第33話 同じ匂い
「――配信、始めます。今日は、アースドラゴンの討伐です」
『きた』
『S初仕事』
『ドラゴン!?』
『今日ドローンなし』
『なしってことは、ガチ』
『寝る準備してたけど起きた』
「寝ていいです。たぶん、すぐ終わるので」
『言い切った』
『寝られるか』
北管理区の異界型、採掘区画の一番奥。
のあは、岩の裂け目から空洞を見下ろしていた。回収班は、ずっと手前の広場で待っている。手配は紗月がしてくれた。ここから先は、一人だ。
(一人で潜る日は残す。自分で書いた一行目だ)
空洞の壁を、爪が押していた。
一本が、のあの腕より太い。岩へ食い込んだ爪の間から、削れた石がぱらぱらと落ちる。爪の先に、太い前脚があって、その先に、小山のような背中があった。
アースドラゴン。
厚い鱗が重なった背が、呼吸のたびにゆっくり上下している。尾が床を擦ると、置き去りの鉄の枠が潰れて、乾いた音を立てた。
『でっか』
『え、これ一人でやるの』
『画面に入りきってない』
(入りきらないだろうな。俺の目にも入りきってない)
のあは《隠密》で自分を沈め、岩の張り出しを伝って、上の棚へ移った。
棚の端に伏せる。闇から魔銃を引き出す。
銃床に肩を当てる。九歳で拾ったころとは、外見も、構えた感触も違う。古い装飾のついた外装は、成長に合わせて作り替えてきた。魔力を通す核は、あのころのままだ。
背中は硬い。正面から撃てば、鱗を割るだけで終わる。けれど、首を伸ばし切ったときだけ、喉の内側の薄いところが開く。前脚で壁を押すたびに、胸が上がり、首が伸びかけては、また下りていた。
(もう少し。そこまで上がれば、一発で届く)
闇の魔弾を込めた。
息を吸う。
撃つ前に息を吐き切る癖は、あの猫に読まれてから、わざと崩すこともある。今日は、要らなかった。相手は耳で待っているわけではない。
ドラゴンが、壁を押した。
胸が大きく前へ出る。顎が持ち上がる。首が、真上へ伸びきった。
喉が開いて、咆哮が空洞を満たした。
のあは、息を吐き切った。
吐き切ったところで、指が動いた。
闇で音を消した一発が、咆哮の中を抜けた。伸びた首の内側、鱗の途切れた隙間へ、魔弾が入る。着弾した闇を、のあは奥へ浸透させた。
咆哮が、途中で切れた。
反り返った首が止まる。壁をつかんでいた前脚が外れ、爪が石を削りながら落ちた。支えをなくした巨体が、空いた床のほうへ傾いていく。
腹が、地面を打った。
遅れて、頭が落ちた。空洞の底で重い音が響き、砂と小石が跳ね上がった。
砂が収まっても、ドラゴンは起き上がらなかった。
最後まで、一度もこちらを見なかった。
『……』
『え』
『一発?』
『咆哮の途中で止まった』
『寝る暇なかった』
『S初仕事、一発』
のあは魔銃を構えたまま、頭と前脚を見ていた。動かない。落ちてくる石もない。
「終わりました。回収班の方、入れます」
無線に言うと、少し間があってから、紗月の声が返ってきた。
『……もう? 了解。今から向かってもらうね』
*
「指名の報酬が四百二十万円。鱗と爪、牙、魔石の買取が合わせて百八十六万円。回収班の費用は、依頼主さん持ちです」
北管理区の窓口で、職員が明細を読み上げた。
合計、六百六万円。
回収の手配を頼んだ分として、一割を灯り火の共同の口座へ回す。残りが、五百四十五万四千円。
のあは明細を見た。
ゼロを数えようとして、やめた。七桁だった。
(……A昇格の日、「ゼロが一個多い」って二回読んだ数字より、多い。一件で)
口元が、勝手に緩んだ。今日は、端末を下へ向けなかった。配信は、もう閉じてある。
(整備代。手袋。あの店の、高いほうの焼き菓子。……それでも、ほとんど残る)
明細を保存して、窓口の前を空けた。
*
待合の端に、少女が一人座っていた。
灰色の上着。袖口が擦れて、白っぽくなっている。短く切った黒髪は、前髪の長さが揃っていなかった。自分で切ったのだと、のあには分かった。
腰の短剣は、柄の握りだけが黒く擦れていた。手入れはしてある。刃こぼれを、自分で研いだ跡がある。
膝の上に、素材袋を一つ。少女は、それを片手で押さえたまま、小さなメモ帳に何か書いていた。一度数えて、同じところを、もう一度数え直す。
台車を押した探索者が、後ろを通りかかった。
少女は、台車が近づくより先に、袋ごと体を脇へ寄せていた。振り向いてもいない。音だけで、先に避けていた。
(……避け方が、早い)
人が通る前に、道を空ける。ぶつかる前に、いなくなる。そうしておけば、何も言われない。
のあは、その避け方を知っていた。
「朝倉すずさん。どうぞ」
隣の窓口から、名前が呼ばれた。
少女が立ち上がった。のあより、少しだけ背が高い。袋を胸の前に抱え、空いた手で依頼の控えを出す。
その控えが一枚、指の間から滑った。
床を滑って、のあの靴の先で止まった。
のあは屈んで、拾った。
「落ちました」
すずが、顔を上げた。
目が合ったのは一瞬で、すぐに視線が、のあの手の紙へ落ちた。
すずの右手の甲に、白いテープが貼ってあった。端が浮いて、下に擦り傷の赤が見える。左の手首にも、古い手当ての跡があった。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
そして、半歩、下がった。
袋を抱えた腕は、ほどかなかった。
のあは、差し出しかけた手を止めた。
(近づくな、か。……紙を返すだけなんだけどな)
窓口の台の端に、控えを置いた。指を離す。
すずはそれを見てから、台の上の紙を取った。ほかの控えと端を揃えて、メモ帳に挟む。
窓口の職員が、素材袋の中身を量っていた。
「浅層の薬草、規定量。三千八百円ですね」
「はい」
すずは明細を受け取って、メモ帳に数字を書き足した。それから、顔を上げた。
「今日、もう一件、行けるものはありますか」
職員が、少し困った顔をした。
「朝倉さん、今日はこれで二回目ですよね。朝も入ってましたし」
「大丈夫です。道は、分かります」
「……浅層の採取なら、一件。夕方までに戻れるなら」
「それを、お願いします」
迷わなかった。
すずの目の下が、うっすら青かった。袋を抱える腕が、下ろすたびに一度だけ震える。疲れている。本人も、分かっているはずだった。
それでも、行く。
のあは、窓口の前から動けなかった。
四歳の春を思い出していた。
空の冷蔵庫を、何度も開けた。開けても、何も増えなかった。玄関の外を通る足音に顔を上げて、通り過ぎるたびに、また待った。
待っていても、何も来なかった。だから、潜った。好奇心がなかったとは言わない。けれど一番は、今日、食べるためだった。
ダンジョンから戻ったときの、自分の上着の匂いを覚えている。石の粉と、乾いた汗と、腹の底が空っぽのときの、少し酸っぱい匂い。
すずの袖口から、同じ匂いがした。
(……あいつも、今日の分を、まだ終えられてないんだ)
何が足りないのかは、知らない。家のことも、金のことも、知らない。
声をかけるなら、今だった。
どこへ行くの。一人なの。ちゃんと食べてるの。
のあは、口を開きかけて、閉じた。
(初対面で、それを聞かれたら。俺なら、嫌だった)
四歳ののあは、「大丈夫」と言った。黒瀬に言った。施設の職員にも言った。大丈夫じゃないと、自分でも分かっていたのに。
聞かれるたびに、一歩下がった。
さっきの、あの半歩みたいに。
端末が震えた。
『帰ってきた? ご飯、四人分作ってるよ』
千晴だった。
のあは『これから行きます』と打って、送った。少し前なら、送る相手のいなかった一行だった。
顔を上げると、すずは短剣の柄を片手で押さえ、素材袋を背負い直していた。職員に頭を下げて、のあの脇を通り過ぎる。
ぶつからないように、半歩、遠回りをして。
のあは、呼び止めなかった。
灰色の上着が、人の流れより少し早く、脇へ寄りながら進んでいく。
帰還口ではなかった。
入口のほうへ、また向かっていた。




