第53話 同じ施設の
待合のテレビが、まだ同じ映像を流していた。
白い雪原を、上空から撮ったものだった。画面の下に『北方の大規模魔力反応 続報』の文字。解説の人が、原因はまだ分からない、と今朝も同じ説明をしている。
年明けの速報から、半月がたっていた。
(前触れ、ね)
リーヴの声が、耳の奥に残っている。私たちは、何かの前触れだと見ている。
(で、その続きはいつ来るんだよ。……来ないなら、来ないでいいけど)
のあはテレビから目を外して、窓口へ歩いた。
「のあさん、午後の当番ね。お疲れさま」
当番係の窓口で、白髪の職員が依頼票を出した。天然型のこの管理区に、もう二十年いる人だ。のあが十四で最初の当番に入った日も、この人が票を出した。
「はい」
「今日は、午前の子から引き継ぎがあるから。運搬路の入口で待ってて。……日向くんって、知ってる?」
のあは、少しだけ首を傾けた。
「若葉寮の、ですか」
「そう。同じとこの出身。先輩だね」
職員は、それ以上は言わなかった。当番の割り振りを知っているのは、この窓口と、当番に入る本人たちだけだ。
(日向。……日向蓮)
寮の食堂で、いつもおかわりの列の先頭にいた、背の高い男子。のあより二つ上。話したことは、ほとんどない。
Sになっても、当番は当番だった。月に四回、日当は一万二千円。割は悪くないし、断る理由もない。
(それに、ここの坑道なら目をつぶっても歩ける)
*
運搬路の入口に、台車が三台並んでいた。休憩所から、作業班の人たちが出てくるところだった。
その手前の柵に、男が一人もたれていた。
胸当ては傷だらけだった。表面の革が何か所も裂けて、布のテープで押さえてある。左腕の小盾は、縁が欠けていた。背は伸びていたけれど、上着の上から肩の骨が分かるほど痩せている。
目の下が、黒かった。
「……のあ、か」
男は、柵から体を起こした。
「日向さん。お久しぶりです」
「覚えてたんだ」
「おかわりの列で、いつも先頭だったので」
蓮は、口の端を少しだけ上げた。笑ったのかどうか、分からない程度だった。
「そっちは、いつも列にいなかったな。晩飯の時間に、帰ってこないから」
(……見られてたのか)
「引き継ぎ、やるぞ。歩きながらでいいか」
「はい」
*
運搬路は、坑道の真ん中を奥へ延びている。天井の照明が、一定の間隔で点いていた。
「三番の分かれ道で、ハウンドドッグ二体。処理済み。四番の枝道の奥に、新しい足跡。見に行ったけど、いなかった」
蓮の報告には、抜けがなかった。当番で教わる順番どおりだ。
(ちゃんとしてる。カリキュラムを、全部覚えてる)
「足跡の大きさは」
「……普通の。一体分だと思う」
答える前に、一拍あった。瞼が重そうに下りて、上がった。
「午前は、何時からですか」
「六時。その前に、隣の区画の夜間巡回」
(夜間から、そのまま午前。寝てないな)
「休みは」
「先週、一日」
のあは、それ以上聞かなかった。
代わりに、蓮のほうが口を開いた。
「クリスマス、寮に来たんだってな」
「……誰から」
「園田さん。たまに電話くるんだよ。ちゃんと食べてるかって。のあちゃんが来てくれたのよ、って、すげえ嬉しそうだった」
(園田さん、しゃべったのか。……しゃべるよな、あの人は)
「ちびたちが、ゴブリンのぬいぐるみ取り合ったって。キモいキモいって言いながら」
「はい。取り合ってました」
「俺は、行けなかった。当番、入れてたから」
蓮は前を向いたまま言った。行けなかった、なのか、行かなかった、なのか、のあには聞き分けられなかった。
「今度、顔を出せばいいと思います。園田さん、喜ぶので」
「……顔出せるような格好になったらな」
蓮は、テープだらけの胸当てを、軽く叩いた。乾いた音がした。
後ろから、車輪の音が近づいてきた。作業班が、奥の採掘場へ鉱石を取りに戻るところだった。先頭の台車を押しているのは、六十近い班長だった。
決まりでは、当番が台車の前を歩く。運搬路の脇に魔物が出たら、赤い灯を振って台車を止める。
蓮が、腰の赤い灯に手をかけて前へ出た。
四番の枝道の前を通りかかったときだった。
枝道の暗がりで、何かが動いた。
(――いる)
灰色の背。ハウンドドッグが一体、低く伏せたまま、車輪の音へ耳を向けていた。
蓮の顔も、そちらを向いた。
向いたまま、止まった。
赤い灯を握った手が、上がらない。見えているはずなのに、見えたことが腕まで降りてこない。そういう止まり方だった。
台車は、止まらずに進んでくる。
ハウンドドッグが、後ろ脚に力をためた。
のあは、影から魔銃を抜いていた。狙うのは枝道の奥の岩壁側。台車も、班長も、蓮も、射線に入らない角度。
一発。
跳んだ瞬間の首へ、闇の弾が入った。灰色の体が運搬路の端に落ちて、転がった。
それから、赤い灯が上がった。
「止まって!」
蓮の声は、裏返っていた。
班長が慌てて台車を引いた。重い車輪が斜めに滑り、積んでいた空の籠が二つ、床に落ちて跳ねた。台車の角が照明の支柱にぶつかって、やっと止まった。
倒れた犬まで、あと一歩の場所だった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……合図、遅かったぞ、兄ちゃん」
班長が、籠を拾いながら言った。怒鳴る声ではなかった。疲れた人に言う声だった。
「すみません」
蓮は、赤い灯を握ったまま頭を下げた。
のあは枝道の奥をもう一度見てから、銃を下ろした。二体目の気配はない。
(足跡の一体分は、こいつか。見に行ったときは、もっと奥にいたんだろう)
*
作業班が奥へ進んでから、蓮は枝道の前にしゃがんだ。倒れた犬を、しばらく見ていた。
「見えてたんだ。俺も」
「はい」
「見えてから、手が動くまでに、……何か、挟まった」
蓮は、自分の手を開いて、閉じた。
「寝てないからだと思います」
「寝てる暇、ないんだよ」
蓮は立ち上がった。のあより、頭二つ高い。
「あんたは、見えてから撃つまで一秒もないもんな。寮にいたときからそうだった。一人で潜って、一人で稼いで」
蓮は、胸当てのテープの端を指で押さえた。
「先生たちに、何回言われたと思う。『のあちゃんは年下なのに、一人でやってるのに』って」
(……言われてたのか。そんなこと)
初めて聞いた。
施設にいたころ、職員は誰も、のあにほかの子の話をしなかった。ほかの子にのあの話をしていたことも、知らなかった。
「別に、あんたが悪いんじゃない。分かってる」
蓮は、欠けた盾の縁を見た。
「あんたみたいには、なれないんだよ。俺は」
のあは、何か言おうとした。
(見習うな。俺のは、三十二年分の下駄だ。下駄を履いた四歳と比べられて、たまるか)
言えることではなかった。
「……私と比べるのは、やめたほうがいいです」
「そうだな」
蓮は、短く笑った。今度は、はっきり笑った。
「比べる気にも、ならねえよ」
(そういう意味じゃない。……いや、そう聞こえるか。聞こえるな)
言い直す言葉を探しているうちに、蓮は運搬路の出口へ歩き出していた。
*
午後の当番は、それからハウンドドッグ一体で終わった。
窓口への報告は一行で済んだ。枝道の犬は、午前の引き継ぎ中の処理として、蓮の記録にも載せてもらった。
隣の窓口で、蓮が帰還の署名をしていた。
職員が明細を読み上げる。午前の日当、九千八百円。魔石二つで、六千四百円。
(Dの区画の単価だ。これに夜間巡回を足して、休みが週に一日)
前の人生で、似た働き方をした同期がいた。数字の上では回っていた。回っているうちに、ある朝、来なくなった。
蓮は、署名のあいだ、端末を台の上に置いていた。
画面が、光った。
『【重要】家賃のお支払いが確認できません 十二月分・一月分 至急ご連絡ください』
蓮の手が、画面を裏返した。
速かった。赤い灯を上げたときより、ずっと。
目が合った。
蓮は何も言わずに、端末を上着の内側へしまった。職員に会釈して、出口へ歩いていく。欠けた盾が、背中で小さく揺れていた。
(……二か月)
のあは、自分の明細を閉じた。一万二千円と、魔石の代金。今日の数字が、急に軽く見えた。




