第38話 受け取るのは誰か
地図が届いたのは、のあが階段を駆け下りている途中だった。
のあの部屋の最寄りから、電車で二駅。そこから歩いて五分。
(二駅と五分。……十五分で着ける)
のあは走りながら、すずに発信した。呼び出し音が一回で切れた。
『……のあさん』
すずの声は、布団をかぶっているみたいにこもっていた。
「今、向かっています。十五分で着きます」
『……来るんですか』
「行きます」
『インターホン、二回鳴りました。出てないです』
「それでいいです。建物に、夜いる職員さんは」
『一階に、管理人さんが。……でも、起こしたら、迷惑かなって』
「起こしてください。迷惑じゃないです」
『……はい』
「電話は、切らなくていいです。黙っていてもいい」
改札を抜けた。電車が入ってくる音が、すずの側にも聞こえたらしい。息を吸う音がした。
(聞き返すな、って言いたいところだけどな。……今夜は、何回聞かれても答える)
電車の中で、紗月へ一行だけ送った。返事はすぐ来た。
『相原さんに連絡しておく。着いたら教えて』
*
共同住宅は、白い二階建てだった。
二階の窓は四つ。三つに明かりが点いていた。消えている一つが、すずの部屋だろう。明かりを点ければ、下から見える。
門の横の街灯の下に、男が立っていた。色の褪せたベージュのジャンパーに、紙袋を一つ提げている。背を少し丸めた、出口で会ったときと同じ立ち方だった。
「おや。のあさん」
久世則明は、夜の九時過ぎに人の家の前にいるとは思えない、穏やかな声で言った。
「差し入れを持ってきただけですよ。明日は、あの子も緊張するだろうと思って。すずちゃんの頑張りは、私が一番よく知ってますから」
紙袋から、菓子の箱の角がのぞいていた。
(差し入れ。夜九時に、親戚の名前を添えて、か)
「明日の二時に、協会で伺います。今夜は、お帰りください」
「すずちゃんのご親戚とは、前に少しお話ししたことがあるんです。あの子が急に知らない大人と付き合い出したら、心配なさるでしょう」
久世は、のあの頭の上の、二階の窓を見上げた。
「私は、あの子のためを思って言っているんですよ」
のあは門の前へ一歩出て、久世と二階の窓との間に立った。触れる距離には入らない。
端末を胸の高さに上げた。
「今のお話、録っています」
電話は、まだすずとつながっていた。二階の暗い窓の向こうで、全部聞いているはずだった。
久世の笑顔は崩れなかった。紙袋を門柱の上に置き、のあの端末へ軽く会釈する。
「明日は、すずちゃん一人のほうが、話が早いと思いますがね」
足音が、角の向こうへ遠ざかった。
のあは紙袋に触らなかった。
(前の仕事でも、いたな。怒鳴らない、脅さない。ただ、相手の家族の名前だけ出して帰るやつ)
あれが一番、効く。言われた側は、夜じゅう窓の外を見ることになる。
建物の扉が開いた。カーディガンを羽織った六十過ぎの女の人と、その後ろに、灰色の上着を寝間着の上から着たすずがいた。道具袋を、胸に抱えている。耳には、まだ端末を当てていた。
「あなたが、のあさん? ありがとうねえ」
管理人は門柱の紙袋を見て、鼻を鳴らした。
「あの人、前にも一回来てるのよ。すずちゃん、言わないんだから」
(……おばちゃんだ。助かった)
肩の力が、半分抜けた。
「親戚のとこに戻すとか戻さないとか、あの人が決めることじゃないからね。明日、事務所の担当にも言っとく。ここは、すずちゃんの部屋よ」
すずは、何も言わなかった。袋を抱えた腕に、力が入っていた。
「……本当に、来た」
「行くと言いました」
「明日、一人で来いって。一人のほうが、いいですか」
「一緒に行きます。約束どおり」
すずは、袋を少しだけ下ろした。
*
翌朝、ミレイから連絡が来た。
『見つけたわよ。久世サポートの明細に、同じ項目が載ってる子。十六歳と十五歳。今日、協会の相談窓口に連れてく』
『早いですね』
『若い子から毟る男、あたし一番嫌いなの。相談料はタダ。ほっぺも今回はいらないわ』
(今回は、って言ったな)
*
午後二時。協会の相談スペースは、衝立で三つに区切られていた。
久世は先に来ていた。すずを見ると、昨夜と同じ顔で笑った。
「昨夜はどうも。すずちゃん、場所を変えましょうか。私の事務所なら、前の資料も揃っています」
「ここで、話したいです」
すずは自分で椅子を引いて座った。のあは隣へ。衝立の端には相原が控えている。
すずが控えを机に並べた。
「十二日の講習費、千五百円。何の講習ですか」
「新人さん向けの心得ですよ。電話でも、ずいぶん話したでしょう」
「電話は、道具の話だけでした。搬出費の千二百円は」
「素材の運搬と、保管の手配です」
「自分で、持っていきました。袋に入る分なので」
昨日までのすずなら、ここで黙っていた。
久世は控えを見なかった。すずだけを見ていた。
「最初に道具をそろえたのは、誰だったかな」
すずの肩が、小さく跳ねた。
「……久世さんです」
「そうでしょう。こういう話はね、他人を挟むとこじれるんです」
久世は椅子を引いて立った。
「一人で来なさい、すずちゃん。叔母さんにまで、心配をかけたくないでしょう」
男の手が、すずの手首へ伸びた。
のあの体が、先に立っていた。
(触りたくない)
門の前で待っていた男の手。花束。何の気なしに肩を叩いた、昔の自分の手のひら。一瞬で、全部が頭の中を通り過ぎた。
(――でも、触らせない)
のあは、久世の手首をつかんだ。
袖越しの骨が細かった。すずの手首まで、指二本分のところで止まっている。のあはそれを、すずから離れる側へ下ろした。
久世が振りほどこうとした。
動かなかった。肩をひねっても、百四十八センチの少女の手から、手首が抜けない。
「手を、引いてください」
「君が、口を出すことでは――」
「本人が、ここで聞くと言っています」
のあは久世の目を見た。
「Sランク探索者、クラン灯り火代表ののあです。朝倉すずさんの付き添いで来ています」
衝立の端で、相原が静かに言った。
「協会でも、そのように記録しています」
久世の腕から、力が抜けた。のあは手を離した。
(……あとで手を洗う。三回洗う)
*
「ちょうど、隣の窓口にも、久世サポートさんについてのご相談が来ています」
相原が衝立の向こうへ声をかけた。
入ってきたのは、協会の調査担当の職員と、若い探索者が二人だった。背の高い少年と、髪を一つに結んだ少女。少年の上着には、すずと同じように擦れた袖口があった。
「バーの……ミレイさんって人に、明細を見せてって言われて」
少女が小さく言って、少年と二人、自分の明細を机に置いた。
講習費、千五百円。搬出費、千二百円。
十二日の欄が、すずの明細と同じ並びで載っていた。
「十二日、午前十時」
調査担当が、入退場の記録を三枚並べた。
「朝倉さんはこの時刻、北管理区に入域中です。こちらの方は東管理区。もう一人は、協会の新人講習を受講中でした」
職員は眼鏡越しに、久世を見た。
「三人に、同じ時刻、別々の場所で講習をなさったんですか」
久世の口が開いて、何も出てこなかった。
「……事務の、手違いで」
「業者登録の規定で、明細の根拠を出していただきます。出せない場合は、登録停止の手続きに入ります」
「請求は、取り下げます」
「それとは別に、調査は続けます」
久世は、もうすずを見なかった。鞄を抱えて、衝立の外へ出ていった。
すずへ戻る差額は、講習費と搬出費の十八枚分、四万八千六百円。相原が、一行で書類に残した。
少年が、すずのほうを向いた。
「……あんたもか」
すずは、一度だけうなずいた。
相原の端末に、共同住宅の事務所から連絡が入っていた。今回の相談で退去の話にはならないこと。食費の支援も見直せること。親戚への連絡は、本人の希望なしには行わないこと。
すずは最後まで読んで、画面を胸に当てた。
*
協会を出ると、夕方の風が吹いていた。
のあは歩きながら、右の手のひらを上着の脇にこすりつけていた。二回。三回。
「のあさん。手、どうかしたんですか」
「何でもないです」
「さっき、久世さんの手をつかんだほう」
(見てたのか。……よく見てるな、この子)
「……男の人に触るのが、苦手なので」
すずが足を止めた。
のあの右手を見て、それから、自分の手首を見た。指二本分のところで止まった、あの場所を。
「苦手なのに、つかんだんですか」
「すずに触らせるほうが、嫌だったので」
すずは、しばらく黙っていた。
道具袋を抱える腕が、ほどけた。袋は肩にかけたまま、空いた両手で上着の裾を握った。
「のあさん」
「はい」
「もう少し、教えてほしいです」




