第54話 数字を見る
三日後の昼、のあは天然型の管理区の門の脇に立っていた。
午前の当番が終わるのは、十二時半。窓口の壁の当番表に名前は出ていないが、Dの区画の午前は、毎日同じ背の高い影が出てくる。
(待ち伏せだな、これ。……花束は持ってないから、セーフだ)
十二時四十分に、欠けた盾が門を出てきた。
蓮は、のあを見て足を止めた。
「……何」
「お昼、行きませんか」
「金ない」
「今日は、私が払います」
蓮の顔が、分かりやすく曇った。
「施しなら、要らねえよ」
「違います。話があるのは、こっちなので。呼び出した側が払うのは、打ち合わせと同じです」
(前の会社の経費精算の理屈だ。通るか)
蓮は、しばらく黙っていた。それから、腹が鳴った。蓮の腹だった。
「……どこ」
「二駅先です。日替わりの量が多いところ」
*
「あら、のあ。男の子連れてくるなんて、珍しいじゃない」
カフェ・マーサの扉を開けた途端、まさねぇの声が飛んできた。
「寮の先輩です」
「そう。いらっしゃい。座んなさい」
まさねぇは、それだけで奥の四人掛けを指した。窓際の席では、ミレイが昼のサラダをつつきながら画面を見ていた。
生姜焼きの定食が二つ来た。蓮の皿だけ、ご飯が山になっている。
蓮は、箸を取ると一度も止めなかった。寮の食堂と同じ食べ方だった。皿を腕で囲って、背を丸めて、最後の一粒まで。
食べ終わって、蓮は長く息を吐いた。肩が、門の前にいたときより二センチ下がっていた。
「……うまかった」
「よかったです」
のあは、水を一口飲んでから言った。
「家賃、見ました。三日前」
蓮の肩が、また上がった。
「見なかったことに、できねえのかよ」
「できません。見たので」
蓮は、テーブルの端を指で叩いた。
「五万二千。二か月で、十万四千。今月末に、まとめて払う。だから夜間も入れてる。それだけの話だ」
「その払い方の数字を、見せてもらえませんか。見せられる分だけでいいです」
「……なんで」
窓際から、声が飛んできた。
「見せときなさい。その子、数字を読むのだけは、協会の誰より速いわよ」
ミレイは、画面から顔も上げていなかった。
蓮はしばらく迷ってから、上着の内ポケットを探った。出てきたのは、輪ゴムでまとめた領収書の束と、端末の家計の記録だった。記録は、十一月の途中で止まっていた。
*
のあは、まさねぇの伝票を一枚裏返して、ボールペンを取った。
十一月。当番、二十七回。日当九千八百円で、二十六万四千六百円。魔石と素材の買取が、三万一千円。
(手取り二十九万五千六百。……売上だけなら、前の人生の俺の新卒のころより多い)
収入は、悪くなかった。問題は、その下だった。
修理、七万一千円。胸当てが三万八千円、盾の縁が二万四千円、剣の研ぎが九千円。どれも、同じ店の名前だった。管理区の駅前にある、即日仕上げの店。
回復薬、四本で一万九千二百円。管理区の売店の、定価。
十二月。当番、六回。手取り、六万六千八百円。
「十二月、何がありました」
「三日に、手首やった。疲れてて、受け身取りそこねた。骨にひびで、三週間」
病院、一万八千六百円。
のあは、ボールペンで線を引いた。十一月から十二月へ。二十九万五千六百円が、六万六千八百円になる線。
「修理を即日の店に出すのは、休まないためですよね」
「当たり前だろ。協会の整備窓口は一万四千円だけど、三日かかる。三日休んだら、二万九千四百円が消える」
(計算は、合ってる。一日単位では、合ってる)
「だから休まずに二十七回入って、手首を痛めて、三週間ゼロになった」
蓮の口が、開いて、閉じた。
「取り返そうとして、今は夜間も入れてる。寝ないで入って、三日前、合図が遅れた。……次は、手首じゃ済まないかもしれないです」
のあは、伝票の上に丸を一つ描いた。二十七回から、ゼロへ。ゼロから、取り返すための夜間へ。夜間から、また次のゼロへ。
(高い修理代は、休まないための保険料だ。なのに、休まないせいで怪我をして、稼働がゼロになる。保険の払い方が、逆なんだよ)
前の人生で、同じ形の資料を何度も作った。売上を追って人を詰めて、詰めた人が倒れて、売上ごと消える。会議室では、誰もが「分かっている」と言った。
「分かってるよ、そんなの」
蓮が言った。声が、低かった。
「分かってても、ほかのやり方、知らねえんだよ。誰に聞けばいいのかも、知らねえ」
のあは、ボールペンを置いた。
(……それだ。悪いのは、こいつじゃない)
怠けていたわけでも、遊んでいたわけでもない。領収書は、一枚も捨てずにとってある。当番の報告は、教わった順番どおりだった。
ただ、知らなかった。知らないまま、一人で、全部を正しくやろうとしていた。
「共済、入ってますよね」
「……何それ」
「探索者の登録をしたとき、全員が自動で入る共済です。怪我で十四日以上休んだら、休業の給付が出ます。一日六千円」
蓮は、まばたきをした。
「十二月の三週間なら、二十一日で、十二万六千円。申請の期限は九十日だから、まだ間に合います」
「……なんで、そんなの知ってんだよ」
「登録のときにもらう冊子の、後ろのほうに書いてあります。十四ページ」
(誰も読まない場所に、一番大事なことを書く。前の業界でも同じだった)
蓮は、領収書の束を握ったまま、動かなかった。
「……誰も、教えてくれなかった」
「私も、誰にも教わってません。読んだだけです」
それが慰めにならないことは、言ってから分かった。
窓際で、椅子を引く音がした。
「修理のほうは、あたしから」
ミレイが、画面をこちらへ向けて立っていた。
「灯り火が素材を納めてる防具工房。胸当ての修理は一万六千円から。直してるあいだは、代わりの胸当てを貸してくれるわ。当番、休まなくていいのよ」
「……貸して、くれるんですか」
「いい客には、ね。紹介状は、あたしが書いてあげる。相談料は、そうね。あんたが次にちゃんと寝た日の報告でいいわ」
ミレイは、それだけ言って自分の席に戻った。
*
「それで、家賃ですけど」
のあは、伝票の空いているところへ、ペンを戻した。
「十万四千円、私が立て替えます」
「だから、施しは――」
「施しじゃない。貸し」
のあは、蓮の目を見た。
「返し方は、選べる。共済の給付が入ったら一括でもいいし、月に一万ずつでもいい。利子は取りません」
(貸しは、あとで何に化けるか分からない。……俺はそう思って、ずっと奢られるのを嫌がってた。だから、化けないように、先に紙に書く)
蓮は、白い伝票を見ていた。
「……なんで、そこまですんだよ。同じ寮にいたってだけで」
のあは、少し考えた。
同じ寮にいたから、ではなかった。そもそも、同じ食堂の列に並ばなかったほうだ。
「寝てない人の合図で、台車の前を歩くのが嫌なので」
蓮が、ぽかんとした。
それから、テーブルに額がつきそうなくらい、下を向いて笑った。声は出ていなかった。肩だけが揺れていた。
「……ひでえ理由」
「本当の理由です」
のあは、伝票の一行目に書いた。
十万四千円を貸す。利子なし。返し方は、借りた人が決める。
蓮が、二行目に書いた。のあより、ずっと大きな字だった。
共済の申請は、今週中。
三行目は、少し迷ってから書いた。
夜間は、やめる。
「これ、控え、撮っていいか」
「どうぞ。私も撮ります」
蓮が、署名をしてから右手を出しかけた。握手の形だった。
のあは、その手を見て、伝票のほうを蓮の前へ滑らせた。
蓮は一瞬止まって、手を引っ込めた。気にした様子はなかった。
(悪いな。そういうのは、やらないことにしてるんだ)
カウンターの奥で、まさねぇがフライパンを置く音がした。
「はい、二人とも。作り置き、持ってきなさい。先輩くんの分もあるわよ」
「……俺の分?」
「あんた、ほっとくとコンビニで済ますでしょ」
「……済ます」
「ほらね」
まさねぇは満足そうに笑った。紙袋が二つ。片方には、もう太い字で『れん』と書いてあった。
*
夜、部屋でまさねぇの煮物を温めていると、端末が鳴った。
画面に、『若葉寮』の三文字。
「……のあです」
『のあちゃん、こんばんは。園田です。遅くにごめんなさいね』
のんびりした声だった。のあの肩から、力が半分抜けた。
『クリスマスのとき、少しお話ししたでしょう。春に出る子たちのこと』
「はい」
『今年は、三人出るの。二人は、なんとか決まったんだけどね』
電話の向こうで、園田が一度、言葉を探した。
『一人だけ、行き先がなかなか決まらない子がいるの。……のあちゃんに、聞いてもいいかしら』




