第58話 退所の日
行かないつもりだった。
三月三十一日の朝、のあはトースターの前で、そう決めていた。
(迎えは、園田さんと灯り火で足りる。荷物は丸山さんのトラックが運ぶ。俺が行っても、手が一本増えるだけだ)
それに、あの子が礼を言う相手が、一人増える。
パンが焼けた。一枚食べて、二枚目を焼いて、それも食べた。
白い棚の前を通るとき、ゴブリンと目が合った。ハウンドドッグと、猫とも。
八か月前、この部屋に来たとき、この棚には何も載っていなかった。
*
去年の夏、十六になった次の日に、のあは若葉寮を出た。春の退所日ではなく、誕生日で出ていく決まりの子は、一人で出る。
持ち物は、鞄一つだった。着替えと、整備の道具と、通帳。それ以外は、全部闇にしまえた。
玄関で靴を履いて、園田に頭を下げて、門を出た。門の外には、誰もいなかった。
来る人がいないことは、知っていた。知っていたから、待たなかった。
新しい部屋の鍵を開けると、白い棚が一つだけ立っていた。部屋に、最初からついていたものだった。のあは鞄を床に置いて、その棚を見て、何も思わなかった。
何も思わなかったことだけは、覚えている。
*
十時に、のあは若葉寮の門の前にいた。
(……何やってんだ、俺)
門の前に、小型のトラックが停まっていた。荷台の横に『丸山運送』。運転席から、丸山さんが降りてくるところだった。
「あら、灯り火のちっちゃい子。今日もお手伝い?」
「……通りかかったので」
「こんなとこを?」
丸山さんは笑って、のあの手に飴を一つ載せた。
荷台には、もう荷物が積んであった。
千晴が中古の店で見つけてきた、小さな冷蔵庫と洗濯機。二つで三万四千円。真帆の家から来た、三段の本棚。紗月が選んだ、窓の寸法ぴったりの薄い緑のカーテン。まさねぇが「新品じゃなきゃだめ」と言って買ってきた布団。ゴンちゃんが編んだ、座布団のカバー。
冷蔵庫と洗濯機の代金と、今日の運賃の一万八千円は、のあが出した。何を買うかは、千晴と紗月に任せた。
(金を出すのは得意だ。選ぶのは、得意な人に任せる。……それで、いい)
玄関から、大きな鞄を抱えたまどかが出てきた。後ろに、段ボール箱を二つ重ねた千晴と、紗月が続く。
「あ! のあ先輩!」
まどかが、鞄ごと手を振った。
「来ないって言ってたじゃん」
「通りかかったので」
「ここ、駅から坂の上っすよ?」
千晴が、段ボールの陰で吹き出した。紗月は何も言わなかった。目尻だけが、下がっていた。
玄関の奥で、園田がカーディガンの前を合わせて立っていた。のあを見て、ゆっくり笑った。
「来てくれたのね」
「……通りかかったので」
「そう」
園田は、それ以上何も言わなかった。
二階の窓に、小さな顔があった。ひなだった。窓際の棚に、猫の小像が飾ってあるのが見えた。ひなは、のあに気づくと、猫を指さして、それから小さく手を振った。
のあは、少しだけ手を上げた。
ほかの二人の子は、もう出ていった。一人は親戚が、一人は勤め先の人が迎えに来たらしい。
まどかの荷物が、最後だった。
*
新しい部屋は、朝の光でいっぱいだった。
丸山さんと紗月が冷蔵庫を運び、千晴がカーテンを吊った。のあは、洗濯機の水の栓を締めた。真帆は仕事の都合で来られなかった代わりに、本棚と一緒に手紙を一枚寄こしていた。『棚の二段目は、帳簿用』。
一時間で、空の部屋が部屋になった。
まどかは、部屋の真ん中に座って、しばらく何も言わなかった。
カーテンが、窓の幅にぴったり収まっていた。
「……先輩、これ、測ったの?」
「見学のとき、窓の数字を見たので」
「指でなぞってたやつ?」
「なぞってました」
まどかは、カーテンの裾をつまんだ。それから、膝を抱えた。
「なんか。……一人で出るもんだと思ってた。みんな、そうだったから」
のあは、窓の外を見ていた。
(そうだよ。俺も、そうだった)
言わなかった。一人で出た日のことは、この部屋に持ち込むものではなかった。
「一人で出る日も、あると思います。今日は、違っただけです」
「……それ、慰めてます?」
「事実です」
まどかが、笑った。膝を抱えたまま、肩を揺らして。
それから、本棚の空の段を見上げた。
「先輩の部屋って、何があるんすか。配信だと、いつも真っ暗じゃないすか」
「棚が一つ」
「それだけ?」
「……今は、小像が三つ載ってます」
「キモいのと、猫と?」
「と、犬です」
まどかは、真帆の手紙を本棚の二段目に立てかけた。『帳簿用』の字が、こちらを向いた。
「あたしも、なんか並べよっかな。一個目、何にしよ」
「最初の一個は、急がなくていいと思います」
(俺は、三か月かかった。……それでよかった)
千晴がカーテンの端を直しながら、こっそり笑っていた。
*
昼過ぎに、蓮が来た。
胸当ては、革が張り替えられていた。工房で、一万六千円。背中には、貸出棚から借りた小盾。
「引っ越し、終わったか」
「終わりました!」
「じゃあ、ちょっと出ろ。明日の当番のこと」
蓮はまどかを外へ呼んで、アパートの前の低い塀に並んで腰かけた。のあも、少し離れて立った。紗月と千晴は、部屋の中に残った。紗月は、窓から一度だけこちらを見て、それから段ボールを畳む作業に戻った。
(……聞かないでいてくれる。いつも)
蓮が、上着の内ポケットから紙を一枚出した。
手書きだった。大きな字で、上から順に並んでいる。
引き継ぎで言うこと。どこで、何が、何体。足跡の大きさ。見に行ったか、行ってないか。
「明日、俺が午前で、お前が午後な。引き継ぎは俺から。分かんなかったら、分かんないって言え。それで十分だから」
「はい」
「それと」
蓮は、紙の一番下を指さした。
赤い灯は、見えたら先に上げる。考えるのは、あと。
「俺は、これを上げるのが遅れた。一回。……台車の前で」
蓮は、それだけ言った。どうなったかは、言わなかった。
まどかは、紙を両手で持って、じっと見ていた。
「あと、休め。週に二日は、絶対。休んだ日の分は、休んだ日の分だ。取り返そうとすんな」
「週に二日も休んだら、お金足りなくないっすか」
「足りる。当番の賃金は、そういうふうにできてる。……足りなくなるのは、休まないで壊れたときだ」
蓮は、まどかの紙を指で叩いた。
「それと、帳簿の会。来月、来い。飯が六百円で、量がすごい」
「行きます!」
のあは、塀の端で、それを聞いていた。
(受けたものを、次へ渡してる。……俺より、ずっと上手い)
のあが蓮に渡したのは、伝票の裏の三行と、十万四千円だった。蓮がまどかに渡しているのは、紙一枚と、自分がしくじった話だった。
どっちが効くかは、分かっていた。
蓮が、こちらを見た。
「何だよ」
「何でもないです」
「顔が、何でもなくねえ」
「……休みは、週に二日ですか」
「文句あるか」
「ないです」
(前の職場の俺に、聞かせてやりたい)
*
夕方、のあは一人で、駅への坂を下りていた。
灯り火の二人は、丸山さんのトラックで仕事部屋へ戻った。まどかは、部屋の窓から、見えなくなるまで手を振っていた。
風が、まだ冷たかった。坂の下に、駅の明かりが見えた。
(行かないつもりだったのにな)
のあは、ポケットの飴を出した。丸山さんにもらった、苺の味だった。
八か月前、誰もいない門を一人で出た。今日は、門の前にトラックがいて、新しい部屋の窓から、見えなくなるまで手を振る人がいた。
あの子の門が、自分の門と同じにならなかった。
それで、十分だった。
飴を口に入れたとき、端末が鳴った。
画面に、相原の名前。
「……はい」
『のあさん。お休みのところ、すみません』
相原の声は、いつもどおり平らだった。平らなまま、一拍だけ、間が空いた。
『S向けの情報が、更新されました』
のあは、足を止めた。
『十一箇所目です』




