第55話 保証人の欄
「部屋探しに、ついてきてもらえませんか」
仕事部屋の机で、紗月は納品書をめくる手を止めた。
のあが、机の向かいに立っていた。座らずに、上着も脱がずに。用件だけ言って帰れる姿勢だった。
「私が?」
「紗月さんが、一番そういうのに慣れていると思うので」
二月の初めだった。窓の外で、風が電線を鳴らしていた。
「誰の部屋?」
「寮を、三月に出る子です。十六歳。部屋が、まだ決まってないそうです」
寮、とのあは言った。施設、とは言わなかった。
(施設の子。……のあが出たところの、次の子)
「のあの部屋のときは、どうやって借りたの?」
「私のは、参考にならないので」
のあは、それだけ言った。
紗月は、その先を聞かなかった。相原の相談室で約束した二つのうち、一つ目がまだ胸に残っている。聞いたあとで、詳しく話してほしいと求めないこと。
「いつ?」
「土曜の午前です」
「空けとく」
のあは小さく頭を下げて、それから、やっと椅子を引いた。
(頼まれた。のあに、頼まれた)
紗月は納品書に目を戻した。数字が、しばらく頭に入ってこなかった。
*
土曜の朝、駅の改札の前に、女の子が一人立っていた。
紗月の肩くらいの背。前髪を二本のピンで留めて、ダウンの前を顎まで閉めている。のあを見つけると、片手を大きく振った。
「のあ先輩! ほんとに来たし」
「来ると言いました」
「言ったけどさあ。あ、こっちが灯り火のリーダーさん? 配信で見たことある。背ぇ高っ」
「三枝です。よろしくね」
「小西まどかです。まどかでいいっす。今日はすいません、休みの日に」
まどかは、ぺこりと頭を下げた。明るい子だった。明るく見せるのが上手な子なのかもしれない、と紗月は思った。
「当番で、この辺の管理区に入ってるんで。近くがいいんですよね。家賃は、四万以下で」
当番、と言ったところで、のあの目が一瞬だけまどかを見た。まどかは気づかずに、地図の画面を開いていた。
*
一件目の不動産屋は、駅前の角にあった。
担当の男は愛想がよかった。まどかの希望を聞いて、三つの間取り図を並べた。そのうちの一つ、管理区まで歩いて十分の一K。家賃三万九千円。
「いいじゃん、これ」
まどかが身を乗り出した。
「では、お申込みの書類を。未成年の方ですと、法定代理人の方の同意と、連帯保証人の方のお名前が」
「同意は、施設長がしてくれます。保証人は、いないです」
まどかは、先に言った。慣れた言い方だった。
「保証会社のご利用でも、緊急連絡先にご親族の方が必要でして……」
「いないです」
「ご収入の証明は」
「協会の、仕事の明細なら。八か月分あります」
担当の男は、明細を見て、それからまどかの顔を見た。困った顔をした。悪い人ではないのだと、紗月にも分かった。
「申し訳ありません。大家さんの条件で、この物件は……」
二件目も、同じだった。三件目では、書類を出す前に断られた。
三件目の店を出たところで、まどかがダウンのポケットに手を突っ込んだ。
「ほら。言ったっしょ。知ってたんで、あたし」
笑っていた。口だけで。
「去年出た先輩も、四件目でやっと決まったって。駅から二十五分のとこ。だから、まあ、そういうもんなんですよ」
(そういうもの、じゃない)
紗月は、自分の手袋の中で指を握った。
この子は、何も悪いことをしていない。八か月、働いた明細がある。貯金もある。足りないのは、紙の一行だけだった。書いてくれる大人の、名前が一つ。
のあは、黙って三件目の店の看板を見上げていた。怒っている顔ではなかった。数を数えている顔だった。
「のあ」
「はい」
「緊急連絡先、クランの窓口でもいいか、聞いてみていい?」
のあが、こちらを見た。
「灯り火は、協会の登録クランでしょう。運営の窓口は私。連絡がつく大人の名前が要るなら、私の名前でいいはず。……まどかさんがよければ、だけど」
まどかが、ぽかんと口を開けた。
「え、いいんすか。そういうの、迷惑じゃ」
「迷惑かどうかは、聞いてから決めよう」
紗月は、相原の番号を押した。
*
『登録クランの運営窓口を、緊急連絡先にする方法はあります』
電話の向こうで、相原はいつもどおり一つずつ言った。
『協会の住宅相談の窓口に、提携している不動産会社の一覧があります。そこなら、登録クランの窓口を緊急連絡先として受けてもらえます。収入の証明は、協会の仕事の予定表で代えられます。法定代理人の同意は、施設長さんに』
「そんな一覧、あったんですね」
『……あります。窓口に来た方にしか、お渡ししていないので』
相原の声が、ほんの少しだけ沈んだ。
『今日の午後、一覧を送ります。それと、この件は、私のほうでも持ち帰らせてください』
通話を切ると、まどかが紗月を見上げていた。
「協会の仕事の予定表って、当番の――」
「予定表です」
のあが、横から言った。
まどかは、あ、という顔をして口を閉じた。
二人とも、同じ黙り方だった。ある話の手前で、ぴたりと止まる。言えないことを、体で覚えている止まり方。
(……前にも、見た)
相原の相談室の、紙一枚の話を聞いたあと。のあは、紗月の顔ではなく、胸のあたりを見ていた。施設の話が、仕組みの話へ近づくと、のあはいつもそこで口を閉じる。
協会の、当番。施設を出た子たちの、仕事。まだ紗月の知らない何かが、その下にある。
(聞けば、たぶん答えない。答えられないことなのかもしれない)
だったら、聞かない。聞かないで、紙の一行を埋めればいい。
「一覧、午後に来るって。お昼、食べてから行こうか」
「……はい」
まどかは、少しだけ肩の力を抜いた。
*
提携の不動産屋は、管理区の反対側にあった。
一覧の三番目。駅から徒歩八分、二階の一K。家賃三万八千円。日当たりはいい。風呂とトイレは別。
初期費用の見積もりは、十一万四千三百円だった。敷金と礼金はなし。前家賃三万八千円、仲介手数料四万千八百円、保証会社の初回一万九千円、火災保険一万五千五百円。
「払えます」
まどかは、通帳の頁を開いて見せた。二十一万三千円。当番の八か月で、自分で貯めたお金だった。
(……すごいな、この子)
紗月は、書類の緊急連絡先の欄に書いた。クラン灯り火、運営窓口、三枝紗月。
法定代理人の欄は、空けたまま。施設長の園田さんが、来週まとめて書いてくれるらしい。
連帯保証人の欄には、斜線が引かれた。保証会社で足りる、という意味の線だった。
まどかは、その斜線をしばらく見ていた。
「……線、一本なんすね」
「うん。一本」
「三件回って、線一本かあ」
まどかは笑った。今度は、目も少し笑っていた。
のあは、窓際で間取り図を見ていた。何も言わずに、窓の寸法の数字を、指でなぞっていた。
帰り道、まどかは改札の前で振り返った。
「のあ先輩。あと、三枝さん。……ありがとうございました」
深く、頭を下げた。
のあは、少し困った顔をした。お礼をどう受け取ればいいか分からない、という顔だった。
「審査は、まだです」
「知ってますって。そういうとこ、変わんないっすね」
まどかは、笑って手を振って、改札の向こうへ消えた。
*
駅からの帰り道、紗月はのあと並んで歩いた。
「カーテン、要るよね。あの窓」
「……窓の寸法、見てました」
「知ってる。指でなぞってたから」
のあは、少しだけ歩く速さを落とした。
「冷蔵庫と、布団も、要ります。四月は、当番の給料が出るまで間があるので」
「千晴に言えば、中古のいいの、三日で見つけてくるよ。真帆は、たぶん本棚を持ってる」
「……頼んでも、いいですか」
「いいよ」
紗月は、それだけ言った。
(今日、二回目だ。頼まれたの)
のあの端末が、鳴った。
のあは画面を見て、足を止めた。
ミレイからだった。紗月にも、表示の一行だけが見えた。
『あんたの先輩、工房に来なかったわよ。代わりの胸当ての約束、今朝だったのに』
すぐに、二通目が来た。
『北管理区の窓口で見た子がいるの。グレイトホーンボアの群れの依頼、一人で受けたって。報酬、四十八万』
のあの顔から、表情が消えた。
日向蓮という名前は、紗月も知っていた。先月、工房から、代わりの胸当ての貸し出しの確認が灯り火に来た。のあの紹介の子だと、書いてあった。
「……一発で、返すつもりだ」
のあが、小さく言った。
誰に向けた言葉でもなかった。のあはもう、北管理区の方角を向いていた。




