第36話 まずはご飯
八時四十分に着いたのに、案内台の横には、もう灰色の上着があった。
すずは壁の地図の前に立って、浅層の道を指でなぞっていた。のあに気づくと、指を下ろし、メモ帳を閉じた。
「おはようございます」
「おはようございます。……早いですね」
(こっちが待つつもりだったんだけどな)
「道を、見てました。昨日のところから、どこへ抜けられるか」
地図の上の、すずの指が止まっていたところは、昨日の合流点だった。
のあは、胸元のカメラを指で叩いた。
「今日は、配信しません。これも、切ってあります」
「……映っても、別に」
「映しません」
すずは、少しだけのあの胸元を見て、それから目を逸らした。
水は持っている。膝の布は、新しく巻き直してあった。受付で協会直受けの駆除と採取を二人で受けて、入口へ向かった。
*
浅層の通路は、天井が低く、湿った土の匂いがした。
すずは、のあの半歩前を歩いた。前を歩いてくださいと言ったら、そうした。足音は、やはりしなかった。
三つ目の曲がり角の手前で、すずが止まった。
「右、何か動きました。まだ見えてないです」
のあは右を見た。
岩壁と、その下の暗い隙間。何もない。
三つ数えるほどして、隙間の奥で細い脚が動いた。ビッグアントが一体、頭を出した。
(……また、先だ)
昨日のは、まぐれじゃなかった。
「どのくらいまで、分かるんですか」
「この、角の向こうくらいまでです。動いてるのだけ。止まってると、何も分からないです」
「足音も、消してますよね」
「……気をつけて歩くと、小さくなります。走ると、だめです」
すずは、それを誰にも言ったことがないような話し方をした。
「それ、すごくいいです」
すずは、何も言わなかった。
足元の石を一つ、つま先で脇へどけた。
(照れてるのか、疑ってるのか。……両方だな)
「今の一体、いつもどおりにやってみてください。私は、後ろで見てます」
*
すずは、まっすぐ行った。
素材袋を足元に落とし、短剣を抜いて、アリの正面へ。アリが顎を開いた。すずは顎の間へ体ごと入り、頭の付け根へ刃を突き立てた。
倒れた。
倒れる直前、閉じかけた顎の端が、すずの左袖を裂いていった。
すずは袖を見て、それから何事もなかったように、アリの魔石を取り始めた。
(……こうやって、毎日増えてたのか)
のあは、しゃがんだすずの横に立った。
「今、三つ、気になりました」
すずの手が止まった。
「一つ目。真っ正面から、向かっていきました」
のあは、倒れたアリの頭を指さした。
「アリの顎は、前にしか開きません。正面に立つと、全部こっちに来る。一歩だけ、横にずれてください。そこから、首の付け根が見えます」
まさねぇに教わった三つを、昨日の夜から何度も頭の中で並べ替えた。
当てさせない。見せない。正面に立たない。
(そのまま言っても、この子の体じゃ使えない。幻も出せないし、隠れられもしない)
「二つ目。袋を、前に置きました」
すずの素材袋は、アリとすずの間に落ちていた。
「前に置くと、下がるときに袋を跨ぐことになります。拾う前に、帰る道を決める。袋は、そっちに置く」
「……帰る道」
「昨日の石も、同じです。拾う前に、どこへ下がるか決めてあれば、拾ってもいいんです」
すずは、裂けた袖と、足元の袋を見比べた。
「三つ目は」
のあは、少し間を置いた。
「三つ目は、もうできてます」
「……何がですか」
「見せないこと。あなたの足音、今日、一回も聞いてないです。気づかれる前に、近づけてました」
すずは、顔を上げなかった。
上げないまま、耳の先が赤くなっていくのが見えた。
「これ、私も教わったことです。……私のは、もっと痛い教わり方でしたけど」
「痛い、って」
「四十二回、投げられました。一晩で」
すずが、初めてはっきりとのあを見た。
それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのかどうか、のあには分からなかった。
*
白い鉱石は、壁際の低いところに出ていた。
すずは採取具を出しかけて、手を止めた。しゃがむ前に、振り返る。来た道を見て、少し横の平らな場所へ寄った。袋を、その後ろに置く。
「ここからなら、戻れます」
「はい。そこで」
すずは鉱石を外し始めた。
三つ目を袋へ入れかけたところで、すずの顔が、壁の先へ向いた。
「前、二体。……いえ、三体です」
のあの目に見えたのは、二体だった。壁の先の窪みから、ビッグアントが並んで出てくる。
すずは採取具を置いた。手の中の鉱石が一つ、床に落ちて転がった。
すずは、それを見た。
拾わなかった。
短剣を抜いて、さっき決めた平らな場所まで下がった。先頭のアリが来る。顎が開く。すずは一歩、横へずれた。
顎が、空を噛んだ。
横を向いたアリの首の付け根へ、短剣が入った。
二体目は、倒れた一体目を乗り越えようとして、足がもつれた。すずは正面に立たなかった。もう一度横へずれて、同じところを刺した。
三体目は、窪みの反対側の隙間から、すずの背中へ回ろうとしていた。
すずが言った「三体」の、最後の一体だった。
のあは一発で止めた。
すずが振り向いたときには、三体目は隙間の前で動かなくなっていた。
「……三体目、分かってました」
「はい。だから、撃てました」
すずは短剣を下ろして、帰る道をもう一度見た。それから、床に転がった鉱石を拾った。
今度は、慌てていなかった。
*
規定量の鉱石は、それで揃った。
すずは袋の重さを手で量ってから、通路の奥を見た。
「もう少し先にも、あるんです。昨日、見ました」
「採りたいですか」
「……はい。今日、まだ動けるので」
のあは止めなかった。
帰りにかかる時間と、奥までの往復と、窓口が混み始める時刻を、そのまま口に出した。
「今戻れば、昼に間に合います。奥まで行くと、帰りはたぶん夕方です」
すずは、袋を見た。自分の裂けた袖を見た。
通路の奥で、小石が転がる音がした。すずは顔を向けたが、歩き出さなかった。
「今日は、戻ります」
(……自分で言った)
すずは、それ以上何も言わずに、来た道へ向きを変えた。
*
窓口の明細は、駆除が九千円、鉱石が四千二百円、魔石が二千四百円。一万五千六百円。
のあの分は、三体目の魔石が一つで、八百円だった。
(Sの日当、八百円。……まあ、いい)
すずは明細を二回読んで、メモ帳に写した。
「昨日の二回分より、多いです」
「怪我も、袖だけです」
すずは、裂けた袖を指でつまんだ。
「……これは、縫えます」
*
カフェ・マーサの扉の前で、すずは立ち止まった。
店先の黒板に、『本日の定食 唐揚げ・豚汁 九百円』とある。すずはその数字を読んで、財布の中を一度のぞいてから、うなずいた。
扉を開けると、カウンターの奥から声が飛んできた。
「いらっしゃい。あら、のあ。……その子ね」
まさねぇが、エプロンで手を拭きながら出てきた。
すずの体が、のあの後ろへ半歩ずれた。
百八十を超える背丈が、目の前に来たのだ。無理もなかった。
まさねぇは、そこで足を止めた。それ以上、近づかなかった。少しだけ腰をかがめて、声の高さを一段落とした。
「いらっしゃい。座んなさい。窓際、日が当たって暖かいわよ」
「……朝倉、です」
「すずちゃんね。のあから聞いてるわ」
ルカが、水を二つ持ってきた。
「ルカです。ここのバイト。まさねぇ、見た目ほど怖くないから」
「見た目って何よ」
定食が来た。
唐揚げが四つ。千切りのキャベツ。ご飯と、大きな椀の豚汁。
すずは箸より先に、椀を両手で持ち上げた。
湯気に顔を近づけて、少しだけ吸った。熱かったのか、一度離して、また近づけた。二口目は、長かった。
のあは、自分の箸を持ったまま、それを見ていた。
子ども食堂で、うどんの器を両手で抱えていたことがある。強面の大人が、黙っておにぎりを置いてくれた。熱いから、ゆっくり食え、と言われた。
(あのときの俺も、こんな顔してたのか)
「のあさん。……食べないんですか」
「食べます」
(見すぎだ、俺)
すずは、唐揚げを一つずつ、ゆっくり食べた。豚汁を三回に分けて、最後の一滴まで飲んだ。
食べ終えると、すずは財布から九百円を出して、テーブルの端に揃えて置いた。
「これ、定食の分です」
まさねぇは、何も言わずに受け取った。
「はい、確かに」
それから、カウンターの下から、紙袋を一つ出した。
「これは、持って帰んなさい。煮物と、鶏そぼろ。三日で食べるのよ」
すずの手が、止まった。
財布をしまいかけた姿勢のまま、紙袋と、まさねぇの顔を見比べている。
「……代金は」
「いらないわよ。余り物だもの。捨てるのを手伝ってくれるなら、お礼言うのはこっちよ」
すずは、動かなかった。
受け取れば何かが始まる。断れば、この人の機嫌を損ねる。どっちが安いか、必死で数えている顔だった。
のあは、その顔を知っていた。
(……俺と、同じ顔してる)
昔、同じ店で、同じ紙袋を押しつけられた。多いです、と言った。三日は無理だと思って、二日で食べた。
「もらっておいてください」
のあは言った。
「この人、断ると量が増えます」
「増やすわよ」
まさねぇが、胸を張った。
すずは、紙袋を両手で受け取った。膝の上で、素材袋の隣に並べる。
「……共同の、冷蔵庫なので。名前、書いて入れます」
「あら。じゃあ、袋にも書いときなさい。取られないように」
まさねぇがペンを差し出した。すずは紙袋の端に、小さく『朝倉』と書いた。
(共同の冷蔵庫、か)
のあは、その一言を覚えておいた。
すずは紙袋の口を折り、素材袋と一緒に抱え直した。それから、のあのほうを向いた。
「のあさん」
「はい」
「次は、いつ空いていますか」
(……明日だけって書かせたの、お前だろ)




