第49話 何が欲しいか
門の横の柿の木は、実を全部落としていた。
のあは門柱の前で立ち止まった。表札の文字は、出ていった夏と同じだった。白い壁の二階建て。一階の窓に、折り紙の輪飾りが下がっている。まだ十二月の最初の土曜なのに、気の早い誰かがもう作ったらしい。
若葉寮。
四歳のあの年から、十六歳の夏まで。ここで寝て、ここで食べた。
(四か月ぶりか。……四か月で、門ってこんなに低くなるのか)
背は、一センチも伸びていない。変わったのは、たぶん門のほうではなかった。
インターホンを押す前に、玄関の戸が開いた。
「のあちゃん。いらっしゃい」
ゆっくりした声だった。
園田静江は、エプロンの上からカーディガンを羽織っていた。丸い顔に、丸い肩。ふくよかな体を少し横に揺らしながら、サンダルで出てくる。白髪が、前に見たときより少しだけ増えていた。
「寒かったでしょう。上がって、上がって」
「……お邪魔します」
(変わってない。この人は、全然変わってない)
肩の力が、半分抜けた。
*
事務室の石油ストーブの上で、やかんが鳴っていた。
園田は湯呑みを二つ置き、机の引き出しから、みかんを三つ出した。のあの前に、三つとも置く。
「電話、びっくりしたのよ。『のあです』って言ってから、十秒くらい何も言わないんだもの。切れたのかと思った」
「……考えてたので。何から言うか」
「そうだと思った」
園田は、ゆっくり笑った。
のあは、みかんを一つ剥いた。皮が薄くて、甘い匂いがした。
(みかんを出されると、話しやすくなる。……前からそうだった。この人、分かっててやってるな)
「それで、クリスマスね」
「はい。何か、送りたいです」
「ありがとう。……何を送るか、もう決めてる?」
「決めてないです。それで、相談に来ました」
のあは、みかんの房を一つ、口に入れた。飲み込んでから言った。
「一人ずつ、欲しい物を聞いて回るのは、やめたいです」
園田の眉が、少しだけ上がった。
「聞かれたら、答えないといけなくなるので。本当に欲しい物じゃなくて、言ってもいい物を言います。……私は、そうしてました」
園田は、何も言わずに湯呑みを持った。
「当日、机に並べて、自分で選べるようにしたいです。欲しい物を、その場で見て。一人一つ」
口に出してから、千晴の話を思い出した。棚の端から端まで、一時間。おばあちゃんが、ベンチで寝ていた。
(あの話が頭にあったのは、認める。……でも、選ぶって決めたのは、俺だ)
「選ばせてあげるのは、いいね」
園田が言った。
湯呑みを置く音が、やさしかった。
「うちの子たち、選ぶことが少ないから。服も、ご飯も、部屋も。……選べる日が一日あるのは、いいと思う」
「順番は、くじにしたいです。小さい子には、先生が一緒に」
「そうね。三歳の子もいるから」
「今、何人いますか」
「十九人。一番下が三歳で、上が十六。春に出る子が、三人」
のあは頭の中で計算した。十九人なら、机に並べるのは四十個前後。最後にくじを引く子にも、選ぶ余地が残る数。
「それと」
のあは、みかんの二つ目に手を伸ばしかけて、止めた。
「お礼を言う時間は、作らないでください。並ばせるのも」
園田は、しばらくのあの顔を見ていた。
「紺の靴下の年ね」
(……覚えてるのか)
「並ばせるのはね、もうやめたの。何年か前から。寄付の方には、こっちから写真とお手紙でお礼をしてる。子どもには、言いたい子だけ言えばいいって」
「……そうですか」
「のあちゃんのころに、やめてあげられたらよかったけど」
園田はそれだけ言って、話を戻した。
「贈り主は、どうする? のあちゃんからって、言う?」
「言わないでください。……サンタで、いいです」
「サンタさんは、うちには毎年ちゃんと来るのよ」
園田は、少し楽しそうに言った。
「同じ人が、何年も来てくれてるの。のあちゃん、クリスマス会はいつも途中でいなくなってたから、知らないでしょう」
「……知らないです」
(途中どころか、始まる前にいなかった年もある)
ダンジョンの浅いところで、パチンコの弾を数えていた。靴下の年のあとは、ずっとそうだった。
「じゃあ、贈り物はサンタさんが持ってくるってことにしましょう。当日、手伝いに来てくれる?」
「……はい」
*
事務室を出ると、廊下に夕飯の匂いが流れていた。カレーだった。土曜の夜は、昔からカレーだ。
食堂の入口の横に、当番表が貼ってある。配膳、片づけ、廊下の掃除。名前の札が、磁石で留めてある。のあの札があった場所には、知らない子の名前が入っていた。
(当たり前だ。出ていったんだから)
寂しいとは思わなかった。ただ、札の角が、自分のときと同じように少し欠けているのが、妙に目に残った。
廊下の奥から、足音が三つ、走ってきた。
小学校の高学年くらいの男の子たちだった。一人が、のあの顔を見て急に止まった。後ろの二人が、背中にぶつかる。
「あっ」
先頭の子が、のあを指さした。
「キモいの人だ!」
のあの背中が、固まった。
指をさされた。教室の後ろのほうから、何人もの目がこっちを向いた日のことが、勝手に浮かんだ。あの子、施設の子でしょ。話し方、変だよね。保護者会の帰りに、自分の子の手を引いて、のあの横を遠回りした大人。
(……違う)
「本物? 本物のキモいの人?」
「バカ、のあさんだよ。配信の」
「知ってるよ! ゴブリンの!」
三人は、のあを囲んだ。一人が、のあの袖をつかんで揺らした。
「ねえ、あれやって。『よーく見ると』って」
「……やりません」
「えー!」
「俺、あれ百回見た。先生のスマホで」
「ばれて怒られたじゃん」
「怒られたけど、先生も笑ってたし」
三人とも、目が光っていた。からかう目ではなかった。珍しい虫を見つけたときの目だった。
(あの教室の子たちじゃない。……この子たちは、この子たちだ)
のあは、袖をつかまれたまま、息を一つ吐いた。吐き切らないように、途中で止めた。
「猫のやつ、抱っこしてたでしょ。あれ、まだ持ってる?」
「持ってます」
「ゴブリンは? 本物のゴブリンの像、ちょうだい!」
一人が言うと、残りの二人も同時に叫んだ。
「俺も!」
「ずるい、俺が先に言った!」
廊下の真ん中で、もう取り合いが始まっていた。まだ、ここに一つもないのに。
のあは、頭の中で数を並べた。
ゴブリンの小像、四万八千円前後。窓口に持っていけば、そのまま現金になる。十九人の中に一つだけ置けば、誰が持つかで揉める。十九個置けば、揉めない代わりに、九十一万二千円分の置物が、子どもの部屋に転がる。上の子が窓口の場所を知っていたら。知らなくても、知っている大人が近くにいたら。
(……だめだ。高すぎる。高い物は、それだけで火種になる)
ここで暮らしていたから、知っている。一人だけいい物を持っている子は、かえって目をつけられる。
「本物は、あげられません」
「えーーー!」
三人分の声が、廊下に響いた。
「……代わりを、考えます」
「代わりって何?」
「まだ、考えてません」
のあは、正直に言った。
ゴンちゃんの太い指が、ふと頭に浮かんだ。盾の持ち手のカバー。ケーキの上の、チョコの猫。棚の小像に台座を作ってくれたときの、あの細かい手つき。
(……頼めるか? いや、頼む前に、自分で考えろ)
「こら、廊下は走らないの」
園田が事務室から顔を出した。三人は、のあの袖を離して、来たときと同じ速さで逃げていった。
「ごめんね。あの子たち、のあちゃんの配信、ほんとに好きなのよ」
「……本物の小像は、置かないことにします」
「うん。それがいいと思う。ここは、高い物が一つあると、大変だから」
園田は、それ以上説明しなかった。のあも、しなかった。二人とも、知っていた。
*
玄関で靴を履いていると、下駄箱の陰に、誰かがいた。
小さな女の子だった。小学校の低学年くらい。二つに結んだ髪の片方が、ほどけかけている。胸に、古い絵本を一冊抱えていた。表紙の猫の絵が、角から擦り切れていた。
さっきの男の子たちと一緒には、来なかった子だ。
女の子は、のあと目が合うと、下駄箱の陰へ半歩下がった。人が来る前に避ける動き方だった。
(……どこかで見たな、この下がり方)
すずだ。最初に会ったころの。
のあは、靴紐を結ぶ手を止めた。近づかなかった。こちらから声もかけなかった。
女の子は、しばらく絵本の角を指でいじっていた。
それから、小さな声で言った。
「……猫の、持ってる?」




