第47話 売りません
その夜、バー・マーサのカウンターで、のあは上着の内ポケットから小像を出した。
ゴンちゃんの前に、そっと置いた。
「約束だったので」
ゴンちゃんは、編み針を置いた。大きな体をかがめて、カウンターに顎がつくほど顔を近づけた。
しばらく、何も言わなかった。
「……耳が、ちゃんと別々を向いてるのねぇ」
それだけ言って、ゴンちゃんは太い指で目元を拭った。
「配信で見たけど、実物のほうが、ずっといいわぁ」
「画面は、数に入れてないので」
「あら。じゃあ、アタシが一番なのね」
隣でミレイが、グラスを揺らしながら端末を見ていた。
「で、例の北の人。明後日に来日ですって。協会の面談室」
「……早いですね」
「欲しい物には正直な人らしいわよ。あっちの配信界隈じゃ有名。召喚士で、S」
ミレイは、画面を一枚こちらへ向けた。
雪の中に、背の高い女が立っていた。
(……でかい。綺麗。これは、まずい)
「あんた、今、石になりかけたでしょ」
「なってません」
帰って、ひな壇の一番上に、猫を置いた。ゴブリンの隣だった。
キモいのと、あの猫が、並んで立った。
*
面談室の扉を開けた瞬間、のあは、石になった。
窓際に、女が立っていた。
背は、百八十に届きそうだった。長い白っぽい金の髪を、一本の三つ編みにして背中へ垂らしている。雪の色の肌に、薄い灰色の目。濃い紺の長いコートの前を、きちんと留めていた。
女が振り返って、のあを見下ろした。
見下ろして、少しだけ目を見開いた。
「……あなたが、のあ」
「はい」
「画面で見たより、小さい」
(それは、よく言われる)
「リーヴ・ハルヴォルセンです。今日は、時間をありがとう」
日本語だった。一語ずつ置いていくような、少し硬い話し方だったが、迷いはなかった。
リーヴが、手を差し出した。
のあは、その手を見た。白くて、指が長い。
(握手。……女の人の手。綺麗な人の。これを、握る)
握った。一秒で、離した。
机の端で、相原が静かに書類を揃えていた。今日の立ち会いだった。
「どうぞ、お掛けください」
のあは、机を挟んだ一番遠い椅子に座った。
(机、もう一個挟んでくれ)
*
リーヴは、前置きをしなかった。
「サーチブルキャットの小像。百五十万円で、譲ってほしい」
「売りません」
のあの返事も、早かった。
リーヴは、瞬きを一つした。
「……理由は?」
「飾るので」
面談室が、静かになった。
リーヴは、眉を寄せた。口の中で、今の言葉を転がしているようだった。
「かざる。……それは、decorate?」
「はい。部屋に」
「部屋に。置く。見る。……それだけ?」
「それだけです」
リーヴは、相原を見た。相原は、書類から顔を上げずに、小さくうなずいた。
リーヴは、しばらく黙っていた。それから、額に手を当てた。
「私の国では、今、召喚士が三十人、あの猫の小像を待っている。耳がいい猫は、霧の中の偵察に一番いい。三十人が待っているものを、あなたは、部屋に置く」
「はい」
「……二百万円」
「売りません」
(二百万。……二百万か。二百万は、でかい。いや、売らない。最初に大きな数字を置いて、次で上げて、相手の基準をずらす。前の職場で、俺も散々やった手だ。分かってる手には、乗らない)
リーヴは、額から手を離した。
灰色の目が、のあを見た。呆れた顔だった。
それが、崩れた。
リーヴは、声を立てて笑った。背中の三つ編みが、肩の上で跳ねた。
「あなたは、本当に、欲しい物に正直ね」
「……それは、そちらもでは」
「そう。だから分かる。これは、どれだけ積んでも無理な顔」
リーヴは、のあの上着の胸のあたりを見た。
「せめて、実物を見たい。今日は、持ってきている?」
「家に、置いてきました」
「……置いてきた」
「飾ってあるので」
リーヴは、もう一度笑った。今度は、机に片肘をついて、しばらく止まらなかった。
「百五十万円の商談に、品物を持ってこない。交渉の席に、最初から売る気がない。……日本のSは、みんなこう?」
「たぶん、私だけです」
相原が、書類の陰で小さく咳をした。
(否定しないんですね、相原さん)
リーヴは、コートの内側から、細長い革の箱を出した。
「売らないなら、それでいい。代わりに、見せたいものがある。広いところは、ありますか」
*
協会の地下の訓練場は、その時間、誰もいなかった。
リーヴは、革の箱を開けた。
中に、小像が三つ、布に包まれて並んでいた。リーヴは、その一つを取り出した。
灰色の狼だった。
高さは八センチほど。四本の脚で雪を踏みしめ、首を少し上げて、遠くを見ている。背中の毛が、風に流れるように彫られていた。
(……狼)
のあの目が、勝手にそこへ吸い寄せられた。
「グレイウルフ。私の国の、北の山で出た」
リーヴは、小像を両手で包んだ。目を閉じる。指の間から、薄い光が漏れた。
訓練場の床に、狼が一頭、立っていた。
大きかった。のあの胸まで背がある。灰色の毛は厚く、首の周りが、襟巻きのように膨らんでいた。金色の目が、訓練場の中をゆっくり見回した。
リーヴが、短く何か言った。知らない国の言葉だった。
狼は、のあのほうへ歩いてきた。
のあは、動かなかった。
狼は、のあの前で止まった。鼻先を、のあの手の甲へ近づける。濡れた鼻が、一瞬だけ触れた。
それから、のあの足元に、どさりと伏せた。
「触って、いい」
リーヴが言った。
のあは、しゃがんだ。
手を、狼の首の毛に入れた。
指が、沈んだ。
厚い。温かい。外側の毛は少し硬いのに、その下は、驚くほど柔らかかった。指の付け根まで、埋まった。狼が、喉の奥で低く鳴った。怒っている音ではなかった。
(……もふもふだ)
頭の中で、ほかの言葉が全部、消えた。
(欲しい。……狼も、欲しい。いや、狼が欲しい。猫も欲しい。両方欲しい。倍欲しい)
気づいたときには、口が動いていた。
「……それ、売って――」
「売りません」
リーヴは、即答した。
一拍、置いた。
「使うので」
訓練場の隅で、相原が、書類で口元を隠していた。肩が、小さく揺れていた。
(……同じ顔で、同じことを言われた)
狼は、のあの手の下で、ゆっくり薄れていった。温かさだけが、少し遅れて消えた。
リーヴは、床に戻った小像を拾い上げ、光にかざした。台座の縁に、髪の毛ほどの細い線が一本、走っていた。
「使うたびに、傷む。これは、あと二回か、三回」
「……それでも、使うんですか」
「使うために、持っている。あなたは、見るために持っている。どちらも、正しい」
リーヴは、小像を布に包み直した。
*
訓練場を出る前に、リーヴは、少しだけ声を落とした。
「小像が出始めたのは、一か月ほど前。世界中で、同じ週に」
「聞いています」
「同じころから、各地の管理区で、魔力計が揺れている。大きくはない。けれど、揃って揺れている」
灰色の目が、訓練場の天井を見上げた。その向こうの、ずっと遠くを見ているようだった。
「六十年、出なかったものが、急に出る。私たちは、何かの前触れだと見ている」
のあは、黙っていた。
頭の奥に、S以上だけに渡された薄い資料が浮かんだ。世界に、十。そのうち二つが、この国にある。
(……関係あるのか。いや、今の俺には、判断する材料がない)
リーヴが、コートの内ポケットから、一枚の紙を出した。
白い名刺だった。名前と、知らない国の協会の紋章。裏に、手書きで連絡先が一行。
「猫は、諦める。でも」
リーヴは、名刺をのあの手のひらに載せた。指が触れないように、上から落とすように。
「狼の小像が欲しいなら、北へ。北の狼は、北でしか出ない」
のあは、名刺を見下ろした。
手の甲に、濡れた鼻の感触が、まだ残っていた。
部屋のひな壇には、黒いフェルトの台座が、まだ三つ空いている。
(……北、か)




