第29話 私たちも選んでいる
『しばらく、同行と練習をお休みします。鋼翼の件が落ち着くまでです』
朝の七時に、のあは同じ文を三回書き直した。
一回目は長すぎた。二回目は、理由を書きすぎた。三回目で、理由を一つだけ残した。
(仕事の連絡と同じだ。短く、用件だけ)
送信を押して、端末を伏せた。
トースターが鳴った。パンは一枚しか焼いていなかった。
*
昼前に、まさねぇから連絡が来た。
『お昼、来なさい。今日の日替わり、煮込みハンバーグ』
のあは返事を三秒考えた。
(……ハンバーグに罪はない)
『行きます』
カフェ・マーサの扉を開けると、いつもの窓際ではなく、奥の四人掛けに通された。
「今日は、こっち」
「一人です」
「知ってるわよ。座んなさい」
ハンバーグは、いつもより大きかった。デミグラスの湯気が顔に当たる。一口目で、昨夜から固まっていた肩が少しだけ下がった。
二口目を切ったとき、扉の鈴が鳴った。
「こんにちは。四人で予約してた三枝です」
のあの箸が、止まった。
紗月が入ってきた。後ろに真帆と千晴。三人とも、迷わずこちらのテーブルへ歩いてくる。
「……まさねぇ」
「あたしは、ハンバーグを焼いただけよ」
まさねぇは、三人分の水をテーブルに置いて、カウンターの奥へ引っ込んだ。
(はめられた。完全にはめられた。四人掛けの時点で気づけ、俺)
紗月が向かいに座った。真帆が隣、千晴が斜め前。出口までの道を塞ぐ位置には、誰も座らなかった。
「メッセージ、読んだよ」
「……はい」
「落ち着くまで、って書いてあった。落ち着くって、どうなったら?」
のあは、ハンバーグの断面を見た。
「鋼翼が、三人に何もしなくなったら、です」
「のあが来なくなったら、あの人たちは何もしなくなると思う?」
紗月の声は、責める調子ではなかった。予定表の空欄を指で押さえるときと、同じ声だった。
「あの人が欲しいのは、のあだよ。私たちじゃない。のあが私たちから離れたら、今度は一人になったのあに、別の条件を持ってくるだけ」
のあは答えられなかった。
(……それは、そうだ。俺でもそうする)
前の職場なら、そうした。相手の周りを崩して、相手が一人になったところで、もう一度同じ提案を持っていく。一度目より、少しだけ条件を良くして。
「そのあいだ、私たちは、のあのいない予定表を見てるだけになる。それは嫌だよ」
真帆が、鞄からノートを出した。
表紙には『のあ先生』。その下に、正式な師事の届出の控えが挟んである。
「私、練習は続けたい」
「……真帆さん」
「あの切り抜きの、岩を削った一発。あれ、本当に私の外し方なんだ。紗月が押し込まれたときに、焦って撃った」
真帆はノートを開き、その日の図を見せた。自分の立ち位置に、赤で丸がついている。
「だから、直したい。直すのに、のあに見てほしい。やめたら、あの切り抜きが本当のことになっちゃう」
のあは、赤い丸を見た。
昨日の夕方、仕事部屋で唇を噛んでいた真帆の顔が、同じ場所に重なった。
「……あれは、焦っても仕方ない位置でした」
「うん。だから、次は焦らない位置を教えて」
千晴は、ずっと黙っていた。
テーブルの上で指を組み、ほどき、また組んだ。
「昨日ね。のあちゃんが帰ったあと、私、肉を四人分焼いてたの」
「……はい」
「のあちゃんが食べていくか、聞く前に。いつもそうしてるから」
千晴は笑おうとして、うまくいかなかった。
「一緒にご飯食べたいから作ってるのに。あの人のせいで、一人分減らすの、嫌だよ」
のあは、まだ半分残っているハンバーグを見た。
(……ずるいだろ、それは)
カウンターの奥で、まさねぇが皿を拭く音だけがしていた。
「私がいると、また何かされます」
「されるかもね」
紗月はあっさり認めた。
「でも、昨日の便は、別の運送屋さんを見つけて間に合わせたでしょう。追加の納品までして、工房さんから直接頼まれるようになった。切り抜きのほうは、ミレイさんが出どころまで調べてくれたって、まさねぇさんから聞いた」
「……聞いたんですか」
「昨日の夜、電話が来たの。『あの子、うちで変なこと言ってたわよ』って」
(まさねぇ。おせっかいにも程がある)
のあがカウンターを睨むと、まさねぇは素知らぬ顔で背を向けた。
「のあ。私たちも、選んでるんだよ」
紗月が言った。
「助けてもらったから、断れないんじゃない。のあと仕事がしたいから、予定に名前を書いてる。そこは、のあが決めることじゃなくて、私たちが決めること」
のあは、箸を置いた。
何か言おうとして、何も出てこなかった。代わりに、ハンバーグの最後の一切れを口に入れた。
噛んでいるあいだ、誰も急かさなかった。
「……メッセージ、取り消します」
「うん」
千晴が、テーブルの下で小さく拳を握った。
*
「それでね。一つ、考えてきたことがあるの」
食後のコーヒーが来たところで、紗月が鞄から紙を一枚出した。
「クランを作らない? 四人で。代表は、のあ」
のあは、カップを持ち上げかけて止めた。
「……私が、代表ですか」
(話がでかくなってる。休むって話じゃなかったのか)
「鋼翼の話、ずっと『所属を決めていただけるなら』だったでしょう。のあがもう、自分のクランの代表なら、その話は最初から成り立たない」
「窓口は、どうするんですか。勧誘も、依頼も、全部代表に来ます」
「そこは私がやる。連絡と予定は今もやってるし。のあには、どの仕事を受けるか、どう倒すか、どこで引き返すか。それを決めてほしい」
紗月は紙を裏返した。何も書いていない。
「条件は、四人で書こう。鋼翼の紙は、向こうが全部書いてきたけど。これは、一行目から私たちで決めていい」
のあは白い紙を見た。
昨日、榊が滑らせてきた分厚い契約書を思い出す。第九条、第十一条、第十四条。
(一行目から、か)
カウンターから、まさねぇがボールペンを四本持ってきた。
「はい。うちの伝票用だけど、書けるわよ」
「……ありがとうございます」
のあは一本取って、紙の一行目に書いた。
一人で潜る日は残す。
紗月がうなずいた。真帆が二行目に書く。
財布は別。共同の仕事の分だけ、受ける前に分け方を決める。
「予定が変わるときは、早めに連絡」
紗月が三行目。
「嫌な依頼は、断っていい」
のあが四行目を書いた。それから、少し考えて、五行目を足した。
どこへ行くにも、誰と潜るにも、誰の承認もいらない。
三人とも、その行を読んで、何も言わなかった。千晴だけが、小さく笑った。
「じゃあ、私も。撮影は、撮る前に聞く」
千晴は六行目を書いて、ペンを止めなかった。
週に一回は、みんなでご飯。
「……それ、条件ですか」
「条件」
「嫌なら、断っていいんだよね?」
真帆が、四行目を指さした。
(ずるい。この人たち、全員ずるい)
「……残してください」
千晴が、今度こそ声を出して笑った。
「で、名前なんだけど」
千晴が、別の小さな紙を出した。
野良猫の灯り火。
「却下」
「まだ読み上げてないよ!」
「見えました」
(猫を足すな。増やすな)
「灯り火のままでいいと思う。工房さんも、丸山さんも、その名前で覚えてくれてるから」
紗月が言って、真帆が元の名前に丸をつけた。千晴は小さな紙を引っ込めたが、捨てずに手帳へ挟んだ。
まさねぇが、四人のカップにコーヒーを注ぎ足した。
「あたしたちは、入らないわよ。あたしはSだし、店もあるし、ゴンちゃんたちもそれぞれ組んでるから」
「はい」
「でも、外の相談役なら、なってあげる。紙を読むのはあんたが得意だし、殴るのはあたしが得意。調べるのはミレイ、盾はゴンちゃん」
まさねぇの端末が鳴った。画面を見て、まさねぇが吹き出した。
「ミレイから。『切り抜きの件、証拠はまとめて相原さんに送っておいたわ。相談料は、野良猫のほっぺの写真一枚でいいわよ』ですって」
「払いません」
「ゴンちゃんからも来てるわ。『盾が要るときは、いつでも呼んでね』。あと、『頼まれてた無地のお財布、できたわよ。隅っこに、ちっちゃく猫がいるけど』ですって」
「……隅なら」
(無地って言っただろ。……隅なら、まあ)
*
紗月が、協会の登録用紙を出した。
活動の内容、担当、連絡先。四人で決めたことを、一つずつ写していく。窓口は紗月。記録と会計は真帆。物資と撮影は千晴。
最後に、一番上の欄が残った。
代表者。
紗月が、用紙をのあの前へ滑らせた。
のあはペンを持った。
名字を書く欄がある。のあは、そこを空けたまま、名前の欄にだけ書いた。
のあ。
配信の登録をしたときと、同じ二文字だった。




