第5話 野良猫
「あら、のあ。来たわね。座んなさい」
昼のカフェの扉を開けた途端、カウンターの奥から野太い声が飛んできた。
のあは逃げる間もなく、窓際の席へ押し込まれた。
声の主は、百八十を超える背丈の男だった。白いシャツの袖をまくった腕は細いのに、筋が浮いている。エプロンの紐が、分厚い背中で蝶結びになっていた。
まさねぇ。本名はまさし。そう呼ぶと睨まれる。
夜はバー、昼はカフェ。本人いわく「趣味と実益」の店で、ときどき自分でカウンターに立つ。これでSランクの探索者だと言っても、客の誰も信じないだろう。
「今日は、何も頼んでないです」
「知ってるわよ。頼まれてないもの。はい、日替わり」
鶏の照り焼きに、小鉢が三つ。味噌汁と、山盛りのご飯。
(頼んでないって言ったのに、もう出てる)
「お代は」
「いらないわよ。どうせあんた、朝はパン一枚でしょ」
「……二枚です」
「一枚も二枚も変わんないのよ」
のあは箸を取った。照り焼きの皮が香ばしい。一口で、腹が鳴った。
(……うまい。くそ。ここに来ると毎回これだ)
まさねぇは向かいの椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。
「で? 聞いたわよ。女の子のパーティ、助けたんですって?」
「どこで聞いたんですか」
「配信。あたし、あんたのチャンネル見てるもの」
「……」
(見てるのか。この人が、あの暗い画面を)
「真っ暗で何も見えないけど、あんたの『はい』だけ聞こえるのがいいのよね。寝る前に流してるわ」
「まさねぇもですか」
「も、って何よ」
のあは味噌汁をすすって、ごまかした。
「それで? その子たちと、ご飯行ったんでしょ。どうだったの」
「……普通でした」
「普通って顔じゃないわね」
まさねぇは、のあの顔をのぞき込んだ。のあは目をそらした。
「女の人は、緊張します」
「知ってるわよ。あんた、綺麗な子の前だと石になるもの」
「なってません」
「なってるわよ。この前、うちのバイトの子にお水出されて、固まってたじゃない」
(あれは、急に横から来たからだ)
まさねぇは、ふっと笑った。
「いいじゃない。相手はあんたを助けた恩人扱いしてるんでしょ。あんたが何者かなんて、向こうは気にしてないわよ。餌もらえるなら、もらっときなさい」
「餌って」
「餌付けよ。あんたなんか、ご飯出されたら三秒で警戒解くじゃない。今みたいに」
のあは自分の皿を見た。照り焼きが、もう半分ない。
(……反論できない)
食べ終えて立ち上がると、紙袋が差し出された。重い。
「作り置き。煮物と、きんぴらと、鶏そぼろ。三日で食べなさい」
厨房の奥で、誰かが鍋を洗う音がしていた。この店で、まさねぇ以外の店員の顔を、のあはまだ見たことがない。
「多いです」
「多くないわよ。あんた、ほっとくとカップ麺で済ますでしょ」
「済ましません」
「済ますわよ」
押し問答の末、のあは紙袋を持って店を出た。
(……三日は無理だ。二日で食べる)
*
扉が閉まる音を聞いてから、まさねぇはエプロンのポケットから端末を出した。
「あ、黒瀬ちゃん? 今、来たわよ。ええ、ちゃんと食べてった。……女の子のお友達ができたみたい。いい子たちよ、配信で見た限りはね」
窓の外、小さな背中が角を曲がって見えなくなった。
「あの子は、もう大丈夫よ」
まさねぇは、紙袋を抱えて歩く後ろ姿を思い出して、目を細めた。
「まぁ、うちの子なのは変わらないけどね!」
『……お前の子じゃねえだろ』
電話の向こうで、黒瀬が呆れた声を出した。
「あら。あの子にいちばんご飯食べさせてるの、あたしよ?」
*
灯り火の仕事部屋は、通りから少し入ったところにあった。
戸を叩くと、真帆が顔を出した。
「のあ! 本当に来てくれた」
「動画、見る約束だったので」
(来たのは約束だからだ。菓子のためじゃない)
中には大きな机と道具棚。台所もあるが、家というより作業場だった。奥のソファには、畳んだ布が几帳面に積んである。
「千晴、のあ来た!」
「いらっしゃーい。お茶入れるね。のあちゃん、甘さはこの前くらい?」
「……はい」
(この前の量、覚えてるのか)
出てきた紅茶は、ちょうどよかった。一緒に焼き菓子の皿が置かれる。のあの手が、勝手に一つ取った。
真帆が端末に動画を出した。紗月が前を進み、少し離れて真帆が銃を構えている。
のあは一度、最後まで見た。
「ここ、止めてください」
紗月が前へ出る直前だった。
「三枝さんが動く前に、ここで右に立てますか。今の位置だと、三枝さんが通るたびに避けることになってます」
「……ほんとだ。またここに立ってる」
真帆は画面を戻し、自分の足元が映るところで止めた。しばらく黙って見てから、手元の紙に書き込む。
「実際に動いてみないと、直せないかも」
「そうですね。右にどれだけ場所があるか、映像だと分からないので」
説明が終わると、のあは紅茶を飲み干した。
「では、これで」
「え、もう?」
「用は済んだので」
(長居したら、何を話せばいいか分からなくなる)
のあが立ち上がると、千晴が皿を差し出した。
「これ、持って帰る? 余りそうだから」
焼き菓子が三つ。
のあは一瞬止まって、それから受け取った。
「……いただきます」
(違う。余るって言うから、処分を手伝うだけだ)
*
三日後、真帆の新しい動画を見に行った。
その次は、仕事で取った素材の欠片を、千晴に見せに行った。削れ方を気にしていたからだ。
その次は、店で見かけた菓子を持って行った。お茶を出してもらった分くらいは、返しておきたかった。
そのたびに、用が済むと帰った。
そのたびに、また来た。
四回目の帰り道、三人が装備店へ行くと言うので、途中まで一緒に歩いた。店に入ると、三人はそれぞれ別の棚へ散った。のあも補充品を選んでいると、千晴が何かを持って近づいてきた。
「見て見て。留め具の飾りなんだって。のあちゃんの鞄に付けたら――」
丸い、猫の耳がついていた。
「ほかも見てきます」
のあは即座に隣の棚へ移った。
(耳は要らない。耳は)
後ろで千晴が笑っていたが、追いかけてはこなかった。
のあは別の棚で整備用の小物を二つ見て、一つも買わなかった。あの耳を付けて受付に行く自分を想像しかけて、首を振る。
(配信のコメントで、絶対何か言われる)
会計を済ませて振り返ると、三人は入口脇で待っていた。何も言わず、のあが来るのを当たり前のように。
のあは、少し遅い足取りでそちらへ戻った。
*
「三枝さん、この袋はどこに置けば」
「そこでいいよ。あとね、紗月でいいから。仕事じゃないときまで、かしこまらなくていいよ」
五回目の訪問だった。
のあは袋を置き、紗月を見上げた。
「呼び捨ては、ちょっと」
(急に言われても困る。美人の名前を呼び捨てにする度胸はない)
「さん付けでいいよ。呼びやすいほうで」
「……紗月さん」
試すように言うと、紗月は普通に返事をして、資料へ戻った。それだけだった。
「私も真帆でいいよ。で、私も、のあって呼んでいい?」
「どうぞ。……真帆さん」
「私だけ梶原さんだと、業者さんみたいだなあ」
千晴がカップを並べながら言った。
「……千晴さん」
「はーい」
机の上に、カップが四つ並んだ。
窓の外は、来たときより日が傾いていた。用はとっくに済んでいる。それでも、のあは帰ると言いそびれて、菓子の袋を開けていた。
「来たと思ったらすぐいなくなるし、でもまた来るし」
千晴が、装備店のことを思い出して笑った。
「野良猫みたいだね、のあちゃん」
「飼われてません」
「うん。だから野良」
即座に返されて、のあはカップを置いた。
(うまいこと言ったつもりか。……ここでうなずいたら負けな気がする)
「猫さん」
振り向くと、真帆が端末の向こうで笑いをこらえていた。こらえきれていない。紗月まで、口元を手で隠している。
「名前、あります」
(真帆さんまで。わかってて呼んでるな、これ)
「ごめん、のあ。今度の練習、見てもらえる?」
「……日によります」
のあは真帆の差し出した予定を見て、空いている日を指した。
紅茶が、まだ半分残っていた。
(……これを飲んだら帰る)
「野良猫、これ食べる?」
千晴が菓子の皿を押してきた。
のあは振り向かなかった。端末を見たまま、皿の端だけを、自分のほうへ寄せた。
*
その夜、家でまさねぇの煮物を温めながら、のあは短い配信をつけた。
装備の手入れを映すだけの、音だけの時間。暗い部屋に、布が銃身を擦る音が流れる。
ゴーグルの端に、コメントが一つ浮かんだ。
『灯り火の配信で言ってた「最近よく来る野良猫」って、この人?』
布を持つ手が止まった。
『え、そうなの』
『灯り火って、この前助けたとこ?』
『野良猫www』
『今日も手入れ音助かる』
(なんで分かるんだよ。……千晴さん、何を話した)
端末を取ると、千晴から通知が来ていた。
『今日の配信で、のあちゃんのこと野良猫って言っちゃった。名前は出してないよ! 嫌だったら言ってね』
のあは画面を見つめた。
怒る言葉を考えた。三つ考えて、全部消した。
煮物が温まった匂いがした。
『名前を出さないなら』
送ってから、のあは火を止めた。
(……野良猫で定着したら、どうすんだ)




