第59話 更新された地図
『十一箇所目です』
電話の向こうで、相原はもう一度、同じ言葉を言った。
駅へ向かう坂の途中で、のあは足を止めた。夕方の風が、まだ冷たかった。
「……十、でしたよね」
『はい。十でした』
相原の声は、いつもどおり平らだった。平らなぶん、言葉の一つずつが重かった。
『電話で言えるのは、ここまでです。明日の午前、面談室に来られますか』
「行きます」
通話が切れた。
(十一。……十じゃ、なかったのか)
S昇格の日に見た地図を思い出した。赤い印が十。そのうち、日本に二つ。
あの地図が、書き換わった。
*
翌朝は、四月一日だった。
(嘘をついていい日に、嘘みたいな話をするなよ)
面談室の机には、協会の印が二つ押された薄い資料が置いてあった。S昇格の日と同じ表紙。ただ、右上の日付が新しい。
「おはようございます。先に、確認を一つ」
相原が細い眼鏡を押し上げた。
「ここから先は、S以上の方にだけ開示する内容です。灯り火の皆さんにも、すずさんにも、配信にも出さないでください」
「はい」
相原は資料を開き、世界地図の頁をのあへ向けた。
赤い印が、並んでいた。
のあは数えた。一、二、三。日本の二つ。大陸の奥、砂漠の縁、南の海の島。
十一。
一つだけ、印の色が新しかった。北の海に浮かぶ、横に長い島の上だった。
「世界で、まだ誰もクリアしていないダンジョンは、これまで十箇所でした」
相原は、その新しい印に指を置いた。
「昨日付けで、十一箇所になりました」
「……増えることが、あるんですね」
「六十年で、初めてです」
相原は頁をめくった。
「一月に、北方の島国で大規模な魔力反応が観測されました。これはニュースにもなったので、ご存じだと思います」
「はい」
年明けの速報だった。仕事部屋で、年越しそばの丼を片づけながら見た。
「二月に、雪原の中で入口が見つかっています。見つかったこと自体と、各国が調べていることは、公表済みです」
相原の指が、写真の上で止まった。
霧の立ちこめた白い原に、石の門が立っていた。人の背丈の三倍はある。表面は厚い氷に覆われて、刻まれているはずの模様は読めなかった。
「現地では、仮に『白い門』と呼んでいます。中は霧の雪原。奥がどこまで続いているかは、まだ誰も確かめていません」
(氷で読めない、か)
S昇格のあと、一度だけ見せてもらった東京の資料を思い出した。旧い地下鉄の廃線の奥に口を開けた、通称、零番。その頁にも、門の写真が一枚あった。渦を巻いて、途中で折り返す線の紋様。妙に目に残る形だった。
「魔力の規模と、入口の門の造りから、既存の十箇所と同格と判定されました。判定のほうは、S限定です。一般には、大きな新しいダンジョンが見つかった、というところまでしか出ていません」
「分かりました」
(見つかったのは、みんな知ってる。十と同じ種類だってことは、Sしか知らない。……線は、そこか)
のあは資料の地図を、もう一度見た。印が一つ増えただけの紙だった。それだけで、腹の奥の、前の人生の男が身を起こした。まだ誰も登っていない尾根の地図を、初めて開いたときの感覚だった。
*
「それで、本題です」
相原が、封筒を一つ机に置いた。外国の切手が貼ってある。
「国際合同調査への招待状です。現地の協会と、関係する国の協会が合同で調整本部を作っています。各国から、Sを一人か二人ずつ呼んでいるそうです」
「私を、ですか」
「推薦者の欄を見てください」
のあは便箋を広げた。英語の文面の下に、署名が一つ。
Liv Halvorsen.
(……あの人か)
長い脚と、白に近い金色の髪を思い出した。のあが猫を売らないと言ったとき、呆れて、それから笑った顔。
少し前に届いた短い連絡も、思い出した。春に、会うことになりそう。
(なりそう、じゃなくて、する気だっただろ)
「期間は四月の下旬から二週間。仕事は、外周の調査と、内部の偵察です」
相原が、条件の頁を指でなぞった。
「報酬は、一千五百万円。成果に応じて加算があります」
のあは、ゼロの数を数えた。
一度では足りなくて、もう一度数えた。
(一千五百。……S向けの指名の、四倍近い)
口元が緩みかけて、のあは唇を引き結んだ。
「それと、支援の枠があります。Cランク以上の方を四名まで。ベースキャンプの設営と、搬送と、記録です。報酬は一人、百四十万円」
「内部には」
「支援の方は、原則として外周までです。国際調査の区域は、配信禁止です。記録の撮影は、調整本部に提出する前提で許可されます」
(配信はだめ。記録は残せる。……なら、いい)
のあは便箋を折りたたんだ。
条件は悪くない。金額は、かなりいい。仕事の中身は、はっきりしている。
それから、もう一つあった。
リーヴが別れ際に言った言葉だった。狼の小像が欲しいなら、北へ。北の狼は、北でしか出ない。
(……北、だな)
「受けます」
「内容を、もう一度」
「読みました。二回」
相原が、眼鏡の奥で少しだけ笑った。
「支援の枠は、どうされますか」
「灯り火に、聞きます。言える範囲で」
「北の新しいダンジョンの合同調査に、Sとして呼ばれた。そこまでなら、公表済みの話です」
「はい」
(十一、は言わない。同格、も言わない。……いつもの線だ)
*
「北! 海外!」
仕事部屋で、千晴が椅子から立ち上がった。
「え、待って。のあちゃん、パスポート持ってる?」
「持ってません」
「作らなきゃ! え、寒いよね? 上着、何持ってる?」
「……黒いのが、二枚」
「足りない!」
千晴は、もう端末で何かを調べ始めていた。
真帆は、招待状の写しに書かれた支援の条件を、指でなぞっていた。
「Cランク以上、四名まで。……私たち三人なら、入れる」
「銃を持って、国を出られるんですか」
すずが聞いた。
「手続きがいるはず。調べる」
真帆の目が、もう半分、手続きの頁のほうへ行っていた。
紗月だけが、招待状ではなく、のあを見ていた。
「のあは、行きたい?」
「……仕事として、いい条件です」
「うん」
紗月は、それだけで待った。
のあは、机の端に目を落とした。
「あと、狼が出るかもしれないので」
一拍、静かになった。
それから、千晴が噴き出した。真帆が眼鏡を押さえて横を向いた。紗月の目尻が、下がった。
「そっか。じゃあ、行こう。支援は、灯り火で受ける」
「……ありがとうございます」
すずは、鈴の絵の茶碗を両手で持ったまま、黙っていた。
Cランク以上。すずは、まだEだった。
のあは、それに気づいていた。気づいていて、今日は何も言わなかった。
(あとで、ちゃんと話す。……今言うと、この子は「平気です」しか言わない)
*
部屋に帰ると、白い棚が明かりを返した。
上から二段目に、ゴンちゃんの作った三段のひな壇が据えてある。一番上の段で、サーチブルキャットが耳を立てていた。一体目の、のあの猫だ。隣に、最初に出たゴブリン。下の段に、ハウンドドッグ。重なって出た分は、冬のうちに売って、仕事部屋の貸出棚に化けた。ここに残っているのは、残すと決めたものだけだった。
二段目の端に、黒いフェルトの台座が、空いたまま並んでいた。
のあは、そのうちの一つを、猫から一番よく見える場所へ動かした。
(……狼の席、だな)
のあは空の台座の埃を、指で払った。
夜、協会から書類が届いた。
渡航の申請と、調査への参加の同意書。のあは一枚ずつ、上から埋めていった。名前。登録番号。ランク、S。所属、クラン灯り火。
最後の頁で、手が止まった。
『参加者が未成年の場合、法定代理人の署名を要する』
その下に、空欄が一つあった。
のあは、しばらくその欄を見ていた。
(……俺の、法定代理人)
十六歳。仕事は一人でできる。部屋も一人で借りている。明細を見て口元が緩むのも、全部、一人だった。
それでも、紙の上では、まだ誰かの名前が要る。
のあは、一つだけ心当たりのある番号を、連絡先の奥から探し出した。
若葉寮。




