第42話 新しい品目
「これ、見た?」
仕事部屋のソファで、ミレイが画面をこちらへ向けた。
十一月最初の月曜日だった。すずが「二号の席」に座るようになって、一週間がたつ。ミレイは千晴に配信のサムネイルの作り方を教えに来たはずが、三十分で自分の画面を見せる側に回っていた。
映っていたのは、雪の積もった岩場だった。外国の配信者らしい。字幕は読めない言葉で、コメント欄も同じ文字で埋まっている。
大柄な男が、灰色の犬の魔物を斧で倒した。倒れた体が霧になって消えていく。その跡に、何か小さなものが転がっていた。
男が拾い上げて、カメラへ近づける。
犬の形の、小さな置物だった。
「ドロップ品?」
真帆が眼鏡を押し上げた。
「そう。で、ここからよ」
画面の中で、別の女が置物を受け取った。両手で包み、目を閉じる。指の隙間から、薄い光が漏れた。
雪の上に、犬が一頭、座っていた。
さっき倒されたのと同じ、灰色の魔物だった。ただ、牙を剥かない。女の足元で耳を伏せ、命令を待つように尾を一度振った。
「えっ」
千晴が声を上げた。
「召喚魔法を持ってる人が魔力を通すと、その魔物が数分だけ出てくるの。言うことも聞くらしいわ。五分もしないで消えるけど」
画面の犬は、雪の上を一周走ってから、女の横で薄れて消えた。
「魔物小像、って呼ばれてるわ。海外だとフィギュアね。出始めたのは、ひと月くらい前から。それも、あっちこっちで一斉に」
「今までは、出なかったんですか」
すずが聞いた。鈴の絵の茶碗に、麦茶が入っている。
「六十年、一度も」
「召喚士って、それまでは何を呼んでたんですか」
千晴が聞いた。
「自分の枠に登録した使い魔よ。数も、召喚コストも、上限があるの。小像はその枠の外から、コスト上限を無視して呼べる。数分だけの、インスタント召喚ってわけ。魔力と、何体も動かす技術は、別に要るけどね」
「……どうして、今になって」
真帆が、画面を巻き戻しながら言った。考え込むときの顔だった。
「分かってたら、今ごろ論文が十本出てるわよ。誰にも分からないから、今、召喚士の連中が目の色変えて買い集めてるの」
召喚魔法を持つ探索者を、みんなそう呼ぶ。職業の名前ではなく、ただのあだ名だ。
(召喚魔法、持ってないしな)
「私には、関係ないですね」
のあは自分の麦茶を飲んだ。
「そう思うでしょ」
ミレイは、にやりとした。
「協会も、今日から買取の品目に入れたのよ。窓口に見本が出てるって。見に行ってみたら?」
*
「見に行こう。私、見たい」
千晴が言い出して、帰りに北管理区の窓口へ寄ることになった。のあは、依頼の報告のついでだと自分に言い聞かせた。
報告は一行で済んだ。ハウンドドッグの駆除、三万八千円。
「のあさん。ほら、あれでしょ。見に来たの」
受付の田村さんが、丸い眼鏡の奥で笑って、窓口の横を指した。
硝子の小さな陳列棚が、新しく置かれていた。上に、手書きの札が貼ってある。
『新品目 魔物小像』
棚の中に、一つだけ、それはあった。
のあは足を止めた。
ハウンドドッグだった。
高さは六センチほど。前脚を低く構え、今にも跳びかかる寸前の姿勢で固まっている。背中の毛並みが、細い線で一本ずつ刻まれていた。開いた口の奥に、米粒より小さな牙が並んでいる。耳の片方だけが、少し後ろへ倒れていた。音を聞いた瞬間の、あの耳の角度だった。
台座は、黒に近い半透明だった。魔石によく似た質感で、奥のほうがかすかに光を返している。
札の下に、小さな字。
『参考 ハウンドドッグ 買取 八万円』
のあは、動けなかった。
(……欲しい)
頭の中で、ほかの言葉が全部、どこかへ消えていた。
古い部屋の記憶が、勝手に浮かんだ。前の人生の、一人暮らしのアパート。仕事から帰ると、玄関の横の本棚が目に入る。上の三段は、本じゃなかった。
コンビニの菓子売り場で買った、おまけつきの箱。駅の構内で回した、カプセルの玩具。動物、恐竜、戦車、なぜか寿司。小さな玩具が、隙間なく並んでいた。
箱を棚から取る前に、軽く振って重さを比べた。シークレットの音を聞き分けようとしていた。
(振ってた。……俺は、箱を振ってた。三十過ぎの男が、コンビニで)
全部、とっくにない。あの部屋ごと、なくなった。
目の前の犬は、あの棚のどれよりも精巧だった。
「のあちゃん」
千晴の声が、横から聞こえた。
「目が光ってる」
「……光ってません」
「光ってるよ。ねえ、真帆、見て」
「光ってる」
真帆まで言った。紗月は何も言わず、陳列棚とのあの顔を、交互に見ていた。
(光ってるわけないだろ。……いや、分からない。自分の顔は見えない)
「狙って出せるものじゃないのよ」
田村さんが、受付台の向こうから言った。
「今日持ち込まれたのは、これも入れて三つ。三人とも、たまたま出たって。ほかの魔物の分も、協会から相場の表が来てるわ」
田村さんが、紙を一枚、台に置いた。
ゴブリン、三万円前後。ハウンドドッグ、八万円。ウルフ系、十五万から三十万円。サーチブルキャット、四十五万円前後。
最後の行で、のあの目が止まった。
(あの猫も、出るのか)
左肩の三本の線が、服の下で、ほんの少しだけ引きつった気がした。
「どの魔物から、出やすいんですか」
口が、先に動いていた。
「さあ。まだ誰も分からないみたい」
「倒した数と、関係はありますか。浅いところと深いところで、違いは」
「それも、分からないって」
「時間帯は。倒し方は。一撃で倒したときと、そうでないときで」
「……のあさん」
田村さんが、眼鏡を外して、布で拭いた。拭き終えて、もう一度かけ直してから、のあを見た。
「のあさんが窓口で三つ以上続けて質問したの、登録してから初めてじゃない?」
後ろで、千晴が吹き出した。真帆は口元を押さえている。すずが、不思議そうに全員の顔を見比べていた。
(数えるな。……いや、たぶん合ってる)
のあは口を閉じた。聞きたいことは、まだ五つあった。
「召喚士さんじゃなければ、ただの置物なんだけどね。使うたびに傷んで、何回か使うとひびが入るんですって」
(置物でいい。……置物がいいんだよ)
すずが、陳列棚に顔を近づけた。
「これ、八万円で売れるんですか」
「売れるわよ。協会が買うから」
「……一日の稼ぎより、ずっと多いです」
すずは、真剣な顔でメモ帳に数字を書いていた。
のあは、その横顔を見た。
(売る、か。……そうだよな。普通は、そう考える)
普通に考えれば、八万円の置物は、八万円だ。のあだって、ほかの何かなら、同じように計算する。
けれど、棚の中の犬は、耳の片方だけを後ろへ倒していた。
「のあ」
紗月が、低い声で言った。
「のあが何か欲しがるの、初めて見たかも」
「……欲しがってません」
「そっか」
紗月は、それ以上は言わなかった。目尻が、少し下がっていた。
(見透かされてる。……全員に)
*
部屋の鍵を開けて、明かりを点けた。
東管理区の門の先、二階の角部屋。床に敷いたマットレス。低い机が一つ。台所の冷蔵庫には、まさねぇの作り置きの容器が三つ。武器も道具も、全部闇の中にしまってあるから、それ以外はほとんど何もない。
壁際に、白い棚が一つだけ立っていた。
入居したときから、部屋についていたものだ。五段ある。施設を出てここへ越してから、一度も何も置いたことがなかった。置く物が、なかったからだ。
上着を脱ぐ前に、端末で相場の表の写真を開いた。窓口で、こっそり撮っておいたものだ。
ゴブリン、三万円。今日の駆除の報酬と、ほとんど変わらない。
(三万あれば、何日食える。……違う。そっちの計算じゃない)
気づいたら、食える日数じゃなく、棚に並ぶ数を数えていた。
のあは、雑巾を取りに台所へ向かった。
五段、全部拭いた。拭き終えてから、何も載っていない棚の前に、しばらく立っていた。
上から二段目の、ちょうど目の高さ。
あの犬を、ここに置いたら。
隣に、別の魔物を置いたら。その隣に、もう一つ。
(……ここに、並べる)
のあは端末を開いた。明日の浅層の依頼一覧を、上から順に見ていった。




