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第26話 リベンジ

「――配信、始めます。北管理区、中層の再調査です」


 入口の石段で小声で言うと、ゴーグルの端の数字が、見たことのない跳ね方をした。


『来た』


『再調査って、あの猫?』


『リベンジだ』


『肩は治ったの?』


『今日ドローンなし?』


「ありません。見つかるので」


『いつもの』


『いつもので安心した』


(安心するところか、そこ)


 柱の林は、一か月前と何も変わっていなかった。まばらな光る苔。根元に溜まった深い影。風が抜けるたびに鳴る、低い笛のような音。


 左肩の三本の線が、服の下でかすかに突っ張った。


 のあは、四つ目の印の岩棚に上がった。


 同じ場所。同じ高さ。一か月前、ここで二発外して、肩を持っていかれた。


『同じ場所……』


『わざと?』


「わざとです。ここにいると、来てくれるので」


(来てもらわないと困る。今日は、こっちが待ってたんだ)


 闇をまとい、《隠密》で沈む。魔銃を闇から引き出して、膝に置いた。


 画面が、真っ黒になった。


『この黒さ、今日は怖い』


『寝ないで見る』


 *


 待ったのは、四十分だった。


『左奥。柱の根元。二つ光った』


 常連の一行。


 のあは、目だけを動かした。


 金色の影が、柱の陰からゆっくり歩み出てきた。斑点のある毛並み。頭の上で別々に動く、二枚の大きな耳。


 一か月前より、少しだけ痩せていた。立入が止まっていたあいだ、獲物がいなかったのだろう。


(腹、減ってるか。……俺もだよ。帰ったら肉を食う)


 距離は、六十メートル。


 のあは魔銃を上げ、照準を耳と耳の間に置いた。


 息を吸う。吐く。吐き切る――


 猫が、跳んだ。


 のあは、撃たなかった。


 指は、最初から引き金にかかっていなかった。猫は隣の柱の陰へ消え、耳の先だけを出して、こちらを向いた。


『撃たない?』


『今のわざと?』


(聞いたな。よし。お前の耳は、ちゃんと俺の息を覚えてる)


 のあは、もう一度同じ息をした。吸って、吐いて、吐き切る。猫はまた跳んだ。


 三度目で、猫は跳ばなかった。耳を伏せて、低く唸った。撃ってこない相手に、苛立っている。


 耳の先が、陰に消えた。


 足音は、しない。


(来る)


『右! 下の柱! 登ってる!』


 一か月前と、同じ一行だった。


 今度は、読み終えるだけの時間があった。


「助かります」


 のあは、魔銃を闇へ落とした。代わりに、腰の短刀を抜いた。


 岩棚の上に、自分と同じ形のミラージュを置く。膝をついて、魔銃を構えた姿のまま。


 本物ののあは、幻の真後ろへ、影ごと滑った。


 それから、短刀を左へ振った。


 闇をまとった飛刃が、音もなく空を渡った。十数メートル先の、柱の林の左端。突き出た岩の角に当たる。


 硬い、鋭い音が、柱の間に反響した。


 右下の暗がりで、登っていた気配が止まった。


 耳が、左を向いたのが分かった。音のしたほうへ。のあの息から、一瞬だけ離れて。


(そっちは、岩だよ)


 のあは、もう一度左へ振った。二つ目の岩の角が鳴る。三つ目。音のする場所を、少しずつ奥へずらしていく。


 猫の気配が、迷っていた。


 息の音はどこだ。さっきまで、ここにいた。岩が鳴っている。あれは何だ。


 のあは、幻の背中に重なったまま、息をした。


 吸って。吐いて。吐き切る。


 一か月前と、同じリズムで。


 岩棚の縁に、金色の前脚がかかった。


 猫が、跳び上がってきた。


 至近距離。耳で聞き取った息の出どころに、ちょうど、魔銃を構えた小さな影がいる。猫の目が、それを捉えた。


 爪が、振り下ろされた。


 幻の肩から胸へ、三本の爪が走った。一か月前、のあの肩を裂いたのと同じ軌道。


 闇が、散りかけた。


 猫の前脚が、振り下ろしきっていた。


(正面に立たない。見せない。当てさせない)


 のあは、幻の背中へ短刀を振った。


 闇の飛刃が、散りかけた幻の中へ吸い込まれ、胸から抜け出した。


 振り下ろしたばかりの、猫の両の前脚へ。


 手応えは、なかった。刃は飛んでいくものだから。


 ただ、猫の体が、前へ崩れた。


 前脚の付け根から先が、体を支えなかった。着地するはずの岩棚に、顎から落ちる。そのまま勢いで縁を滑り、岩棚の下へ転がり落ちた。


 鈍い音がした。


『え』


『今の何』


『幻の中から何か出た』


『脚! 前脚いった!』


 幻が消えた。


 のあは、岩棚の縁に立った。


 下で、猫がもがいていた。後ろ脚だけで地面を蹴り、柱の陰へ這い込もうとしている。耳だけが、まっすぐ、のあのほうを向いていた。


 のあは、闇から魔銃を引き出した。


 構える。照準を、耳と耳の間に置く。


 闇の魔弾を込めた。一番濃いものを。


 息を吸った。


 吐いて、吐き切った。


 猫の耳が、ぴくりと動いた。


(聞こえてるだろ。……もう、跳べないだろ)


 撃った。


 小さな、湿った音がした。


 猫の体が、一度だけ大きく震えた。撃ち込んだ闇が、内側へ染みていく。耳が、ゆっくりと伏せられた。


 それから、二度と動かなかった。


 *


 コメントが、読めなくなった。


『うおおおおおお』


『倒した!!!』


『一撃』


『最後の一発、わざと息吐き切ってたよな』


『聞かせてから撃った』


『容赦ねえ……』


『幻を斬らせて、幻の中から斬った??』


『忍者だろこれ』


『いや、クノイチだろ』


『クノイチ』


『クノイチだ』


 のあは、岩棚の上で銃口を下ろさなかった。柱の林の奥を、耳で探る。風の笛の音だけが鳴っている。


「……討伐、しました」


 声が、少しかすれた。


『おめでとう』


『おかえり、のあちゃん』


『一か月待った』


『右の柱教えた人、今日は間に合った』


『俺の目、今日はちゃんと役に立った……』


(……ああ。ちゃんと、間に合ってたよ)


 ゴーグルの隅の数字を見た。


 視聴者、六万八千二百十一人。


(……は?)


 鳴海の部屋のときの、三倍を超えていた。


『トレンドに「クノイチ」入ってる』


『野良猫、クノイチになる』


『二つ名が増えた』


(入れるな。……いや、止められないのは知ってる)


 *


 出口の明かりへ坂を上ると、一か月前と同じ係員が立ち上がった。


 今度は、救護を呼ばれなかった。


 その後ろに、人が並んでいた。


 左に、紗月と真帆と千晴。右に、まさねぇと、ゴンちゃんと、ミレイと、ルカ。二つの組の間に、微妙に一人分の隙間が空いている。お互いに会釈をしたらしい角度のまま、どちらも少しぎこちなかった。


(……なんで両方いる)


 のあの足が、坂の途中で止まった。


 千晴が、真っ先に駆けてきた。手に紙袋を持っている。湯気が、袋の口から立ちのぼっていた。


「おかえり、のあちゃん! はい、肉まん。そこの売店で、一番大きいの」


「……いただきます」


 受け取ってしまった。


 熱い。一口かじると、肉汁が口の中にあふれた。四十分待って、一発撃って、坂を上ってきた体に、それが落ちていく。


「見てたよ」


 紗月が言った。いつもどおりの、低い落ち着いた声だった。


「最後まで、見てた」


「……はい」


 真帆は、端末を胸に抱えていた。


「のあ。息、わざと聞かせてたでしょ。あとで、あそこ、ゆっくり教えて」


「……時間があるときなら」


 右のほうで、まさねぇが腕を組んでいた。


「ちょっと。帰ってきたら何が食べたいか、考えときなさいって言ったでしょ」


「……肉まん、もうもらいました」


「あら」


 まさねぇの眉が、下がった。千晴のほうを見て、それから紙袋を見て、それから、のあを見た。


「……いいわ。夜は夜で、うちに来なさい。二つ食べられるでしょ、あんた」


「食べられます」


 即答すると、ゴンちゃんが大きな体を揺らして笑った。ルカが、千晴のほうへ小さく手を振っている。千晴が、手を振り返した。


 ミレイだけが、端末の画面を見ていた。


「ほらね。一晩どころか、一時間で広まったわ」


(仕掛けた側の顔をするな)


 *


 報告は、管理区の窓口で一行で済んだ。


 討伐の報酬、残りの百八十万円。前回の四十万と合わせて、二百二十万円。


 明細を見た瞬間、口元が緩んだ。今日は、隠さなかった。


「のあちゃん。……じゃなかった、のあさん」


 窓口の田村さんが、丸い眼鏡の奥で、困ったように笑っていた。


「これ、渡しとくわね」


 受付台の上に、紙の束が置かれた。


 どさり、と音がした。


「クランからの面談のご依頼。配信が終わってから、一時間で、十九件」


「……十九」


(一時間で十九。……前の職場で打ったどの広告より、反響が早い)


 束の一番上の紙に、翼の形の紋章が印刷されていた。


 田村さんは、束の横に、もう一つ空の箱を置いた。


「たぶん、明日の朝には、これじゃ足りないと思うの」

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