第48話 十二月の予定
仕事部屋の壁に、紙が一枚増えた。
クランの約束書きの隣。千晴は画鋲を四つ留めてから、一歩下がって眺めた。
『灯り火 十二月の予定』
その下に、自分の字で三行。
クリスマス配信。
プレゼント交換(一人三千円まで)。
ケーキ(まさねぇに相談)。
「……三行目、もう決まってるじゃない」
紗月が、湯呑みを置きながら言った。
「相談って書いてあるでしょ。相談はするの。頼むけど」
「それを決まってるって言うんだよ」
十二月の最初の週だった。暖房を入れても、窓際はまだ冷える。真帆はノートを開いたまま、膝に毛布をかけていた。すずは鈴の絵の茶碗でお茶を飲みながら、壁の紙を下から順に読んでいる。
一番端の椅子で、のあが手袋を外していた。
猫の小像の騒ぎから、三週間と少し。北の話をしに来た綺麗な人の名刺は、のあの財布に入ったままらしい。狼は、まだ出ていない。
「すずちゃん、読めた?」
「はい。……三千円までって、三千円ちょうどでもいいんですか」
「いいよ。ちょうどでも、下でも」
すずは、ポケットからメモ帳を出して、何か書き込んだ。
(また数えてる。……いいけど。そのうち、数えなくても平気になるといいな)
「配信は、クリスマスの前の週末ね。五人で出られたら、一番いいんだけど」
千晴は、一行目を指でとんとん叩いた。
「すずちゃんは、手だけ。のあちゃんは?」
「……手元だけなら」
「やった。手元だけの回、ミレイさんが一番伸びるって言ってたし」
「伸ばすために出るわけじゃないです」
「分かってる分かってる」
(分かってないな、って顔してる。うん、分かってない)
この一か月で、のあの配信は妙な方向に伸びた。暗い画面の狙撃と、手入れの音と、ゴブリンの像を光にかざして言った一言。『よーく見ると』で始まるコメントは、灯り火の配信にまで流れてくる。のあの部屋の棚には今、そのゴブリンと、もっと大事な猫が並んでいるらしい。棚の話になると、のあは少しだけ早口になる。
「のあちゃんは? プレゼント交換、出るよね」
「……三千円で、何を買えばいいですか」
「それを考えるのが、楽しいところなんだけどなあ」
のあは、壁の紙を見ていた。三行目ではなく、二行目を。眉が、ほんの少しだけ寄っている。
(あ、これ。依頼票を読むときの顔だ)
千晴は笑いかけて、やめた。
のあの視線は、紙の上から動かなかった。何かを数えているのでも、読み直しているのでもない。言うかどうかを、決めている顔だった。
「……施設に」
のあが言った。
部屋の音が、少しだけ減った。真帆のペンが止まり、紗月は湯呑みを持ち上げたまま、口をつけなかった。
「何か、送りたいです。クリスマスに」
*
千晴は、自分の声の高さを確かめてから口を開いた。
「いいね。何送る?」
いつもどおりに言えた、と思う。
相原さんの相談室で、紙一枚に収まるくらいの話だけ、聞いたことがある。四歳。帰らなくなった母親。探索者遺族救済施設。学校で、距離を置かれていたこと。聞いたあとで、詳しく話してほしいと求めないこと。
それを、あれから一度も口にしていない。のあも、しなかった。
その施設の話を、今、のあのほうから出した。
(大きい声出すな。泣くな。「いいね」で合ってる。たぶん)
「必要な物なら、そろえられます」
のあは、指を折りながら言った。
「手袋。靴下。文房具。冬なら、上着の下に着るもの。人数とサイズを聞けば、数は間違えません」
「うん。のあちゃん、そういうの得意そう」
「得意です」
即答だった。真帆が、ノートの陰で小さく笑った。
けれど、のあは続けなかった。折った指を、そのまま膝の上で握っていた。
「……でも、それで喜ぶかどうかが、分からないです」
すずが、茶碗を両手で包んだまま、のあを見た。
「私がいたとき、寄付で、靴下をもらったことがあります」
のあの声は、報告をするときと同じ調子だった。
「全員、同じ靴下でした。紺色で、同じ大きさの。……一列に並んで、寄付をくれた人たちに、一人ずつお礼を言いました」
(全員、同じ)
「嬉しかったかどうかは、覚えてないです。お礼を言わなきゃ、のほうだけ覚えてて。前の子が何て言ったか聞いて、同じことを言いました」
のあは、そこで口を閉じた。それ以上は、話さなかった。
千晴も、聞かなかった。
紺色の靴下が、頭の中で何足も並んだ。その前に、小さい子が一列。一番端に、今よりずっと小さいのあ。前の子の言葉を、一字ずつ覚えている顔。
(……ずるいなあ。そういうの、短く言うの)
鼻の奥が、つんとした。千晴は、お茶を飲むふりをした。
*
「何人くらい、いるの」
紗月が聞いた。いつもの、予定を立てるときの声だった。
「知らないです。今は」
「じゃあ、そこからだね」
紗月はそれだけ言って、湯呑みを置いた。真帆がノートの新しい頁を開いて、上に『人数・年齢』と書いた。書いてから、のあに見せる。
「こういうの、表にするなら手伝えるけど。……いる?」
「……たぶん、要ります」
千晴は、頭の中で勝手に店を回り始めていた。駅前の雑貨屋。文具の大きい店。ぬいぐるみなら、あそこの二階。小さい子なら絵本。上の子には、ちょっといいペン。
(全部言いたい。一覧にして、明日には渡せる)
言わなかった。
のあは、決めるのが苦手なわけじゃない。依頼を受けるのも、断るのも、誰より早い。ただ、これは、のあが自分で選びたいことなのだと思った。誰かに選ばれた靴下を、一列に並んで受け取った子が、今度は選ぶ側に回ろうとしている。
そこへ、千晴の一覧を渡したら。また、誰かが決めたものになる。
「……私ね」
千晴は、自分の話をすることにした。
「小さいころ、おばあちゃんが毎年、おもちゃ屋に連れてってくれたの。十二月の、どこかの土曜日。好きなの一個、って」
「一個」
すずが、小さく繰り返した。
「そう。一個。それで私、毎年一時間くらい悩むの。棚の端から端まで見て、戻って、また見て。おばあちゃん、ベンチで寝ちゃってた」
のあが、こちらを見た。
「プレゼントより、あの一時間のほうを覚えてるんだよね。何もらったかは、半分くらい忘れちゃった」
それだけ言って、千晴はお茶を飲んだ。
のあは何も言わなかった。けれど、握っていた手が、膝の上で少し開いた。
(参考にしなくていいよ。私の話は、私の話だから)
「決めるのは、のあちゃんだよ」
千晴は言った。
「買い出しとか、表とか、手が要るところは言って。言われたら、全部やるから」
「……包むのは」
のあが、少し言いにくそうにした。
「包むのは、得意じゃないです」
「え、そうなの?」
「紙が、言うことを聞かないので」
(……何それ。見たい)
紗月が、湯呑みの陰で目を細めていた。真帆はノートに『包装:千晴・紗月』と書き足した。すずは、自分の手を見ていた。
「……私も、包んだこと、ないです」
「じゃあ、すずちゃんも一緒に練習しよ。紙、多めに買っとくから」
すずは少し考えてから、うなずいた。それから、のあのほうを見た。
「お金は、どこから出すんですか。クランの……」
「私が出します」
のあの返事は、すずの言葉が終わる前だった。
「クランのお金は、使いません。私が送りたいだけなので」
紗月が何か言いかけて、やめた。代わりに、真帆のノートの『予算』の欄を指で軽く叩いた。空けておいて、という目だった。
(半分出す、って言いたいんだよね。私も言いたい。……でも、今は言わない)
「包むのは任せて。私、得意だから」
「……お願いします」
のあは、そう言ってから立ち上がった。
帰るのかと思った。いつもなら、用が済めば、上着を取る。
のあは上着を取らなかった。端末だけを持って、廊下へ出る扉の前で、一度止まった。
「電話、してきます」
扉が閉まった。
真帆と紗月が、顔を見合わせた。すずは茶碗を置いて、扉のほうを向いたまま動かなかった。
千晴は、壁の紙に目を戻した。三行の下に、まだ余白がある。
(四行目、書けるかな。……のあちゃんが、書いてくれたら)
扉の向こうは、しばらく静かだった。番号を探しているのか、押すのを迷っているのか、ここからは分からない。
それから、ずいぶん長い間があって。
いつもより少しだけ小さい、のあの声がした。
「……のあです」




