第37話 昔の私
二回目の朝、すずのメモ帳に、矢印が増えていた。
採取場所の図の横に、小さな矢印が一本ずつ。どこへ下がるか、先に書いてある。
三回目の帰り、すずの手当ての跡は一つも増えなかった。
四回目は、のあが時計を見る前に、すずのほうから言った。
「今日は、戻ります」
(……言われる前に言ったな)
それから、カフェ・マーサの定食が、決まりになった。
すずは毎回、九百円をテーブルの端に揃えて置いた。まさねぇは毎回、「はい、確かに」と受け取った。作り置きの紙袋も毎回出てきて、すずは毎回、一度だけ固まってから受け取った。
五回目の豚汁で、すずは具を残していた。
汁だけを先に飲んで、椀の底に、大根と人参と豚肉を寄せている。
「冷めますよ」
「……最後に、食べたいので」
すずは、椀を両手で包んだまま言った。
「それと、のあさん」
「はい」
「朝倉じゃなくて、すずで、いいです。朝倉って、あんまり呼ばれないので」
のあは、箸を止めた。
(……名前で呼べ、って言われる側になったのか)
「……すず」
「はい」
すずは、それだけ返事をして、残した大根を口に入れた。
*
六回目の帰り、北管理区の出口に、男が一人立っていた。
四十代の半ばくらい。白髪まじりの短い髪に、色の褪せたベージュのジャンパー。背を少し丸めて、出てくる探索者一人ひとりに、軽く会釈をしていた。
男が、すずを見つけて手を上げた。
「すずちゃん、お疲れさま。今日も無事でよかった」
すずの足が、止まった。
それから、いつもより少しだけ早く、男の前まで歩いた。窓口に出さなかったほうの袋を、両手で差し出す。
「今日の分、です」
「はい、預かるね。明細は、いつもどおり週末に」
男は袋を手のひらで量って、小さな手帳に何か書きつけた。中身を数えた様子はなかった。
それから、のあのほうを向いた。
「のあさん、ですよね。配信、拝見してますよ。すずちゃんが、お世話になってるそうで」
腰の低い、柔らかい声だった。
すずが、この男に話したのだろうか。それとも、どこかで見ていたのか。
「久世と申します。新人さんのお手伝いを、細々と」
差し出された名刺には、『久世サポート 代表 久世則明』とあった。のあは、名刺の端をつまんで受け取った。
「すずちゃんの頑張りは、私が一番よく知ってますから。ね」
久世の手が、すずの肩の上で止まった。
触れてはいなかった。けれど、すずの肩は、その手の下で固くなった。
「じゃあ、また週末に」
久世は、もう一度会釈をして、駅のほうへ歩いていった。
(笑ってたな。ずっと。……目は、袋から離れなかったけど)
*
「さっきの人は」
カフェ・マーサの窓際で、のあは豚汁の椀を置いてから聞いた。反対側の窓際では、ミレイが一人で画面を見ていた。
「久世さんです。登録した日に、窓口の前で立ってたら、声かけてくれて」
すずは、椀を両手で包んだ。
「何も分からなかったので。短剣も、安いのを探してくれて。採取の道具も、貸してくれて。窓口より、高く買ってくれるところも」
「高く?」
「一個、八百円です。窓口だと、七百円なので」
すずは、少しだけ誇らしそうに言った。
(……八百円、ね)
「明細、見せてもらってもいいですか。見せてもいい分だけで」
すずは、椀を置いた。
しばらく黙ってから、鞄の内ポケットを開けた。紙の束を出して、一枚ずつめくる。何枚かを自分の膝の上に戻して、残りをのあの前に置いた。
久世サポートの、買取明細だった。
白い鉱石、十二個。九千六百円。
講習費、千五百円。搬出費、千二百円。工具利用料、九百円。
お支払い額、六千円。
のあは、次の一枚をめくった。その次も。
どの紙にも、同じ三つが並んでいた。
「講習って、受けました?」
「受けてないです。呼ばれたこと、ないので」
「搬出は。どこかへ運んでもらった?」
「自分で、出口まで持っていきます。さっきみたいに」
のあは、紙の枚数を数えた。十八枚。
講習費が、合わせて二万七千円。搬出費が、二万千六百円。
(単価を高く見せて、よく分からない手数料で抜く。窓口で売れば、十二個で八千四百円。こっちで売ると、六千円)
前の業界で、さんざん見た手口だった。表に大きな数字を置いて、小さな字の欄で取り返す。
すずは、単価の八百円だけを見ていた。
「……助けてもらったんです」
すずが言った。
のあが何か言う前に、先に言った。
「何も分からなかったとき、声かけてくれたの、久世さんだけでした」
のあは、紙から顔を上げた。
すずの手が、椀の縁を握っていた。白くなるほど。
(昔の俺だ)
十歳のとき、のあは施設の職員に言った。稼いでるのは俺だ、と。誰の世話にもなってない、と。
言えたのは、紙が読めたからだった。三十二年分の、前の人生があったからだ。明細の小さな字も、契約の穴も、読めた。
すずには、それがない。
一人で稼ぐと決めたところだけが、同じだった。
「助かったのは、本当だと思います。それは、そのままでいいです」
のあは、講習費の欄を指で押さえた。
「でも、このお金が何の分かは、聞いていいと思います。助けてもらったことと、ずっと払い続けることは、別なので」
すずは、答えなかった。
窓際の反対側で、グラスの置かれる音がした。
「久世サポート?」
ミレイだった。昼のランチに手もつけずに、画面を見ていたはずの顔が、こちらを向いていた。
「その名前、前にも聞いたわ。登録したての若い子ばっかりに、窓口の前で声かけるの。単価を高めに言って、よく分からない費用を差し引く。……同じ話、これで三人目よ」
すずの肩が、跳ねた。
「あんたが悪いんじゃないわよ」
ミレイは、声の調子を変えなかった。
「こういうのは、最初に分からないように作ってあるの。分かったら、仕事にならないもの」
すずは、明細の束を見下ろしていた。
「……のあさんは、最初から、分かってたんですか。こういうの」
「私は」
のあは、少し考えた。
「本で、読みました」
(前の人生っていう、分厚い本でな)
*
すずは、自分の端末で、久世へ送る文を打った。
のあは、隣で見ているだけだった。すずが迷ったところで、一つだけ言葉を足した。
『講習費と搬出費が、何の分か教えてください。講習を受けた覚えがないので』
送信を押したすずの指が、少し震えていた。
返事は、五分もしないうちに来た。
『細かいことは、会って話しましょう。すずちゃんの頑張りは、私が一番よく知ってますから。今夜、少し時間あるかな?』
すずが、のあを見た。
「……夜は」
「協会の相談スペースなら、職員さんが同席できます」
のあは相原に連絡して、明日の午後二時に、北管理区の相談スペースを押さえてもらった。
すずは、その時刻を久世へ送った。
『分かりました。すずちゃんがそうしたいなら』
すずは、その一行を長いこと見ていた。
「のあさん。……一緒に、いてもらえますか」
「行きます」
すずは、うなずいた。
帰り際、まさねぇの紙袋を受け取りながら、すずは小さく言った。
「共同住宅なんです。支援の人たちの。四人で住んでて。……前は、親戚の家にいました」
それ以上は、言わなかった。
のあも、聞かなかった。
*
その夜、のあは家で、手入れの配信をつけた。
『今日も手入れ音』
『最近、昼の配信少ないね』
『S、忙しいのかな』
「忙しいです」
『即答』
『手入れの音、いつもより速くない?』
(速いか。……速いな)
布で銃身を拭いながら、のあは昼の明細を思い出していた。十八枚。四万八千六百円。
端末が、震えた。
すずからだった。
『家の前に、久世さんがいます』
布を持つ手が、止まった。
もう一通、続いた。
『明日の前に、二人で話そうって』
さらに、もう一通。
『親戚のおうちに戻ることになったら、大変だよねって。言われました』
のあは、魔銃を闇へしまった。
「今日は、ここまでです」
『え』
『急にどうした』
配信を切った。
上着を取る。靴に足を入れながら、返信を打った。
『鍵をかけて、中にいて。出なくていい』
『場所、送って』
玄関の扉を開けたところで、のあは気づいた。
すずの住んでいる場所を、のあは知らなかった。一度も、聞いたことがなかった。
久世は、知っていた。




