第32話 お祝いと、独り言
扉に、手書きの札が下がっていた。
『本日貸切 Sのお祝い』
(……Sのお祝い、って書くな。通りから見えるだろ)
のあが札を裏返そうとしたとき、後ろから千晴の声がした。
「のあちゃん、早いね」
振り返って、のあは固まった。
千晴は、肩の出た明るい色のブラウスを着ていた。真帆は細い眼鏡に、紺のワンピース。紗月は、いつも低く結んでいる黒髪をほどいて、肩へ流していた。白いシャツに、細い銀のネックレスが一本だけ。
(……ほどくと、こうなるのか)
のあは札を裏返すのを忘れて、扉の取っ手を見つめた。
「のあ、入らないの?」
「……入ります」
*
「いらっしゃい。あら、みんな綺麗にしてきたじゃない」
カウンターの奥から、まさねぇの声が飛んできた。黒いベストに、袖はまくったまま。カウンターの上には、もう大皿が四つ並んでいた。唐揚げの山、ポテトサラダ、ナポリタン、生ハムを巻いた何か。
カウンターの端に大きな背中があって、反対の端に細い背中があった。
「ゴンちゃんです。のあちゃんが、いつもお世話になってます」
ゴンちゃんが、編み針を置いて立ち上がった。天井に頭が届きそうだった。千晴が、口を開けたまま見上げた。
「ミレイよ。噂の灯り火ね。配信は全部見てるわ」
ミレイは座ったまま、グラスを軽く上げた。
「ルカです。今日は、飲み物係です」
ルカがカウンターの内側で頭を下げた。
紗月が、三人の前に進み出た。
「三枝です。切り抜きの件も、相談役のことも、ありがとうございました」
「いいのよ。お礼は、あとでその子のほっぺで」
「払いません」
のあが言うと、ミレイが笑った。
*
乾杯の前に、まさねぇがのあを指さした。
「はい、代表。挨拶」
「……挨拶」
(聞いてない。聞いてないぞ)
七人分の顔が、のあを見ていた。そのうち三人は美人で、しかも今日は髪をほどいている。
のあはグラスを持ったまま、しばらく黙った。
「……いただきます」
「それ挨拶じゃなくて、食前のやつよ」
「いただきます、です」
「はい、いただきます!」
千晴が先に言って、全員が続いた。グラスが八つ、真ん中で鳴った。
唐揚げは、揚げたてだった。
のあは一つ食べて、二つ目に箸を伸ばした。三つ目を取ろうとしたところで、隣に誰かが座った。
紗月だった。
ほどいた髪の先が、のあの肩のすぐ横で揺れた。
(近い。いや、近くない。普通の距離だ。落ち着け)
「のあ。唐揚げ、取ろうか」
「……自分で、取れます」
声が、いつもより小さかった。
カウンターの内側で、ルカが小声で言った。
「のあさん、緊張してます?」
「……してます」
「分かります。綺麗な人が三人並ぶと、目の置き場、困りますよね」
「……ルカも、ですか」
「僕は、別の意味で。あっちの三人、絵になりすぎてて。モデルさんの撮影現場に紛れこんだみたいで」
(そっちか。……いや、そっちでも分かる)
のあは、ルカの差し出したシンデレラを受け取った。
「のあさん、昔から、女の人の前だと石みたいになるって。まさねぇが」
「まさねぇは、余計なことを言います」
「言いますね」
ルカが、声を立てずに笑った。
*
「それ、ご自分で編んだんですか」
カウンターの端で、真帆がゴンちゃんの手元をのぞきこんでいた。
「そうよ。盾の持ち手のカバー。これで三代目」
「目が、すごく揃ってる……。私、刺繍しかやらないんですけど、編み物って、途中で目の数、分からなくなりませんか」
「なるなる。だから、十目ごとに色の違う糸を挟むのよ」
「……それ、射撃の記録と同じだ。区切りを先に決めておくと、崩れない」
「あら、分かる?」
真帆が、ノートを出した。『のあ先生』の表紙の裏に、ゴンちゃんが編み目の図を描き始めた。
(真帆さん、刺繍やってたのか。……知らなかった)
反対の端では、ミレイと千晴が、画面を二つ並べていた。
「サムネはね、顔の寄りより、手元のほうが伸びるのよ。あの子の配信で一番回った切り抜き、何だと思う?」
「……菓子の、ほっぺ?」
「二番目。一番は、手入れの手元。布で銃を拭いてるだけの三十秒」
「え、あれが一番なんですか」
「数字は嘘をつかないわ。あと千晴ちゃん、あんたの配信、声が明るすぎて寝られないって層がいるの。そこは捨てていい。寝たい人は、あの子のほうへ行くから」
「棲み分け……!」
千晴が、端末にメモを取っていた。
(何の話をしてるんだ。俺の配信を、寝る用みたいに言うな)
まさねぇが、全員の皿に唐揚げを足して回った。
「ほら、紗月ちゃんも食べなさい。あんた、さっきから人の皿ばっかり見てるわよ」
「……ばれてました?」
「あたしを誰だと思ってんの。ここ、あんたが面倒見なくていい店よ。今日は食べる係」
紗月が、少し驚いた顔をしてから笑った。目尻が下がった。
のあは、四つ目の唐揚げを取った。
*
最後に、ケーキが出てきた。
運んできたのは、まさねぇではなかった。
厨房ののれんをくぐって、大きな男が出てきた。黒いTシャツの袖が、腕の太さで張っている。顎から頬にかけて短いひげ。三十くらいだろうか。両手で大皿を持ったまま、誰とも目を合わせずにカウンターまで来て、真ん中に置いた。
「ありがと、ゆーくん」
まさねぇが言うと、男は小さくうなずいた。それだけで、のれんの奥へ戻っていった。
「……今の人は」
「ゆーくん。桜庭優斗。うちの裏方よ」
「金庫番ね」
ミレイがグラスを揺らした。
「ここの仕込みと帳簿と仕入れ、全部あの人。まさねぇに財布を持たせると、店が三日で傾くから」
「失礼ね。二週間はもつわよ」
「それに、目の保養」
ミレイは、のれんのほうへ目を細めた。
「あのひげとあの腕で、ノンケなのよ。この店で唯一。神様って残酷よね」
「ミレイさん、それ毎回言ってますよね」
ルカが笑った。
のあは、のれんの奥を見ていた。
大きな背中が、流しの前で皿を洗っていた。こちらの騒ぎには振り向かない。水の音だけが、一定の間隔で続いている。
(……源三さんみたいだ)
大きくて、無口で、黙って皿を置いていく大人。子ども食堂で、うどんの器を前に置いてくれた手を思い出した。
男の人なのに、不思議と肩に力が入らなかった。
白いクリームの上に、チョコレートで大きく『S』。その下に、小さく『のあ』。さらにその下に、もっと小さく、猫の顔。
「……猫は、誰ですか」
「アタシ」
ゴンちゃんが、恥ずかしそうに手を上げた。
(……ゴンちゃんなら、いいか)
のあがナイフを入れようとしたとき、扉の鈴が鳴った。
貸切の札は、まだ出ているはずだった。
入ってきたのは、日焼けした短髪の男だった。調査用の、丈夫な作業着。肩に、うっすら埃がついている。
のあの背中が、勝手にまっすぐになった。
「あら、黒瀬ちゃん。遅いわよ」
「通りかかった」
「電車で二駅向こうから、通りかかったのね」
まさねぇが、どこかで聞いたような言い方をした。
黒瀬匠。四歳ののあを、消えかけた小さな入口の前で見つけた人だった。一人で平気だと言ったのに、聞き入れなかった大人。嫌いではない。ただ、会うと今も、のあの手は膝の上で固くなる。
(……まさねぇの店に、来るのか。この人)
黒瀬はカウンターの一番端に座った。まさねぇが、何も聞かずにグラスを置いた。
のあは、ナイフを置いて、そちらへ歩いた。三歩。いつもより、足が重かった。
「……お久しぶりです」
「おう」
黒瀬は、グラスから目を上げた。
「Sだってな」
「……はい」
「そうか」
それで、話が終わった。
黒瀬は、それ以上何も言わなかった。よくやった、とも。昔のことも。のあがここまで来たのは誰のおかげか、なんてことも。
のあは、少しだけ肩の力が抜けた。
「食ってるか」
「食べてます。……ここで、よく」
黒瀬の目が、カウンターの上の皿を見た。空になった唐揚げの大皿と、半分残ったナポリタンと、ケーキの『S』。
「そうか」
同じ言葉を、黒瀬はもう一度言った。
*
九時半になると、まさねぇが時計を指さした。
「はい、シンデレラの時間」
「今日は、お祝いです」
「お祝いでも、九時半よ。紗月ちゃんたち、送ってってくれる?」
「はい。ちょうど帰る方向なので」
紗月が、上着を取った。
ケーキの残りは、四つに切り分けて、箱に詰められた。まさねぇの紙袋が、いつものように、のあの腕に押しつけられる。
「黒瀬さん。……失礼します」
「おう」
黒瀬は、振り向かずに手を一度上げた。
扉の鈴が鳴って、四人分の足音が遠ざかった。
*
閉店の札を出したあと、カウンターには二人だけが残った。
のれんの奥では、まだ帳簿をめくる音がしていた。
ゴンちゃんもミレイもルカも、とっくに帰っていた。まさねぇは、洗ったグラスを一つずつ拭いている。
黒瀬は、最初の一杯を、まだ半分残していた。
「……会ってきたんだよ。前に一度」
誰に言うでもない声だった。まさねぇの手は、止まらなかった。
「遠いとこでな。男と出てって、そのまま向こうで暮らしてた。今は、スナックに勤めてる。一緒にいるのは、出てったときの男じゃなかった」
黒瀬は、グラスの縁を指でなぞった。
「娘さん、生きてますよって言ったらな」
指が、止まった。
「『まだ生きてたんだ』だとよ」
まさねぇが、グラスを拭く手を止めた。
「それから、『もう捨てたんだから、そっちで勝手にして』。玄関、閉められた」
店の中で、冷蔵庫の低い音だけがしていた。
黒瀬は、残りの半分を一息に飲んだ。
「……ああ。生きてるよ。あんたがいなくてもな」
空のグラスが、カウンターに置かれた。
まさねぇは、新しいグラスを出さなかった。代わりに、残っていたケーキの端の皿を、黒瀬の前へ滑らせた。チョコレートの『S』の、下の端だけが残っていた。
「あの子には、言わないのね」
「言ってどうする」
黒瀬は、ケーキの皿を見た。
「……あいつ、唐揚げ、何個食った」
「七つ。ナポリタンもおかわりしたわ」
「そうか」
黒瀬は、フォークを取らなかった。皿を見たまま、しばらく座っていた。




