者の承認を得る』」
のあは、紙を三人の真ん中へ滑らせた。
「これ全部合わせると、一回出ただけで、ずっと鳴海さんの許可がいる人になります」
部屋が静かになった。
真帆がペンを置いた。千晴は同意書を引き寄せて、自分の目で読み直している。
「……のあちゃん、なんでそんなに詳しいの」
(前の職場で、この手の書類で三回泣いたからだよ)
「……本で読みました」
「本」
「本です」
(苦しい。我ながら苦しい)
紗月が、同意書を手に取った。一行ずつ、指で追っている。
「ほんとだ。一回だけのつもりで読んでたから、気づかなかった」
紗月は顔を上げた。
「のあ。これ、どう直してもらえばいい?」
「『今回の収録一回に限る』って書いてもらえばいいです。素材の使い道は、今回の講座の動画だけ。ほかに使うときは、事前に皆さんの同意を取る。競合の承認は、削除」
「全部言われたら、向こう怒らないかな」
千晴が、少し不安そうに言った。
「怒るなら、最初からそのつもりだったってことです」
のあは、焼き菓子の最後の一口を飲み込んだ。
「ちゃんとした人なら、『あ、書き方が雑でした』で直します」
紗月は、少しだけ笑った。
「分かった。そう返してみる」
*
紗月が修正の依頼を送って、一時間ほどで返事が来た。
千晴が読み上げる。
「『ご指摘ありがとうございます。雛形をそのまま使っており、失礼しました。今回一回限りの内容に修正いたします』」
「よかった」
真帆が息をついた。
「ほら、ちゃんとした人だったじゃん」
千晴の声が明るくなる。
のあは、千晴が最後の一行まで読むのを待った。
「……あと、『野良猫さんにも、よろしくお伝えください。いつか、ぜひご一緒に』だって」
(まだ言うのか)
のあは、千晴が向けた画面を見た。
文面は丁寧だった。修正後の同意書も、のあが言ったとおりに直っている。
ただ、返事の最初の一行と最後の一行だけ、送った時刻が四十分離れていた。一度書いた返事に、あとから付け足したらしい。
(直すのに、四十分迷ったってことか。……いや、考えすぎか)
のあは画面から目を離した。
契約は直った。三人は楽しみにしている。それで十分だった。
*
紗月の端末が、短く鳴った。
紗月は画面を見て、表情を変えずに通知を閉じた。
「それ、また?」
千晴が顔をしかめる。
「別のアカウントから来てる。前のと一緒に残しておくね」
「何かあったんですか」
のあが聞くと、紗月は少し迷ってから、端末を机に伏せた。
「配信を見た人だと思うんだけど。返事をくれって、何度も送ってくるの。ブロックしても、別のアカウントから」
「窓口には」
「相談してる。記録も全部取ってある」
紗月は、伏せた端末から手を離した。
「知らない人だから、予定とかは何も返してないよ」
「見せてもらってもいいですか」
紗月は一瞬迷ってから、画面をのあへ向けた。
同じような文面が、日付順に並んでいた。
『いつも見てます』
『お返事ください』
『紗月さんの声、落ち着きます』
一番新しいものが、一番上にあった。
『明日の収録、楽しみにしています』
のあの指が、止まった。
「……収録の日、どこかで公開しました?」
「まだだよ。告知は、撮り終わってからって」
千晴が答えて、それから言葉を切った。
三人が、同じ画面を見た。
「……知ってるの、制作側と、私たちだけ、のはず」
真帆の声が小さくなった。
「窓口に、この一通も送っておく」
紗月の声は落ち着いていた。けれど、端末を持つ指に力が入っている。
「収録は協会の研修棟だし、中には関係者しか入れないから。……たぶん、大丈夫」
たぶん、と言ったのを、のあは聞き逃さなかった。
(制作側の誰かが漏らしたのか。それとも、制作側の誰かが送ってるのか)
言いかけて、やめた。
証拠はない。三人は明日を楽しみにしている。ここで「鳴海が怪しい」と言えば、根拠のない悪口になる。前の人生でも、それで信用を失った人を何人も見た。
「明日、私は東管理区で仕事です」
のあは、自分の予定を開いた。
「坑道の入口寄りの区画で、午前の駆除。昼過ぎには終わります」
紗月が、届いたばかりの収録の案内を開いた。
東管理区、地上研修棟、第二収録室。明日の午前から昼過ぎ。
地図の上で、二つの場所は歩いて十分ほどだった。
「近いね」
「終わったら、連絡します。そのあと、ご飯に行くなら」
「うん。行こう。長引いたら、先にメールするね。待たせたくないから」
真帆が言って、もう店を探し始めた。
*
帰る支度をしていると、千晴が明日の荷物を並べていた。
上着、機材、飲み物。
飲み物を三本並べて、四本目に手を伸ばす。
「私は出ませんよ」
「あ、そうだった」
千晴は四本目を持ったまま、少し考えて、箱に入れずに机の端へ置いた。
「じゃあ、戻ってきたら。ご飯の前に、のあちゃんが飲めばいいね」
「……じゃあ、そのときに」
のあは戸口で振り返った。
三人が、明日の準備をしている。千晴は機材を箱に詰め、真帆は説明の練習を小声でつぶやき、紗月は伏せた端末をときどき見ていた。
(考えすぎならいい。考えすぎなら)
帰り道、真帆から店の候補が届いた。
赤い料理の写真だった。
『ここ、辛い店では?』
すぐに、別の写真が返ってくる。蒸し物と、澄んだ汁の麺。
『辛くないのもあるよ。これは、のあの分』
のあは写真を拡大して、予定表の明日の欄に店の名前を入れた。
その上の行に、東管理区、とある。
その管理区の少し先に、研修棟がある。
のあは端末をしまって、夜道を歩き出した。
(明日は、早めに終わらせよう)




