↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/30

第23話 癖になるわねぇ

「はい、腕出して」


 ジムの壁際のベンチで、まさねぇが救急箱を開けた。


 のあは、マットからベンチまで、半分這うようにしてたどり着いたところだった。座っているだけで、太ももが震えている。


「……自分で、やります」


「その手で?」


 言われて、自分の右手を見た。湿布の袋をつまもうとして、指がうまく閉じなかった。


(握力が、残ってない)


 のあは、黙って腕を差し出した。


 まさねぇは、のあの二の腕の赤くなったところに、冷たい湿布を貼った。次は肘。肩の、縫い痕のすぐ上。手つきは、驚くほど丁寧だった。布の上から、痛まない強さでそっと押さえる。


(……手当てだ。これは、手当て。触られてるんじゃない)


 のあは、目の前の床の一点を見ていた。


 湿布を貼るたびに、まさねぇの鼻歌が聞こえた。店でよく流れている、古い歌謡曲だった。


「ここも赤いわね。背中の、肩甲骨のとこ。三十回目くらいで落ちたときのでしょ」


「……たぶん」


「ふふ」


 まさねぇが、湿布の端を指でなでつけた。


 それから、ふと手を止めた。


「なんかねぇ」


 のあは顔を上げた。


 まさねぇは、頬に手を当てていた。蛍光灯の下で、ほんのり赤くなっている。


「なんか、癖になるわねぇ」


「…………」


 のあの肩が、小さく震えた。


 寒いわけではない。疲れのせいでもない。背中の芯から、ぶるぶると細かい震えが上がってきて、止まらなかった。


(投げて、転がして、それから手当てして。……それが、癖になる?)


 まさねぇは、うっとりした顔のまま、次の湿布を剥がしている。


(特訓相手、間違えたか?)


「なぁに、震えて。寒い?」


「……寒くないです」


「そう。じゃ、次は足ね」


 のあは、足を出さなかった。


 出さなかったが、結局、全部貼られた。


 *


 日付が変わるころ、バー・マーサのカウンターに、オムライスが置かれた。


 閉店後の店に、客はいなかった。卵の上に、ケチャップで小さく猫の顔が描いてある。


「……これは」


「頑張ったご褒美よ」


 まさねぇは、まだ鼻歌を歌っていた。さっきの歌謡曲の続きだった。


 のあは猫の顔を、スプーンで真っ二つにした。


 一口食べると、バターの匂いが鼻に抜けた。卵の下のご飯は、鶏肉がごろごろ入っている。二時間転がされた体に、それが落ちていった。


(……うまい。くそ)


 気づいたら、皿の半分が消えていた。


「おかわりあるわよ」


「……いただきます」


(投げられて、手当てされて、食わされる。……癖になりそうなのは、こっちかもしれない)


 のあは、その考えを二杯目のオムライスと一緒に飲み込んだ。


 *


 特訓は、毎晩続いた。


 二十二時にジムへ行き、二時間転がされる。湿布を貼られる。店へ連れていかれ、夜食を食べさせられる。帰って寝る。翌日の昼に、依頼を一つだけ受ける。


 五日目の夜、ジムの扉を開けると、見物人が三人いた。


「あら、来た来た。野良猫ちゃん」


 壁際のベンチに、ミレイが脚を組んで座っていた。細身の体に、隙のない黒い服。爪の先まで手入れが行き届いている。


 その隣で、ゴンちゃんが大きな体を縮めて、編み物をしていた。膝の上に、毛糸の玉が三つ転がっている。


「のあちゃん、おつかれさまぁ。まさねぇから、毎晩転がってるって聞いたのよ」


(転がされてる、が正しい)


「俺は止めたんだよ。見物なんて悪趣味だって」


 入口の近くで、ルカが頭をかいた。バー・マーサで働いている、のあより四つ上の青年だ。


「でも気になるじゃん。のあが近接の特訓って」


「……止めてないですよね、それ」


「止めた。一回は」


 まさねぇが、奥から手を叩いた。


「ちょうどいいわ。今日は、相手を変えましょ。あたしばっかりじゃ、あたしの癖しか覚えないもの」


 *


 最初は、ゴンちゃんだった。


 編み物を置いて立ち上がると、ジムの天井が低く見えた。練習用の大盾を片手で持ち上げる。持ち手には、毛糸で編んだ花柄のカバーが巻いてあった。


「アタシは受けるだけね。好きに来て」


 のあは、盾の右から回った。盾がついてきた。左へ。ついてくる。下から潜る。盾の縁が、もうそこにあった。


 五分かけて、一度も盾の向こうへ刃が届かなかった。


「抜けないです」


「抜けたら、アタシの仕事がなくなっちゃうもの」


 ゴンちゃんは、大盾の陰でにこにこしていた。


 次は、ミレイだった。


「あたしは、避けるだけにしてあげる」


 速かった。


 のあが踏み込むと、ミレイはもう半歩外にいた。刃の届かない場所へ、するりと抜けていく。追えば追うほど、自分の足がもつれた。


 六回目の空振りのあと、額を指で弾かれた。


「遅い。あと、あなた、追うときに顎が上がるのよ。可愛いけど」


(可愛いは要らない)


 最後は、ルカだった。


「俺は、普通にやるよ。ランク、下だし」


 ルカは、練習用の木の短剣を構えた。


 今度は、届いた。届かれもした。のあの刃がルカの袖をかすめ、ルカの木剣がのあの肩を叩く。二人で転んで、二人で起き上がった。


「互角じゃない?」


「……ルカ、Cですよね」


「Cだよ。のあ、Aだよね」


 ルカが、悪気のない顔で笑った。


(近接だけなら、Cと互角。……数字にされると、効くな)


 *


 まさねぇが、のあの前に立った。


「じゃあ、仕上げ。あたしから、三つだけ言うわね」


 指を一本立てる。


「当てさせない」


 二本目。


「見せない」


 三本目。


「正面に立たない」


 まさねぇは、指を下ろした。


「あんたは、刃で勝とうとしてるのよ。刃なんて、最後に一回当たればいいの。その前の全部で、勝ちなさい」


 のあは、三本の指があった場所を見ていた。


(当てさせない。見せない。正面に立たない)


 頭の中で、同じ言葉を繰り返した。


(見せない。……隠れること、だよな)


 それなら、ずっとやってきた。岩棚の上で、闇をまとって、何時間でも。


(正面に立たない。……相手の前に、俺じゃない何かを立たせる)


 ミラージュ。


 あの猫には、効かなかった。耳で追われたから。


 けれど、あの猫も、跳びかかる一瞬だけは、闇で目を塞いだら鈍った。至近距離では、耳だけじゃなく目も使う。まさねぇだって、毎回のあの足を見ていた。


(……俺は、なんで、近接になった途端に、自分の武器を全部置いてきてたんだ)


 遠くから撃つときは、隠れて、幻を立たせて、弾を曲げる。近くに来られた瞬間、短刀一本の、普通の探索者に戻っていた。


「まさねぇ」


「なあに」


「闇、使ってもいいですか」


 まさねぇの口元が、ゆっくり上がった。


「やっと言ったわね」


(……分かってて、黙ってたのか)


「いいわよ。全部、使いなさい」


 *


 のあは、短刀を抜いた。


 まさねぇが、つま先をマットに置き直す。


 のあは、正面から踏み込んだ。


 まさねぇの手が、のあの手首へ伸びる。いつもどおりの、速すぎる手。


 その手が、闇の塊をつかんで、空を切った。


 踏み込んだのは、のあの形をしたミラージュだった。本物は、半歩手前で《隠密》に沈み、まさねぇの左へ滑っていた。


「――あら」


 まさねぇの声が、初めて少しだけ高くなった。


 のあの刃は、それでも届かなかった。まさねぇは振り向きざまに、のあの手首を押さえていた。


 けれど、今度は、投げられなかった。


 押さえられたまま、二人とも止まっていた。


「……かわした」


 のあは、自分の足元を見た。まさねぇの一撃が来た場所に、自分はいなかった。


 特訓を始めて、初めてだった。


「かわされたわね」


 まさねぇが、手を離した。頬が、また少し赤い。


「ちょっと、今の、もう一回やって。……いえ、やっぱり明日。あたし、今ちょっと嬉しすぎて、手加減間違えそう」


(間違えたら、どうなるんだ)


 壁際で、ゴンちゃんが編み物の手を止めて拍手していた。ルカは口を開けていた。


 ミレイだけが、脚を組んだまま、のあの短刀を見ていた。


「かわすのは、形になってきたわね」


 ミレイは、爪の先で顎をなぞった。


「でも、そのあとが刃一本じゃ、まさねぇどころか、あの猫にも届かないわよ。懐に入る前に、首を持っていかれるわ」


「……はい」


「近接の決め手が、もう一つ欲しいわね」


 ミレイは、つまらなそうに息をついた。


「宝珠でも出ればいいけど」

【アニメのお知らせ】


『TS狙撃少女のダンジョン配信』のアニメ第1話「少し、寄り道します」をYouTubeで公開しました!

https://youtu.be/5vZrNvTj3uc


【コミックのお知らせ】


黒瀬編の漫画も公開中です。

https://a-i-manga.com/series/YVeQdexb


のあの幼少期を描いた漫画『四歳の俺は、ひとりで生きる』も公開中です。

本編より12年前、4歳ののあのお話です。

https://a-i-manga.com/series/b2QztTn4


よろしければ、アニメや漫画でものあの物語をお楽しみください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。