第25話 クノイチ
闇をまとわせた刃は、ほとんど見えなかった。
夜のジムで、のあは誰もいないマットの端に立っていた。まさねぇが来る前の、三十分だけの自主練習だ。
短刀を振る。飛刃を放つときに、刃の周りへ薄く闇を巻く。
飛んでいく三日月は、蛍光灯の下でも、影が一枚床を滑っていくようにしか見えなかった。壁際に立てたクッションの的に、音もなく細い切れ目が入った。
(光らなければ、見えにくい。これで一つ)
次に、ミラージュを出した。自分と同じ形の影を、的と自分の間に立たせる。
まず、闇を巻かない、光る飛刃を放ってみた。
刃は幻の背中を切り裂いた。裂け目から闇がほどけ、幻は霧のように散った。刃は勢いを失って、的の手前で消えた。
(だめか。光の刃は、幻を壊すだけだ)
のあは、もう一度幻を立たせた。
今度は、幻の背中めがけて、闇の飛刃を放った。
刃は幻に吸い込まれた。一瞬、どこにも見えなくなった。それから、幻の胸のあたりから、同じ速さで抜け出して、的に当たった。
のあは、今見たものを、頭の中でもう一度たどった。
(幻は、闇だ。闇をまとった刃は、闇の中を素通りする。……外から見たら、幻の体の中から、いきなり刃が出てくる)
もう一度やった。今度は、幻の位置を的に近づけた。刃が幻から出てから的に当たるまで、ほとんど間がなかった。
(相手が、幻を攻撃する。攻撃し終わった腕と体は、すぐには戻らない。……その、戻らない間に、幻の中から刃が来る)
のあは、短刀を握り直した。
「あら、早いわね」
入口で、まさねぇの声がした。
その後ろに、ゴンちゃんとミレイとルカが続いていた。
「見せに来たんでしょ。宝珠の分」
ミレイが、壁際のベンチに腰を下ろした。
*
「一回目は、普通にやります」
のあは、まさねぇの五歩手前に立った。
短刀を振り、光る飛刃をまっすぐ放つ。
まさねぇは、首を少し傾けただけだった。三日月は、その耳の横を抜けて、壁のクッションに刺さった。
「見えるわね。速いけど、見えたら避けられるわ」
ミレイと、同じことを言った。
「二回目は」
のあは、息を一つ吸った。
「全部、使います」
まさねぇが、つま先をマットに置き直した。空気が、変わった。
のあは、闇をまとった。
《隠密》で沈む。同時に、自分の形のミラージュを、まさねぇの正面へ押し出した。幻は、のあがいつも踏み込むときと同じ低い姿勢で、短刀を構えている。
本物ののあは、幻の真後ろにいた。まさねぇから見て、幻の影にぴたりと重なる場所。
(正面に立たない。見せない)
幻が、踏み込んだ。
まさねぇの手が、動いた。手首を取りにいく、いつもの速すぎる手。今日は、手のひらで幻の胸を打ち抜いた。
闇が、散りかけた。
まさねぇの腕が、伸びきっていた。
(今)
のあは、幻の背中へ向けて、短刀を振った。
闇の飛刃が、幻の中へ吸い込まれた。
散りかけた幻の胸から、黒い三日月が抜け出した。まさねぇの伸びきった腕の内側を通り、喉元へ。
まさねぇの目が、見開かれた。
体を引こうとする。けれど、打ち抜いた腕の分だけ、重心が前にあった。
のあは、刃にまとわせた闇を、ほどいた。
三日月は、まさねぇの喉の、指一本手前で消えた。
遅れて、風が来た。まさねぇのシャツの襟が、ふわりと持ち上がって、落ちた。
ジムの中が、静まり返った。
壁際で、ゴンちゃんの編み棒が止まっていた。ルカは、口を半分開けたまま固まっている。
のあは、幻が消えた場所に立っていた。短刀を下ろして、まさねぇを見上げた。
「……届きました」
まさねぇは、しばらく動かなかった。
それから、自分の喉に手を当てた。襟のボタンの横に、髪の毛ほどの細い切れ目が一本入っていた。
「……届いたわね」
声が、震えていた。
「届いたじゃない、あんた!」
まさねぇが、両腕を大きく広げた。
のあは、反射的に一歩下がった。
まさねぇの腕が、宙で止まった。のあの前で、行き場をなくして、ぱたぱたと空を叩く。
「ああもう、抱きしめたい! でもだめなのよね! 知ってるわよ!」
まさねぇは、くるりと向きを変えた。ベンチのゴンちゃんに、そのまま飛びついた。
「ゴンちゃん! 見た!? あの子、あたしに届いたのよ!」
「見たわよぉ。すごかったわねぇ」
ゴンちゃんは、編みかけのマフラーを頭上に避難させながら、大きな体でまさねぇを受け止めていた。
(……代わりに抱きしめられてる)
「えっぐ……」
ルカが、やっと口を閉じた。
「今の、俺だったら首飛んでたよな。寸止めじゃなかったら」
「ルカには、やりません」
「さっきから『やりません』ばっかり言うの、逆に怖いんだけど」
ミレイは、ベンチに座ったまま、ゆっくり手を叩いていた。
「合格ね」
短く言った。
「遠くは魔銃と闇の魔弾。近くに来たら、幻で釣って、隠れて、幻ごと斬る。相手が攻撃し終わったあとでも、刃が届く」
ミレイは、爪の先で顎をなぞった。
「狙撃手が、近接で暗殺者になったわね。完全に」
*
ゴンちゃんから離れたまさねぇが、目元を指で拭っていた。
「泣いてるんですか」
「泣いてないわよ。汗よ」
(一滴もかいてなかっただろ、さっきまで)
のあは、自分の短刀を見下ろした。
遠くでは、隠れて、一発で撃つ。近くでは、隠れて、幻を立たせて、幻の中から斬る。黒い服に、闇に、短刀。
(……これ)
どこかで見た気がした。前世の本棚の、どこかの棚で。
「……私は、忍者か?」
思わず、口から出ていた。
まさねぇが、ぱっと振り向いた。目元はまだ赤いのに、顔はもう満面の笑みだった。
「クノイチよ」
即答だった。
のあは、口を開けた。
(確かに。……女だし。黒いし。隠れるし。刃を飛ばすし)
一つずつ数えて、全部当てはまってしまった。
(……いや、色仕掛けはしないからな!)
「あら、いいじゃない。クノイチ」
ゴンちゃんが、編みかけのマフラーを抱えてにこにこしていた。
「黒い毛糸で、頭巾でも編んであげましょうか」
「いりません」
「クノイチねえ」
ミレイが、端末を取り出して何か打ち込んでいた。
「配信のコメントで、もう『忍者』って言われてたでしょ。次にあの猫を仕留めたら、その呼び名、たぶん一晩で広まるわよ」
「広めないでください」
「あたしは広めないわ。勝手に広まるのよ。そういうものなの」
(前の職場で、それを仕掛ける側だったから、よく知ってる。……止められないやつだ、それ)
*
夜食は、店のカウンターで、まさねぇが作った親子丼だった。
のあが二杯目に手をつけたころ、ミレイがグラスを揺らしながら言った。
「で、息の癖はどうするの。一か月じゃ、十年の癖は抜けないわよ」
「……抜きません」
のあは、箸を止めた。
「読まれるなら、読ませます。向こうが聞きたいリズムを、こっちで聞かせてやればいい」
ミレイが、グラスを止めた。
それから、にやりと笑った。
「性格が悪いわね。大好きよ、そういうの」
カウンターの上で、のあの端末が震えた。
相原からだった。
『北管理区中層のサーチブルキャットについて、立入制限の解除に合わせ、再調査と討伐の指名を再開します。ご都合のよい日を教えてください』
のあは、画面を見つめた。
左肩の三本の線が、服の下で、かすかに熱を持った気がした。
カウンターの向こうで、まさねぇが画面をのぞき込んでいた。何も言わずに、丼の横へ温かいお茶を置く。
「……行くのね」
「行きます」
「そ。じゃあ、帰ってきたら、何が食べたいか考えときなさい」
のあは、親子丼の残りをかき込んでから、返信欄を開いた。
『明後日で』




