第62話 霧の中の狼
外周の印を越えて、三百歩で、世界が白くなった。
前も、後ろも、足元も。雪と霧の境目が消えて、自分の靴の先だけが、かろうじて黒い。
(……白い門、ね。名前のとおりだ)
のあは、魔銃の照準器をのぞいた。
白かった。
倍率を上げても、下げても、白い。霧の粒が光を散らして、十メートルより先は、全部同じ色だった。
(スコープは、今日は飾りだな)
照準器から目を離して、胸元に手をやった。カメラのランプは点いている。録画はしている。調整本部に出す記録だ。
ゴーグルの端は、暗いままだった。
配信禁止の区域だった。数字も、コメントも、何も流れない。
(右奥、湧いた。……って、言ってくれるやつがいない)
いつも画面の端の敵を先に見つける、あの常連の一行を、無意識に探していた。すずの「動きました」も、ない。後ろで盾を構える紗月も、横で銃を持つ真帆もいない。
(一人で潜るのなんて、何年もやってきただろ。……目が減っただけだ。元に戻っただけだ)
のあは、息を吐いた。
目を閉じた。
《探知》を広げる。ダンジョンの口を探すときの感覚を、薄く、遠くまで伸ばす。何がいるかまでは分からない。ただ、魔力の濃い場所と、薄い場所が、雪の下の地形みたいに浮かび上がってくる。
正面の奥が、濃い。
左右に、小さな濃い点がいくつか。動いている。
それから、耳を澄ませた。
風の音。霧の流れる、音にならない音。その下に、ときどき、かすかに乾いた音が混じる。雪の表面の、薄く凍った殻が割れる音だった。
(足音。四つ足。……軽い。複数)
*
霧の中で、遠吠えが聞こえた。
一つ。少し離れて、もう一つ。右から、左から、後ろから。
のあは、膝をついて、魔銃を構えた。
(囲まれてる。声で、互いの位置を確かめてる)
七頭。遠吠えの数と、殻の割れる音で、そう数えた。
霧の中から、白い影が一つ、ふっと浮かんで、消えた。
狼だった。雪と同じ色の毛並みに、青みがかった目。大型の犬より一回り大きい。スノーウルフ。調整本部の資料で、写真だけ見た。
(見えるのは、十メートルから内側だけ。そこまで来られたら、跳ばれる)
(見て撃つのは、間に合わない。……なら、見る前に撃つ)
のあは、短刀を抜いた。左へ振る。闇をまとった飛刃が、霧の中を渡って、遠くの雪の塊を打った。重い音がした。
右と後ろの殻の音が、一斉に止まった。耳が、そちらを向いた。
(そっちには、何もいないよ)
正面から、一頭。殻の割れる音が、囮のほうへは行かず、まっすぐこちらへ来る。群れの先頭だ。囮に釣られなかった、賢いやつ。
音の速さと、間隔で、距離が分かる。二十。十五。
息を吐き切った。
音の、ちょうど一歩先へ撃った。
霧の中で、何かが雪に落ちる音がした。殻の音が、一つ消えた。
(一)
遠吠えが、変わった。短く、鋭く。仲間が倒れたのを伝えている。
左から二頭、同時に来た。殻の音が重なる。のあは片方の音へ撃ち、闇を払って、もう片方の音へ体ごと向き直った。
霧が破れた。白い牙が、目の前にあった。
撃った。至近距離の魔弾が、開いた口の奥へ入った。狼は、のあの膝の横に落ちて、動かなくなった。
(二、三)
残りは、慎重になった。殻の音が止まり、霧の向こうで、息だけが聞こえる。
のあは、自分の足元へ、自分と同じ形の影を置いた。ミラージュ。それから、《隠密》で自分を沈めて、影の三歩後ろへ滑った。
霧の中で、目は役に立たない。狼たちは、鼻で来る。幻には匂いがない。
だから、使い方を変えた。
幻を、ゆっくり右へ歩かせた。雪は踏まない。音もしない。ただ、霧の流れだけが、幻の動きに合わせて、わずかに揺れる。
狼たちの息が、止まった。
(匂いはこっち。でも、霧はあっちで揺れた。……迷え)
迷った狼は、動く。動けば、殻が鳴る。
鳴った順に、撃った。
四。五。六。
(霧の中で銃を構えるのは、前の人生で、山で霧に巻かれたとき以来か。……あのときは、一発も撃たずに下りたけどな)
最後の一頭は、来なかった。殻の音が、遠ざかっていく。仲間がやられたのを知って、逃げている。
のあは、立ち上がらなかった。
遠ざかる音の間隔を、三つ数えた。
(逃げる先に、帰り道があったら困る。……悪いな)
撃った。
霧の奥で、音が止まった。
(七)
静かになった。
*
倒れた狼を、一頭ずつ見て回った。魔石を取り、牙を外す。
六頭目の足元の雪に、何かが半分埋まっていた。
白い、小さなもの。
のあは、しゃがんで、手袋の指でそれを掘り出した。
狼だった。
高さは七センチほど。四本の脚で雪を踏みしめて、首を空へ伸ばしている。口が細く開いて、遠吠えの途中で固まっていた。首の周りの毛が、風に流れる向きまで刻まれている。台座は、氷を削ったような、白く透ける石だった。
スノーウルフの小像。
のあは、動けなかった。
手のひらの上で、小さな狼が、霧に向かって鳴いていた。
(……出た)
周回もしていない。狙ってもいない。仕事の途中で、たまたま。
(出た。狼が。北の狼が、北で)
(相場は、十五万から三十万。北でしか出ないなら、もっと上か。……いや、売らない。売るわけがない。棚の、空いてる台座に置くんだ)
リーヴの言葉が、本当になっていた。
のあは、反射的にゴーグルの端を見た。
暗かった。
数字も、コメントも、何もない。誰も見ていない。『出た!』も『顔』も『今笑った?』も、一行も流れない。
(……なんで、今なんだよ)
あれだけ周回した。浅い層で、何時間も。コメントには『昨日出た』『配信見たあと出た』と書かれ続けた。そのたびに、腹の中で毒づいた。
その狼が、よりによって、誰も見ていない霧の中で。
(配信外で出るな。……いや、俺が言うことじゃないのか。出たのは俺だ)
胸元のカメラのランプだけが、点いていた。
記録は、している。調整本部に提出する、仕事の記録。そこに、手のひらに載せた小さな狼の映像が、何分か残っているはずだった。
(……提出するのか、これ。……するんだよな)
(それと、ひなに写真。出たら送るって、言ったんだった。……出ちゃったよ、本当に)
のあは、小像を闇の収納には入れなかった。上着の内ポケットに、胸の近くにしまった。ボタンを、上まで留めた。
それから、立ち上がった。
仕事は、まだ終わっていなかった。
*
《探知》の濃いほうへ、さらに四百歩。
霧が、少しずつ薄くなった。地面が、ゆるく下っている。すり鉢のような窪地の底へ、霧が流れ落ちるように溜まっていた。
その底に、それは立っていた。
門だった。
入口の白い門より、一回り小さい。黒い石でできていて、表面に氷はついていなかった。
だから、紋様が読めた。
渦を巻いて、途中で折り返す線。
のあは、息を止めた。
(……同じだ)
S昇格のあと、一度だけ見せてもらった資料。東京の未クリア、零番。旧い地下鉄の廃線の奥の、あの門の写真。
線の太さも、折り返す角度も、同じだった。
(東京と、ここが。同じ紋様。……どういうことだ)
のあは、カメラが門を正面から捉える位置まで、ゆっくり動いた。十秒、動かずに映した。紋様の寄りを、もう十秒。それから、自分の端末の時計と位置を、声に出して読み上げた。
(記録は残す。誰が、いつ、ここを見つけたか)
門の奥は、暗かった。霧ではない暗さだった。
のあは、中へは入らなかった。偵察の依頼は、ここまでだった。
共通の無線に切り替えて、短く言った。
「Recon, Noa. Second gate found. Position follows.」(偵察担当、のあ。第二の門を発見。位置を伝えます)
位置と、危険だけ。昨日、自分でボードに書いた決まりだった。
『Copy. Thank you, Noa. Come back safe.』(了解。ありがとう、のあ。無事に戻ってきてください)
ベルクヴィストの小さな声が返ってきた。
*
ベースキャンプに戻ったのは、二時間後だった。
霧の外に出ても、ゴーグルの端はやっぱり暗いままだった。代わりに、紗月の姿が見えた。小屋の前で、盾を持たずに立っていた。
「おかえり」
「……戻りました」
紗月の顔が、少し硬かった。
その後ろで、ベルクヴィストが、端末を持ったまま、青い顔をしていた。
「のあ」
紗月が、低い声で言った。
「のあの偵察の結果、一時間前に共有の掲示板に出たの。決まりどおりに」
「はい」
「それを見て、アイアンリッジが出た。許可を取らずに。ダリウスさんの隊、八人で」
紗月は、霧の奥を見た。
「第二の門のほうへ」




