第23話 癖になるわねぇ
「はい、腕出して」
ジムの壁際のベンチで、まさねぇが救急箱を開けた。
のあは、マットからベンチまで、半分這うようにしてたどり着いたところだった。座っているだけで、太ももが震えている。
「……自分で、やります」
「その手で?」
言われて、自分の右手を見た。湿布の袋をつまもうとして、指がうまく閉じなかった。
(握力が、残ってない)
のあは、黙って腕を差し出した。
まさねぇは、のあの二の腕の赤くなったところに、冷たい湿布を貼った。次は肘。肩の、縫い痕のすぐ上。手つきは、驚くほど丁寧だった。布の上から、痛まない強さでそっと押さえる。
(……手当てだ。これは、手当て。触られてるんじゃない)
のあは、目の前の床の一点を見ていた。
湿布を貼るたびに、まさねぇの鼻歌が聞こえた。店でよく流れている、古い歌謡曲だった。
「ここも赤いわね。背中の、肩甲骨のとこ。三十回目くらいで落ちたときのでしょ」
「……たぶん」
「ふふ」
まさねぇが、湿布の端を指でなでつけた。
それから、ふと手を止めた。
「なんかねぇ」
のあは顔を上げた。
まさねぇは、頬に手を当てていた。蛍光灯の下で、ほんのり赤くなっている。
「なんか、癖になるわねぇ」
「…………」
のあの肩が、小さく震えた。
寒いわけではない。疲れのせいでもない。背中の芯から、ぶるぶると細かい震えが上がってきて、止まらなかった。
(投げて、転がして、それから手当てして。……それが、癖になる?)
まさねぇは、うっとりした顔のまま、次の湿布を剥がしている。
(特訓相手、間違えたか?)
「なぁに、震えて。寒い?」
「……寒くないです」
「そう。じゃ、次は足ね」
のあは、足を出さなかった。
出さなかったが、結局、全部貼られた。
*
日付が変わるころ、バー・マーサのカウンターに、オムライスが置かれた。
閉店後の店に、客はいなかった。卵の上に、ケチャップで小さく猫の顔が描いてある。
「……これは」
「頑張ったご褒美よ」
まさねぇは、まだ鼻歌を歌っていた。さっきの歌謡曲の続きだった。
のあは猫の顔を、スプーンで真っ二つにした。
一口食べると、バターの匂いが鼻に抜けた。卵の下のご飯は、鶏肉がごろごろ入っている。二時間転がされた体に、それが落ちていった。
(……うまい。くそ)
気づいたら、皿の半分が消えていた。
「おかわりあるわよ」
「……いただきます」
(投げられて、手当てされて、食わされる。……癖になりそうなのは、こっちかもしれない)
のあは、その考えを二杯目のオムライスと一緒に飲み込んだ。
*
特訓は、毎晩続いた。
二十二時にジムへ行き、二時間転がされる。湿布を貼られる。店へ連れていかれ、夜食を食べさせられる。帰って寝る。翌日の昼に、依頼を一つだけ受ける。
五日目の夜、ジムの扉を開けると、見物人が三人いた。
「あら、来た来た。野良猫ちゃん」
壁際のベンチに、ミレイが脚を組んで座っていた。細身の体に、隙のない黒い服。爪の先まで手入れが行き届いている。
その隣で、ゴンちゃんが大きな体を縮めて、編み物をしていた。膝の上に、毛糸の玉が三つ転がっている。
「のあちゃん、おつかれさまぁ。まさねぇから、毎晩転がってるって聞いたのよ」
(転がされてる、が正しい)
「俺は止めたんだよ。見物なんて悪趣味だって」
入口の近くで、ルカが頭をかいた。バー・マーサで働いている、のあより四つ上の青年だ。
「でも気になるじゃん。のあが近接の特訓って」
「……止めてないですよね、それ」
「止めた。一回は」
まさねぇが、奥から手を叩いた。
「ちょうどいいわ。今日は、相手を変えましょ。あたしばっかりじゃ、あたしの癖しか覚えないもの」
*
最初は、ゴンちゃんだった。
編み物を置いて立ち上がると、ジムの天井が低く見えた。練習用の大盾を片手で持ち上げる。持ち手には、毛糸で編んだ花柄のカバーが巻いてあった。
「アタシは受けるだけね。好きに来て」
のあは、盾の右から回った。盾がついてきた。左へ。ついてくる。下から潜る。盾の縁が、もうそこにあった。
五分かけて、一度も盾の向こうへ刃が届かなかった。
「抜けないです」
「抜けたら、アタシの仕事がなくなっちゃうもの」
ゴンちゃんは、大盾の陰でにこにこしていた。
次は、ミレイだった。
「あたしは、避けるだけにしてあげる」
速かった。
のあが踏み込むと、ミレイはもう半歩外にいた。刃の届かない場所へ、するりと抜けていく。追えば追うほど、自分の足がもつれた。
六回目の空振りのあと、額を指で弾かれた。
「遅い。あと、あなた、追うときに顎が上がるのよ。可愛いけど」
(可愛いは要らない)
最後は、ルカだった。
「俺は、普通にやるよ。ランク、下だし」
ルカは、練習用の木の短剣を構えた。
今度は、届いた。届かれもした。のあの刃がルカの袖をかすめ、ルカの木剣がのあの肩を叩く。二人で転んで、二人で起き上がった。
「互角じゃない?」
「……ルカ、Cですよね」
「Cだよ。のあ、Aだよね」
ルカが、悪気のない顔で笑った。
(近接だけなら、Cと互角。……数字にされると、効くな)
*
まさねぇが、のあの前に立った。
「じゃあ、仕上げ。あたしから、三つだけ言うわね」
指を一本立てる。
「当てさせない」
二本目。
「見せない」
三本目。
「正面に立たない」
まさねぇは、指を下ろした。
「あんたは、刃で勝とうとしてるのよ。刃なんて、最後に一回当たればいいの。その前の全部で、勝ちなさい」
のあは、三本の指があった場所を見ていた。
(当てさせない。見せない。正面に立たない)
頭の中で、同じ言葉を繰り返した。
(見せない。……隠れること、だよな)
それなら、ずっとやってきた。岩棚の上で、闇をまとって、何時間でも。
(正面に立たない。……相手の前に、俺じゃない何かを立たせる)
ミラージュ。
あの猫には、効かなかった。耳で追われたから。
けれど、あの猫も、跳びかかる一瞬だけは、闇で目を塞いだら鈍った。至近距離では、耳だけじゃなく目も使う。まさねぇだって、毎回のあの足を見ていた。
(……俺は、なんで、近接になった途端に、自分の武器を全部置いてきてたんだ)
遠くから撃つときは、隠れて、幻を立たせて、弾を曲げる。近くに来られた瞬間、短刀一本の、普通の探索者に戻っていた。
「まさねぇ」
「なあに」
「闇、使ってもいいですか」
まさねぇの口元が、ゆっくり上がった。
「やっと言ったわね」
(……分かってて、黙ってたのか)
「いいわよ。全部、使いなさい」
*
のあは、短刀を抜いた。
まさねぇが、つま先をマットに置き直す。
のあは、正面から踏み込んだ。
まさねぇの手が、のあの手首へ伸びる。いつもどおりの、速すぎる手。
その手が、闇の塊をつかんで、空を切った。
踏み込んだのは、のあの形をしたミラージュだった。本物は、半歩手前で《隠密》に沈み、まさねぇの左へ滑っていた。
「――あら」
まさねぇの声が、初めて少しだけ高くなった。
のあの刃は、それでも届かなかった。まさねぇは振り向きざまに、のあの手首を押さえていた。
けれど、今度は、投げられなかった。
押さえられたまま、二人とも止まっていた。
「……かわした」
のあは、自分の足元を見た。まさねぇの一撃が来た場所に、自分はいなかった。
特訓を始めて、初めてだった。
「かわされたわね」
まさねぇが、手を離した。頬が、また少し赤い。
「ちょっと、今の、もう一回やって。……いえ、やっぱり明日。あたし、今ちょっと嬉しすぎて、手加減間違えそう」
(間違えたら、どうなるんだ)
壁際で、ゴンちゃんが編み物の手を止めて拍手していた。ルカは口を開けていた。
ミレイだけが、脚を組んだまま、のあの短刀を見ていた。
「かわすのは、形になってきたわね」
ミレイは、爪の先で顎をなぞった。
「でも、そのあとが刃一本じゃ、まさねぇどころか、あの猫にも届かないわよ。懐に入る前に、首を持っていかれるわ」
「……はい」
「近接の決め手が、もう一つ欲しいわね」
ミレイは、つまらなそうに息をついた。
「宝珠でも出ればいいけど」
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