第60話 署名欄
若葉寮の玄関には、小さな靴が並んでいた。
二十足はある。かかとを踏んだもの、泥のついたもの、左右が離れて置かれたもの。のあがいたころと、並び方はほとんど変わっていなかった。
「あらあら、のあちゃん。上がって、上がって」
奥から、園田静江が出てきた。ふくよかな体に、毛玉の浮いたカーディガン。のんびりした声も、昔のままだった。
「急にすみません。お願いがあって」
「いいのよ。お茶、淹れるわね」
(……この人の前だと、肩が勝手に下がるんだよな)
廊下の壁には、子どもの描いた絵が貼ってあった。春の遠足。桜と、弁当と、黄色い帽子の列。のあがいたころにも、同じ場所に同じような絵が貼られていた。自分の絵が貼られたことは、一度もなかった。描いていないからだ。
事務室の古いソファに座ると、背中が沈んだ。
のあは鞄から書類を出し、最後の頁を開いて、机の上へ滑らせた。
「仕事で、外国に行きます。未成年なので、ここに署名が要るそうです」
園田は老眼鏡をかけて、欄の文字を指でたどった。
「法定代理人。……そうね。十八になるまでは、私が後見人だものね」
施設を出るときに、そう説明を受けていた。必要なときだけ名前を借りる人。のあは、その「必要なとき」を、今日まで一度も作らなかった。
園田は、ペンを取る前に、のあの顔を見た。
「こうして、保護者の署名を頼みに来るの、初めてね」
のあは、湯呑みを持ったまま固まった。
「……そうでしたか」
「そうよ。小さいころから、何でも自分で済ませてきたでしょう。熱が出ても、言わないで寝てたし」
「熱は、出ないので」
「そうだったわね。でも、言わない子だった」
園田は、ゆっくり署名した。園田静江。丸みのある、大きな字だった。
「どこへ行くの」
「北の、寒いところです。二週間」
「帽子、持っていきなさいね。耳が冷えると、頭が痛くなるから」
「はい」
どこの国で、何の仕事で、どのくらい危ないのか。園田は、それ以上は聞かなかった。
(聞かれても、答えられない。……聞かないでいてくれるのは、助かる)
*
帰り際、遊戯室の前を通った。
壁際の高い棚に、硝子の小さな箱が置いてあった。職員の手が届き、子どもの手は届かない高さ。箱の中で、金色の猫が耳を立てていた。
二体目の、サーチブルキャットだった。
「見て」
いつの間にか、ひなが横に立っていた。三年生になって、背が少し伸びていた。
「毎日、見てるの。朝と、学校から帰ってから」
「……そうですか」
「耳がね、朝と夜で、ちがうほう向いてる気がする」
「向いてないと思います」
「向いてるもん」
ひなは、棚を見上げたまま言った。触りたいと言わない。出してほしいとも言わない。ただ、見ていた。
(……ちゃんと、ひなのものになってる)
のあは、棚の猫と、自分の部屋の猫を、頭の中で並べた。同じ種類の、別の一体。
「北のほうで、狼が出るかもしれません」
「おおかみ?」
「出たら、写真を送ります。園田さんに」
ひなは、初めてのあのほうを向いた。
「……ほんと?」
「出たら、です」
(約束にするな。まだ出てもいないのに。……いや、写真くらいなら、いいか)
*
出発までの二週間、仕事部屋は旅行会社のようになった。
「のあちゃん、これ着て。はい、腕上げて」
千晴が、白い防寒着の袖をのあの腕に通した。膝まである。ついでに毛糸の帽子と、指の出る手袋と、厚い靴下が三足。
「……多いです」
「少ないくらい。向こう、四月でも氷点下だって。あとね、オーロラ見えるかもしれないんだって。夜、ちょっとだけ外出ようね」
「仕事です」
「仕事の合間!」
会計は、六万二千円だった。のあは明細を見て、少しだけ眉を寄せた。
(服に六万。……いや、凍えて撃てなかったら一千五百万が飛ぶ。安い)
紗月は、机の半分を書類で埋めていた。
渡航の申請。調査への参加の同意書。支援の三人の保険。現地での連絡の順番。調整本部から届いた英語の日程表に、紗月は一行ずつ日本語を書き添えていた。
「のあ。ベースキャンプに着いた日の夜、調整の会議があるみたい。各国の隊長が集まるって」
「出ます」
「うん。私も、隣にいる」
真帆は、魔銃の輸送手続きで三日かかった。
「国を出る武器は、協会の封印ケースに入れて、向こうの窓口で開けるんだって。手数料が一丁、三万八千円」
それから、真帆はのあを見た。
「のあのは、どうするの。闇の中でしょ」
「申告します。窓口で出して見せて、封印の札を貼って、またしまいます」
「……札、闇の中で剥がれない?」
「剥がれたことはないです」
(札を貼ったまま闇に沈めた前例、たぶん俺しかいないけどな)
*
すずは、その二週間、ほとんど口をきかなかった。
仕事部屋には毎日来た。自分の席に座って、蓄力刃の手入れをして、真帆の書類の束を揃えるのを手伝った。ただ、千晴が防寒着の話をすると、鈴の絵の茶碗に目を落とした。
出発の三日前、のあは帰り道ですずを呼び止めた。
「すず」
「……はい」
「行けないのは、ランクのせいです。すずのせいじゃない」
「分かってます」
すずは、道具袋の紐を握っていた。
「分かってますけど。……留守番、ですよね。私だけ」
のあは、少し考えた。
(ここで「そうだ」って言ったら、この子はまた、自分は要らない側だと思う)
「留守番じゃない」
すずが顔を上げた。
「東京を、見ててほしい」
「……東京を?」
「小像が出始めたころから、あちこちで魔力計が揺れてるそうです。リーヴさんが、そう言ってました。都内でも、揺れるかもしれない」
のあは、すずの目を見た。
「動いたら、すずが一番先に気づく。北管理区の浅層を、ミレイさんと回ってください。まさねぇにも頼んであります。何か動いたら、見えなくても、連絡を」
「……見えなくても」
「見えなくても。すずの察知は、そういうときのためにあるので」
すずは、しばらく黙っていた。
それから、道具袋の紐から手を離した。
「見てます。……ちゃんと」
「はい。お願いします」
(留守番じゃない。俺がいない間の、東京の目だ。……本気でそう思ってる。言い方が下手なだけで)
*
「はい、これ。持ってきなさい」
出発の前の日の昼、カフェ・マーサのカウンターに、紙袋が二つ置かれた。
一つは重かった。中身は、真空の袋に詰めた煮物と、そぼろと、おにぎりの具が四種類。もう一つには、使い捨てのカイロが箱ごと入っていた。
「向こうのご飯、口に合わなかったら困るでしょ。あんた、合わないと食べないんだから」
「……検疫で、止められるかもしれません」
「止められたら、その場で食べなさい」
(その場で煮物を食うSって、どうなんだ)
まさねぇは、カウンターに肘をついた。
「すずのことは、心配しなくていいわよ。毎晩ここでご飯食べさせるから。ミレイもついてるし」
「お願いします」
「それと」
まさねぇの声が、少しだけ低くなった。
「向こうで、変な男に絡まれたら、あんたから触っちゃだめよ。分かってるわね」
「……分かってます」
「よろしい」
まさねぇは、紙袋の口を折って、のあの腕に押しつけた。いつもより、少しだけ強かった。
*
出発の前の夜。
のあは、部屋の床に荷物を並べていた。防寒着、帽子、手袋、厚い靴下が三足。闇の中には、封印の札を貼った魔銃と、短刀と、回収袋。
白い棚の、空の台座が目に入った。
(……持っていくわけにはいかないな、台座は)
端末が震えた。
ミレイからだった。
『寝る前にごめん。一応、耳に入れとくわ』
続けて、もう一通。
『都内の管理区で、今夜、魔力計がまた揺れた。一瞬だけど、針が振り切れたって。協会の中でも、まだ噂の段階』
のあは、荷物を詰める手を止めた。
また、と書いてあった。




