第35話 おせっかい
「いりません」
すずの返事は、早かった。
のあの言葉が終わるのを待っていなかった。袋を抱えたまま、それだけが先に出てきた。
「お金、払えないので」
「お金は、要りません」
「じゃあ、素材ですか」
すずは、袋の結び目に指をかけた。中身を数え直すときの手つきだった。
(また、そこか)
「素材も、要りません」
「灯り火に、入らないと駄目ですか」
のあは、少し驚いた。
(知ってるのか。……そりゃ知ってるか。待合でさんざん言われてた)
「入らなくていいです。入れとも言いません」
すずは黙った。
掲示板の前を、探索者が二人通った。すずは顔も向けずに、半歩脇へ寄った。通り過ぎてから、同じ場所へ戻る。
目が、のあの手元と、出口と、また手元を行き来していた。
「じゃあ、なんでですか」
小さな声だった。責める調子ではなかった。本当に、分からないという声だった。
のあは、すぐには答えられなかった。
怪我が気になったから。それは本当だ。でも、それだけなら、この子にとっては「何かを取られる前の前置き」にしか聞こえない。
のあも、そうだった。
救助のあと、三人に食事へ誘われた日。紗月が伝票を取っても、のあは鞄から財布を出した。何を払えば、あとで何も言われずに済むのか。それを先に決めておきたかった。
「多分、私も同じだった」
すずの目が、手元から上がった。
「……何が、ですか」
「何かしてもらうと、何を取られるのか、先に知りたかった。分からないと、受け取れなかった」
すずは、何も言わなかった。
袋の結び目の上で、指が一度だけ止まった。
「私は、運がよかっただけです。断っても、次の日に普通に話しかけてくる人たちがいたので」
(何回断ったか、もう覚えてないけどな)
「だから、明日、一回だけ。私が見て、気づいたことを言う。それだけです」
*
すずは、ポケットから小さなメモ帳を出した。
表紙の角が丸くなっている。開いたページには、採取場所の簡単な図と、日付と、買取の数字が細かく並んでいた。
「書いてもいいですか。条件」
「どうぞ」
すずは、ページの端に一行ずつ書いた。
明日、一回だけ。
お金はかからない。
採ったもの、倒したものは、自分の。
「……灯り火にも、入らなくていい」
のあが言うと、すずは四行目を書き足した。
それから、ペンをのあへ差し出した。
「名前、書いてください。下に」
のあはペンを受け取った。
すずの指に触れないように、軸の端をつまんで。
四行の下に、二文字だけ書いた。
のあ。
すずは、その二文字をしばらく見ていた。名字の欄を探すような目だった。
「これで、いいんですか」
「私は、これで全部です」
すずはメモ帳を閉じて、上着の内ポケットへしまった。ボタンを留める。上から一度、手のひらで押さえた。
それから、掲示板へ目を戻した。夕方締切の採取依頼が、まだ貼ってある。
「……明日、どのくらい稼げますか」
「今日の二回目の分より、多くします」
のあは端末で、協会が直接出している依頼を開いた。浅層のビッグアント三体の駆除が九千円。白い鉱石の採取、規定量で四千二百円。魔石は別に買い取り。
「両方やれば、一万三千二百円と、魔石の分です」
すずは、掲示板の紙と、のあの画面を見比べた。
指で、何かを数えていた。
「明日、朝から動けないと困るので。今日は、帰ります」
(理由が、金なんだな。……らしい)
のあは、九時に北管理区の案内台で、とだけ伝えた。連絡先は、窓口の控えの裏に書いて渡した。すずは端に指をかけて受け取り、同じようにメモ帳へ挟んだ。
灰色の上着は、人の流れを避けながら、今度は帰還口のほうへ歩いていった。
*
「で、声かけたの? あんたが?」
バー・マーサのカウンターで、まさねぇがグラスを拭く手を止めた。
「かけました」
「あんたから?」
「……はい」
まさねぇは、グラスを置いた。
それから、布巾を目元に当てた。
「……ちょっと、待って」
「泣いてるんですか」
「泣いてないわよ。玉ねぎよ」
(切ってないだろ、玉ねぎ)
まさねぇは布巾を下ろさないまま、鼻をすすった。
「あんたが、誰かを拾ってくる日が来るなんてねぇ……」
「拾ってません。明日、一回見るだけです」
「最初はみんなそう言うのよ。あんたの顔、今、完全に拾った顔してるもの」
カウンターの端で、ゴンちゃんが編み物の手を止めて、にこにこしていた。
「どんな子なの?」
「十四歳です。Eランクで、登録して一か月くらい。……毎回、違うところを怪我してます」
「十四」
カウンターの内側で、ルカが顔を上げた。
「一人で潜ってるんですか。毎日?」
「一日二回、潜ろうとしてました」
「……それ、ご飯食べてます?」
のあは、すずの目の下の青さを思い出した。袋を下ろすたびに、一度だけ震えていた腕も。
「多分、ちゃんとは」
ルカは、拭いていたグラスを置いた。
「じゃあ、戦い方より先に、まずご飯ですよ。十四でしょ。僕が十四のとき、一日五回食べてました」
「五回」
「部活で。あと、夜中にカップ麺」
(それは、ルカが食いすぎなだけだ)
でも、言いたいことは分かった。
窓際の席で、ミレイが画面から顔を上げていた。
「その子、周りに大人はいるの?」
「……分かりません。聞いてないです」
「聞かないのは正解。初日に聞いたら、二度と来ないわよ。でも、見ときなさい。誰に何を渡してるか」
のあは、破れた袋のことを思い出した。窓口に出さなかった、もう一つの袋。
(別のところに持っていく、って言ってたな)
「はい」
*
ナポリタンを半分ほど食べたころ、のあはフォークを置いた。
「まさねぇ。教わった三つ、そのまま言っていいですか。あの子に」
当てさせない。見せない。正面に立たない。
まさねぇは、少し考える顔をした。
「だめよ」
「……だめですか」
「あれは、あんたの体に合わせて言ったの。あんたは隠れられるし、幻も出せるし、刃も飛ばせるでしょ。その子、そうじゃないんじゃない?」
のあは、すずの短剣を思い出した。柄の握りだけが黒く擦れた、中古の一本。
「言葉は、そのまま渡しちゃだめ。その子の体で使える形に、あんたが直すのよ」
まさねぇは、のあの皿にナポリタンを足した。
「教わる側から、教える側になるって、そういうことよ。……真帆ちゃんのときは、自然にやってたじゃない」
「真帆さんは、大人なので」
「十四の子は、もっと大変よ。全部、自分のせいだと思ってるもの」
(……それは、知ってる)
「それと、明日のお昼。終わったら、連れてらっしゃい」
「来るか、分かりません」
「来なかったら、あんたが食べていきなさい。二人分作っとくから」
ゴンちゃんが、編みかけの毛糸を持ち上げた。
「アタシ、明日のお昼、いてもいい?」
「ゴンちゃんは、大きいので。初日は、やめたほうが」
「あら。そうよねぇ」
ゴンちゃんは、少しだけしょんぼりした。
*
九時半に店を出て、駅のホームで電車を待っているとき、端末が震えた。
知らない番号からの、短いメッセージだった。
『朝倉です』
一行目は、それだけだった。
続けて、もう一通。
『明日だけですよね』
のあは、画面を見つめた。
メモ帳に書いて、名前まで書かせて、内ポケットのボタンを留めて。それでも、夜になって、もう一度確かめずにいられなかったらしい。
(……分かるよ。俺も、紙を三回読み直した)
のあは、返事を打った。
『明日だけです』
送ってから、指が止まった。
その下に、何か足そうとした。その先は、あなたが決めていい。そう打ちかけて、消した。
今それを書いたら、きっと、「その先」を約束させられるように読める。
電車が、ホームへ入ってきた。
のあが乗り込むのと同時に、もう一度、端末が震えた。
『九時に行きます。遅れたら、置いていってください』




