第63話 依頼の範囲外
『――Iron Ridge to base. We're pinned down. Three injured. Something big in the fog. Repeat, something big――』(――アイアンリッジから本部へ。身動きが取れない。負傷者三名。霧の中に大きな何かがいる。繰り返す、大きな何かが――)
共通の無線が、雑音の中で途切れた。
調整本部の天幕に、各国の隊長が集まっていた。誰も座っていなかった。
ダリウスの声だった。昨日の夜、会議で同じことを何度も言っていた、あの太い声。それが、息を切らしていた。
「位置は、第二の門の窪地の縁です」
ベルクヴィストが、机の地図に印をつけた。のあが二時間前に読み上げた位置の、すぐ南だった。
「八人のうち、三人が負傷。大型の何かに、窪地の縁へ押し込まれている。……それ以上は、分かりません」
天幕の中が、静かになった。
ベルクヴィストは、しばらく地図を見ていた。それから、顔を上げた。
「霧は、これからさらに濃くなります。日没まで、三時間。中にいるのが何か、誰も見ていない」
小さな声で、一言ずつ区切って言った。
「調整本部としては、救援の隊は出せません。アイアンリッジは、許可なく奥へ入りました。朝まで待って、霧が薄くなったところで、改めて判断します」
誰も反対しなかった。反対する理由が、なかった。
のあは、地図の印を見ていた。
(……正しい。調整役としては、百点の判断だ)
前の人生の会議室でも、こういう判断を何度も聞いた。ルールを破った部署は、自分で責任を取る。巻き込まれて、ほかの部署まで共倒れになったら、もっと困る。
(正しい。……でも、朝まで待ったら、三人じゃ済まない)
天幕の隅で、アイアンリッジの腕章をつけた若い男が、ベルクヴィストに詰め寄っていた。会社の連絡係らしい。救助に出た隊には、会社から二千万円を払う、と言っていた。どの隊長も、目をそらした。
金額の問題ではなかった。霧の中で、何がいるか分からない。それだけだった。
「のあ」
紗月が、隣で小さく言った。
「行くつもりでしょ」
のあは、答えなかった。
代わりに、ベルクヴィストの前に出た。
「Mr. Bergqvist.」(ベルクヴィストさん)
ベルクヴィストが、のあを見た。
「今の判断は、正しいと思います」
英語で、ゆっくり言った。天幕の中の全員に聞こえるように。
「だから、許可はいりません。これは、依頼の範囲外です」
ベルクヴィストの眉が、動いた。
「私の依頼は、偵察でした。偵察は、終わりました。ここから先は、仕事じゃありません。私が勝手に行きます」
のあは、自分の胸元のカメラを指で叩いた。
「でも、記録は残します。誰が、いつ、どこへ入って、何をしたか。全部」
(言った言わないには、しない。前の人生で、それだけは懲りた)
ベルクヴィストは、長いあいだ黙っていた。
それから、机の上の無線機を、のあのほうへ少しだけ押した。
「……I cannot approve it.」(……許可はできません)
小さな声だった。
「But the common channel stays open. All night.」(ですが、共通の無線は開けておきます。一晩中)
(許可はしない。でも、無線は開けておく。……十分だ)
「Thank you.」(ありがとうございます)
のあは、頭を下げた。
*
灯り火の小屋に戻ると、紗月が机の上の荷物を全部どけた。
「作戦、立てよう」
「……紗月さんたちは」
「私たちも行く」
紗月は、のあが何か言う前に続けた。
「のあは、中の大きいのを止めることに集中して。運ぶのは、私たちがやる。ヒュージセンチピードのときと、同じ」
「支援の枠は、外周までです」
「うん。だから、私たちも範囲外」
紗月は、少しだけ笑った。目尻が下がった。
「記録、残そう」
千晴が、自分の胸元のカメラの電源を入れた。赤いランプが点いた。
「残す残す。私のも回す」
(……止めても、聞かないな。この人たちは)
のあは、口を開きかけて、閉じた。
止める理由を探した。見つからなかった。三人とも、のあより長く、この仕事をしてきた。何ができて、何ができないかは、自分で分かっている。
「……お願いします」
紗月が、紙を一枚広げた。のあが偵察の帰りに描いた、窪地までの道筋だった。
「私は、窪地の手前の、この岩の陰。負傷者を受け取って、応急の処置をして、後ろへ渡す中継になる」
「私は、ここ」
真帆が、窪地の縁の、少し高くなった場所を指した。
「窪地の中が見下ろせる。のあが大きいのを抑えてるあいだ、ほかから寄ってくるのを止める」
「霧で、見えませんよ」
「見えなくても撃てる距離まで、近づく。のあの足跡の上なら、雪の裂け目はない。……のあが、そこを歩いて帰ってきたから」
(……俺の足跡を、道に使う気か)
千晴は、小屋の隅からソリを二台引っぱり出していた。物資を運ぶための、平たいソリだった。
「帰り道は、私が作る。のあちゃんの足跡に沿って、三十歩ごとに光る旗を立ててく。霧でも、次の旗は見えるはず。負傷者は、このソリで運ぶ。一台に一人、横に二人」
「八人、全員は」
「往復する。何回でも」
千晴は、旗の束を抱えた。
「でも、一つだけ足りない」
紗月が言った。
「窪地の中で、ダリウスさんたちがどこにいるか。霧の中で、声だけじゃ探せない」
小屋の戸が、叩かれた。
開けると、リーヴが立っていた。防寒着の上に、細い革の鞄を肩にかけている。
「私も、行きます」
リーヴは、中へ入ってきて、机の地図を見下ろした。
「霧の中で人を探すなら、目より鼻が要るでしょう」
鞄から、小さなものを取り出した。
灰色の狼の小像だった。四本の脚で踏みしめて、首を少し上げ、遠くを見ている。台座の縁の細い線は、のあが前に見たときより、長く伸びていた。
「グレイウルフです。この子に、アイアンリッジの誰かの匂いを覚えさせれば、霧の中でも辿れます」
「……ひびが」
のあは、思わず言った。
「はい。三回使いました。たぶん、あと一回か、二回」
リーヴは、表情を変えずに言った。
「使えば、割れるかもしれません。でも、今夜使わなかったら、この子はただ、棚の上で割れずにいるだけです」
のあは、上着の胸を、無意識に押さえていた。
内ポケットの中に、白い狼がいた。
(……飾るために、欲しかったんだ。使うためじゃない)
リーヴは、のあの手を見て、少しだけ目を細めた。
「あなたのは、使いません。私は、召喚士ですから。召喚士の小像は、使うためにあります」
それから、何でもないように付け足した。
「それに、ダリウスは嫌いです。でも、あの隊が全滅したら、この調査は一か月止まります。それは、とても困ります」
(正直だな。……こういう人のほうが、信用できる)
「……助かります」
リーヴと目が合って、のあは慌てて地図に目を落とした。耳が熱かった。こんなときでも、熱くなるのか、と自分で呆れた。
*
日没まで、二時間半。
小屋の外で、灯り火の四人とリーヴが並んだ。
紗月が盾を背負い、真帆が短い魔銃に弾を込めた。千晴はソリの綱を肩にかけ、旗の束を脇に抱えている。
アイアンリッジの連絡係が、ダリウスの予備の手袋を持ってきた。リーヴはそれを受け取って、小像と一緒に鞄へしまった。
「呼ぶのは、窪地の縁に着いてからです。この子が出ていられるのは、数分だけなので」
「そこまでは」
「あなたの足跡を。旗を立てる人の、後ろを歩きます」
リーヴは、千晴の抱えた旗の束を見て、少しだけ口元を緩めた。
のあは、魔銃を闇から引き出した。胸元のカメラのランプを、もう一度確かめる。点いている。
ゴーグルの端は、暗いままだった。
今日は、それでよかった。見ている人がいなくても、隣に四人いる。
(依頼の範囲外。誰も頼んでない。報酬も出ない。……それでも、行く理由は、あるんだよ)
「――記録、始めます。救助に向かいます」
のあは、カメラへ小声で言った。いつもの配信の、最初の一言と同じ調子で。
千晴が、最初の旗を雪に突き立てた。青い光が、霧の中で小さく灯った。
五人は、のあの足跡を踏んで、白の中へ踏み込んだ。
突入。




