第4話 借りは返す
『右上。岩の上、なんかいる』
ゴーグルの端に、その一行が流れた。
のあは足を止めた。東管理区の異界型ダンジョン、午前の駆除依頼。前方の通路だけを見ていた視線を、右上の岩棚へ移す。
岩と同じ色の背中が、ゆっくり呼吸していた。
ハイドリザードの小型だ。通路へ降りる機会を待っていたらしい。
(……本当にいた)
のあは魔銃を上げた。一発。小型は岩棚の上で、頭を垂れたまま動かなくなった。
『おおー』
『よく見つけたな』
『画面の右上、ちょっと動いたから』
のあは岩棚の周りを見直してから、小声で言った。
「助かりました」
『喋った』
『お礼言われた』
『俺の目が役に立った……』
(目が一個増えたな。ありがたい。……無料で)
この三日で、配信の視聴者は百人前後に落ち着いていた。救助の日の三百人には届かない。ただ、毎回来る名前がいくつかある。暗い画面の隅まで見ている、妙な人たちだった。
依頼の三体を片づけて、帰還する。明細は、三万九千円。
(悪くない。……今日は、この後があるけどな)
夕方。約束の日だった。
*
店先のメニューを見終えて、のあは入口の脇へ一歩よけた。
(赤い。どれもこれも赤い)
辛さは調整できると聞いている。のあが説明の小さな文字へ顔を近づけたところで、後ろから声がした。
「のあちゃん、早いね」
振り返ると、千晴が手を振っていた。その横に真帆、少し後ろに紗月。
探索の装備がないと、三人の印象はずいぶん違った。
真帆は細い眼鏡に、紺の薄手の上着。千晴は明るい色のカットソーで、高く結んだ栗色の髪が振り向くたびに跳ねる。紗月は長い黒髪を低い位置で結び、細身のパンツに白いシャツだけ。それだけなのに、通りを歩く人が二人ほど振り返った。
(……美人だな、この人)
救助の日は、泥と石の粉にまみれていた。今日は違う。
のあは視線の置き場に困って、メニューの赤い写真へ戻した。
(落ち着け。十六年この身体でやってきただろ。女の人と飯を食うだけだ)
「足、もういいんですか」
千晴に聞いた。彼女はまだ少しゆっくり歩いている。
「歩く分には、もう平気。走るのは、あと一週間我慢」
「ほら、入ろう」
紗月が戸を開けた。
*
「窓側と、こっち、どっちがいい?」
「こっちで」
のあは入口が見えるほうを選んだ。紗月は理由を聞かず、置きかけた鞄を反対へ移した。
正面に千晴が座る。カットソーの襟ぐりが少し広い。身を乗り出してメニューを広げると、のあは目のやり場がなくなった。
(見てない。見てないぞ。メニューを見ろ、俺)
「のあちゃん、何にする?」
「……これで」
一番安い麺を指した。
「それだけ? 私、酢豚食べたいんだよね。分けよう」
「私は焼き餃子。前に来たとき売り切れてたから」
「野菜の炒め物も頼もうか」
三人とも、メニューを見始めると早かった。のあの前に、取り皿が一枚増えた。
「今日の支払いは――」
「今日は、私たちが誘ったから」
紗月の返事が早い。のあは膝の上の鞄から、手を離せなかった。
(奢られるのは苦手なんだよ。借りができる。借りは、あとで何に化けるか分からない)
「おまちどおさま!」
お冷やを持ってきたのは、白い割烹着の、六十過ぎくらいの店員だった。丸い顔で、声が大きい。
「あら、ちっちゃいお客さん。お姉さんたちの妹さん?」
「違います」
「そう? じゃあ、これサービスね。うちの杏仁豆腐」
小さな器が、のあの前にだけ置かれた。
「……ありがとうございます」
(おばちゃんは安心する。何でだろうな。前世の近所の定食屋のおばちゃんに似てるからか)
気づいたら、鞄から手が離れていた。
千晴が、口元を押さえて笑っていた。
「何ですか」
「ううん。のあちゃん、今、いちばん素直な顔した」
「杏仁豆腐に罪はないので」
『餌付け成功』と書かれたコメントが見えた気がして、のあはゴーグルをかけていないことを思い出した。
(配信してないのに、頭の中で流れてきたぞ。毒されてる)
*
料理を待つ間に、真帆が箸袋を横へ置いた。
「少し、救助のときのこと聞いてもいいですか」
「射撃ですか」
「はい。最初の二体、私たちの右にいたのも、上から見えてたんですか」
のあは自分の箸袋を、真帆のものと直角に置いた。
「こっちが出口側の道。皆さんは、この角。私は、この上」
指を浮かせて示すと、真帆が机に顔を近づけて、下から見上げた。
「私、当てるところばかり探してました。うろこを避けられる場所ばっかり」
「あの位置からは無理ですよ。下からだと、うろこしか見えない」
「じゃあ、立つ場所から考えないと駄目なんだ」
真帆の目が、箸袋の上で止まった。考え込むと、周りが見えなくなるタイプらしい。
そこへ、料理が来た。
「真帆、餃子。冷めるよ」
「……先に食べます」
真顔で宣言したので、のあは小さく吹き出した。真帆がこちらを見る。
「変でした?」
「いえ。私も、先に食べます」
麺をすすった。
だしの湯気が顔に当たる。昔、子ども食堂で、器を両手で抱えていた感触が、一瞬よみがえった。強面の大人が、黙っておにぎりを置いてくれた。
(あのうどんは、うまかったな)
「のあちゃん、これ辛くないよ。蒸し鶏」
千晴が取り皿へ一切れ載せた。千晴の指先がのあの手に当たりそうになり、のあは反射的に手を引いた。
「あ、ごめん。熱かった?」
「いえ。大丈夫です」
(違う。触るのが苦手なんだ。……っていうか、触られるより、触るほうが怖い)
昔、管理区で顔なじみになった男の探索者がいた。気のいい人だった。帰り際、同性の友達にするように、のあは軽く肩を叩いて「お疲れ」と言った。
翌週、花束を持って待ち伏せされた。
(あれは参った。俺の中では、男同士の「お疲れ」だったんだよ)
相談した相手は、まさねぇだった。百八十を超える背丈に、分厚い胸板。本名はまさしだが、そう呼ぶと睨まれる。話を聞いて、腹を抱えて笑われた。
『あんたねえ、その見た目で男の肩叩いたら、そりゃ落ちるわよ』
それ以来、のあは自分から男に触れない。女の人に触るのは、それはそれで緊張する。気楽に話せるのは、まさねぇと、おばちゃんくらいだ。
(我ながら、面倒くさい身体と中身だ)
のあは蒸し鶏を口に入れた。やわらかい。香味野菜のタレが、ちょうどいい。
「おいしいです」
「でしょ」
千晴が、自分が作ったみたいな顔をした。
*
食後、紗月が伝票を取った。のあは鞄を開けた。
「私の分、いくらですか」
「今日は出すって言ったでしょ」
「結構、食べたので」
「それなら、誘ってよかった」
紗月は伝票を渡さなかった。のあが財布を持ったまま動かないでいると、少し考えて言った。
「じゃあ、のあが好きな店があったら、今度教えて。私たちの知らないところ、ありそう」
「次は、私が払えばいいですか」
「金額を揃えなくていいよ。行ってみたいお店を教えてほしいだけ」
(……「今度」って言ったな、今)
一度だけのはずだった。それが、もう次の話になっている。
店を出ると、真帆が端末を持って近づいてきた。
「さっきの続きなんですけど。私の練習動画、今度見てもらえませんか。味方が前を通るとき、どうしても遅れるところがあって」
頼みを聞くなら、借りを返せる。その方法が、向こうから来た。
「時間があるときなら。見てほしい場面を、分けておいてください」
「ありがとう! あ、ご飯の分とか思わなくていいですからね」
「思ってません」
(思ってる。めちゃくちゃ思ってる)
のあは会釈して、三人と反対の方向へ歩き出した。
角を曲がってから、少しだけ歩く速さを落とした。
背中の向こうで、千晴の笑い声が聞こえる。振り返りたくなって、やめた。
(用は済んだ。帰る。それだけだ)
家の近くまで来たところで、端末が鳴った。真帆からだった。
『仕事部屋の場所です。いつでも来てください』
地図が一枚。
その下に、千晴からもう一行。
『お菓子もあるよー』
のあは立ち止まった。
(……菓子は、関係ないだろ)
地図を閉じずに、そのまま保存した。




