第61話 白い門
車の扉を開けた瞬間、吐いた息が白くなった。
真帆は、保護眼鏡の縁についた霜を指で払った。
雪原だった。どこまでも白く、途中から霧に溶けて、地面と空の境目が分からない。その手前に、灰色の組立式の小屋が二十ほど並んでいた。屋根ごとに、違う国の旗が立っている。風が吹くたび、旗が一斉にはためいた。
(これが、ベースキャンプ)
霧の向こうに、黒い影が一つだけ見えた。
石の門だった。遠くからでも、人の背丈の何倍もあると分かる。
「寒っ! え、寒い! 四月だよね?」
千晴が、防寒着の襟に顔を埋めた。紗月は荷物の数を数えている。のあは、門を見ていた。毛糸の帽子の下の目は、門から少しもそれなかった。
「のあ」
雪を踏む音がして、誰かが近づいてきた。
背の高い女性だった。紗月より、さらに高い。白に近い金色の髪を一本の三つ編みにして背中へ垂らし、薄い灰色の目をしている。防寒着の上からでも、立ち姿が整っているのが分かった。
「来てくれました。うれしいです」
日本語だった。少し硬いが、はっきりしている。
(この人が、リーヴさん)
リーヴは、手袋を外して、のあの手を両手で包んだ。
のあが、固まった。
真帆には、横からそれがよく見えた。背筋が棒のように伸びて、帽子から出た耳の先が、みるみる赤くなっていく。寒さのせいではなかった。
「……お招き、ありがとうございます」
「推薦したのは、私です。あなたは、霧の中で見える人だと思いました」
リーヴはのあの手を離して、真帆たちに向き直った。
「灯り火の皆さん。リーヴ・ハルヴォルセンです。のあの猫を、売ってもらえなかった人です」
千晴が噴き出した。のあは、雪を見ていた。
(のあ、綺麗な人の前だと、本当に石になる)
*
午後は、試射場で各国の射手が銃の照準を合わせた。
雪原の端に的が並んでいる。横から風が吹きつけて、霧が川のように流れていた。
射手は十人ほどいた。のあが列に並ぶと、隣の大柄な男が、のあの頭の上を見て、それから下を見た。何か言って、仲間と笑った。
「Is she someone's kid?」(誰かの子どもか?)
真帆にも、それくらいは聞き取れた。
「……あの人、のあのこと子どもだって」
「子どもだからね、見た目は」
千晴が小声で言った。紗月は何も言わず、男の顔を覚えるように見ていた。
のあは何も聞こえていないように、闇から魔銃を引き出した。
周りの射手が、一瞬だけ静かになった。長い銃身が、何もない空中から出てきたのだから。
順番に、撃っていく。
ほとんどの射手は、決められた間隔で撃った。風が強まった瞬間の弾は、的の端へ流れる。撃つたびに照準を直し、直した分だけ、次の風でまたずれる。
のあの番になった。
のあは、すぐには撃たなかった。
膝をついたまま、霧の流れを見ていた。十秒。二十秒。後ろで誰かが舌打ちをした。
(待ってる。風が止むところを)
流れていた霧が、ほんの一瞬止まった。
撃った。続けて、四発。
五つの穴が、的の中心で、一つの大きな穴になっていた。
さっきの大柄な男が、口を開けたまま双眼鏡を下ろした。
(腕の差じゃない。……いや、腕の差もあるけど。撃つタイミングを、自分で決めてる)
真帆は、自分のノートに書きつけた。風を読むのではなく、風が止む瞬間を待つ。待てる人だから、一発目から中心に当てられる。
「Nice shooting.」(見事な射撃だ)
野太い声がした。
四十前後の男だった。赤茶色の短いひげに、厚い胸板。防寒着の肩に、山の稜線を象った紋章がついている。
アイアンリッジ。海外の企業が抱える攻略クランだと、紗月が資料で読み上げていた。
「Darius Vale. Iron Ridge.」(ダリウス・ヴェイル。アイアンリッジだ)
ダリウスは、右手を差し出した。
のあは、その手を見た。それから、手を取らずに、深く頭を下げた。
ダリウスの手が、空中で止まった。
「……Japanese style, huh.」(……日本式ってわけか)
ダリウスは肩をすくめて手を引っ込めた。怒った様子はなかった。
(のあは、男の人に自分からは触らない。前から、そうだった)
ダリウスは、リーヴを通訳にして、のあに話しかけた。
「うちの隊に来ないか、と言っています」
リーヴが、淡々と訳した。
「この調査のあいだだけでいい。報酬は、調整本部の倍。日本円で、三千万円」
千晴の、息をのむ音がした。
のあは、ダリウスではなく、リーヴを見て答えた。
「依頼主がいるので」
リーヴが訳すと、ダリウスは声を上げて笑った。
「Loyal. I like that.」(義理堅いな。気に入った)
(笑ってる。……でも、目は笑ってない。あの人、一番じゃないと気がすまない顔だ)
「三千万……」
ダリウスが去ってから、千晴がようやく声を出した。
「のあちゃん、今、一秒も迷わなかったね」
「依頼主がいるので」
「それ、さっきも聞いた」
「……倍出す人に乗り換えたら、次はもっと出す人に乗り換えることになります。仕事は、先に受けたほうを守ります」
(のあの口から、お金より先に仕事の話が出た)
真帆は、それもノートに書こうとして、やめた。これは、射撃の記録ではなかった。
*
夜の調整会議は、二時間たっても何も決まらなかった。
大きな天幕の中に、長机が四角く並べてあった。各国の隊長と、その隣に一人ずつ。紗月はのあの隣に座り、真帆と千晴は後ろの壁際に立った。
正面にいるのは、調整担当のベルクヴィストという人だった。五十代の、灰色のひげの男性で、話し方は丁寧だが、声が小さかった。
議題は、三つしかないはずだった。明日から、どの隊がどの順で外周へ入るか。無線をどう分けるか。調べたことを、どう共有するか。
それが、終わらなかった。
通訳が三人いて、訳しているうちに次の人が話し始める。誰かが無線の話をすると、別の誰かが順番の話に戻す。ダリウスは、自分の隊が機材も人数も一番そろっているから先に入るべきだと、何度も同じことを言った。
真帆に聞き取れる英語は、半分もなかった。それでも、話が同じところを回っているのは分かった。
(会社の会議みたい。……大学のゼミでも、こういうのあった)
のあを見ると、机の下で、指を折っていた。
一本、二本、三本。折っては、開く。
それから、のあが手を挙げた。
「Can I have two minutes?」(二分、お時間をいただけますか?)
天幕の中の声が、止まった。
小さな手が、長机の上にまっすぐ上がっていた。ダリウスが話の途中で口を閉じ、ベルクヴィストが眼鏡越しにのあを見た。
のあは、立ち上がった。立っても、座っている大人たちとあまり高さが変わらなかった。
「Three open items. Entry order, radio, and information sharing.」(未決の議題は三つ。進入の順番、無線、情報共有です)
真帆には、そこまでは分かった。
そこから先は、速かった。
のあの英語は、短く、区切りがはっきりしていた。一文ごとに、一つのことしか言わない。言い終えるたびに、隊長たちの顔を一人ずつ見て、うなずくのを待った。
リーヴが、真帆たちのほうへ身をかがめて、小声で訳してくれた。
「一つ目。入る順番は、くじで決める。ただし、最初の一日は偵察だけにして、どの隊も外周の印より奥へは入らない」
のあが、ホワイトボードへ歩いていった。ペンを取り、三つの見出しを書いた。
「二つ目。無線は、隊ごとに一つと、全員が聞く共通の一つ。共通の無線では、位置と危険だけを言う」
誰かが反論しかけた。のあは、その人のほうを向いて、短く何か聞いた。相手が答えると、ボードに一行書き足した。反論は、そこで終わった。
「三つ目。調べたことは、戻ってから一時間以内に、共有の掲示板へ出す。奥へ進むときは、必ず調整本部の許可を取る」
のあは、ペンを置いた。
「Any objections?」(異議はありますか?)
天幕の中が、静かだった。
ダリウスが、腕を組んだまま、しばらくのあを見ていた。
「……Fine.」(……分かった)
ベルクヴィストが、ほっとしたように息を吐いて、何度も頭を下げた。
時計を見ると、のあが手を挙げてから、八分しかたっていなかった。
千晴が、真帆の袖を引っぱった。口が、声を出さずに動いていた。
なに、いまの。
真帆も、同じことを思っていた。
「のあ。……英語、話せたの」
席に戻ってきたのあに、真帆は小声で聞いた。
のあは、少しだけ目をそらした。
「本で、読みました」
「本で、会議の回し方まで?」
「……本で」
リーヴが、口元を手で隠して笑っていた。紗月は何も聞かずに、のあの前に水のカップを置いた。
(前にも、そう言ってた。同意書のときも。……のあの「本」、何冊あるんだろう)
*
翌朝、決まりは一日も持たなかった。
夜明け前、共通の無線が鳴った。
『Iron Ridge, Team One. Man down. Two injured, repeat, two injured』(アイアンリッジ第一班。負傷者発生。負傷者二名、繰り返す、負傷者二名)
アイアンリッジの第一班が、くじで決まった順番を待たずに、外周の印を越えて霧の中へ入っていた。訓練のつもりだった、とあとで言った。
雪の下に、氷の裂け目が隠れていた。踏み抜いた先頭の一人が落ち、引き上げようとした二人目の足元も崩れた。落ちた一人は脚を折り、二人目は肩を外していた。
運び込まれてきた担架を、千晴が真っ先に受け取った。
「脚のほう、添え木当てます! 誰か、ここ押さえて!」
「千晴、脚をお願い。寝台は私が空ける。真帆、お湯」
「分かった」
紗月の声は、いつもと同じ高さだった。千晴の添え木を当てる手つきに、迷いがなかった。真帆は、小屋の奥の鍋に雪を詰めた。
ダリウスは、担架の横で黙っていた。部下の顔を見下ろして、奥歯を噛んでいた。
ベルクヴィストが、のあの前に来た。
夜の会議のときより、声がさらに小さかった。
「霧が、昨日より濃くなっています。外周の印の先は、ほとんど誰も見ていない。大きな隊で入れば、また誰かが落ちます」
ベルクヴィストは、日本語の通訳を待たずに、英語でゆっくり言った。真帆にも分かるように、ゆっくり。
「The recon beyond the fog. Could you go――alone?」(霧の先の偵察に、行っていただけますか――一人で?)
霧の先の偵察を、あなた一人で。
のあは、霧の向こうの石の門を見ていた。




