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第22話 特訓です

 抜糸が済んだのは、十日後の昼だった。


 左肩に、薄い三本の線が残った。腕を回しても、もう引きつれない。


 その夜、まさねぇから届いた地図が示していたのは、店ではなかった。


『二十二時。動ける服で来なさい。ご飯は、そのあと』


(そのあと、か。……先に食わせてくれないのは、初めてだな)


 特訓といっても、構えや足運びを教わるのだろうと思っていた。前世で一度だけ通った護身術の教室のように、手順を一つずつ。


 のあは動きやすい服に着替えて、短刀を腰に差した。


 *


 駅裏の雑居ビルの三階に、格闘技ジムがあった。


 看板の明かりは、もう消えている。扉の前で、ジャージ姿の中年の男が鍵を回していた。


「あんたが、のあちゃんか」


 男は、のあを上から下まで見て、それから少し気の毒そうな顔をした。


「鷹野です。ここの持ち主。まさしさんに頼まれて――」


「まさねぇ、よ」


 奥から、低い声が飛んできた。


 鷹野は肩をすくめて、鍵をのあへ預けた。


「終わったら、郵便受けに入れといて。……俺は帰る。あの人が本気で動くとこ、見たくないんでね」


(見たくないって、何だ)


 鷹野は階段を下りていった。足音が、やけに急いでいた。


 ジムの中は、床一面に青いマットが敷いてあった。壁際に吊るされたサンドバッグが、一つだけ小さく揺れている。


 その真ん中に、まさねぇが立っていた。


 黒い長袖のシャツに、裾を絞ったズボン。裸足。いつものエプロンがないだけで、肩から背中の線がやけに目立った。


「来たわね。肩は?」


「治りました」


「見せなくていいわ。動けば分かるから」


 まさねぇは、のあの腰の短刀を顎で示した。


「今日は、それだけ。闇もなし、銃もなし。隠れるのもなし」


「……短刀は、刃引きのものを」


「本物でいいわよ」


 あっさりと言われた。


「当たらないから」


(言ったな)


 のあは、短刀を抜いた。


 まさねぇは、構えなかった。両手を下ろしたまま、つま先だけを軽くマットに置き直した。


 それだけで、空気が変わった。


 声も、表情も、いつもどおりだった。けれど、立っている場所から、目が離せなくなった。どこに踏み込んでも、先にそこに何かが置かれている。そういう立ち方だった。


(……これが、S)


 店でグラスを拭いている人と、同じ体とは思えなかった。


「いつでもいいわよ。かかってらっしゃい」


 *


 一回目は、まっすぐ行った。


 距離は三歩。のあの足なら、一瞬で詰められる。低く入り、脇腹へ刃を送る。


 手首を、取られた。


 そう思ったときには、天井が見えていた。背中からマットに落ちる。息が、肺から全部押し出された。


「はい、一回」


 まさねぇは、もう元の場所に立っていた。


(……何をされた?)


 二回目は、右へ回った。正面を外して、横から。


 まさねぇの体が、のあより先に右を向いていた。踏み込んだ足を払われ、のあは横向きに転がった。


「二回」


 三回目は、刃を逆手に持ち替えて、突くと見せて払った。


 払った腕の内側に、まさねぇの肘があった。軽く当てられただけで、腕ごと体が流れる。流れた先で襟をつかまれ、投げられた。


「三回。あんたね」


 まさねぇは、しゃがんで、のあの顔をのぞき込んだ。


「刺す前に、刃先がこっちを向くのよ。どこを狙ってるか、全部教えてくれてるの。親切ね」


「……」


「それと、息。刺す前に、必ず一回止まる。あの猫が聞いてたの、それでしょ」


 のあは、マットの上で目を見開いた。


(配信、見てたのか。……当たり前か)


「起きなさい。まだ始まったばっかりよ」


 *


 十回を超えたあたりで、数えるのをやめかけた。


 二十回を超えて、また数え始めた。数えていないと、何回目か分からなくなるのが悔しかった。


 短刀は、一度も届かなかった。


 届く前に、手首を取られる。足を払われる。襟をつかまれる。肩を押されて、自分の勢いのまま転がされる。


 まさねぇは、同じことを二度言わなかった。


「正面に立たないの」


「見せない」


「今のは、ちょっとだけ良かったわね。遅いけど」


 投げられるたびに、一言だけ落ちてくる。


 十五回目のあと、のあは目線で嘘をついてみた。右の脇腹を見て、左の膝へ行く。


 左の膝の前に、もうまさねぇの手のひらがあった。


「目で嘘ついても、足が本当のこと言ってるわよ。重心、先に左に乗ってたもの」


(……前の会社の営業部長にも、同じこと言われたな。顔より靴を見ろって)


 二十回目のあと、まさねぇが初めて、自分から動いた。


「一回だけ、こっちから行くわね。よく見てなさい」


 見ていた。瞬きもしなかった。


 なのに、まさねぇがどこから来たのか分からなかった。気づいたときには、握った拳が、のあの鼻先で止まっていた。


 遅れて、風が来た。前髪が、額から跳ね上がる。


 のあは、動けなかった。短刀を持った腕が、構えの途中で固まっていた。


「これが、正面に立つってことよ」


 拳が、ゆっくり引かれた。


「あんたの猫、これの半分くらいの速さだったわ。それでも、あんたは受けるしかなかった」


(半分。……あれで、半分)


 背中を、汗が一筋流れていった。


 鷹野が帰った理由が、少しだけ分かった気がした。こんなものを、店の客に見せられるはずがない。


 襟をつかまれるたびに、のあの体が一瞬こわばった。


(男に、つかまれてる)


 頭の奥で、古い警戒が鳴る。自分から触れないと決めてから、男に体をつかまれたことなど、ほとんどなかった。


(……いや。これは組手だ。特訓だ。頼んだのは、俺だ)


 それに、気づいていた。まさねぇがつかむのは、手首か、襟か、肩の布だけだった。それ以上のところには、一度も触れてこない。投げたあとは、すぐに手を離す。


(我慢しろ。……我慢できる。この人なら)


 のあは起き上がった。


 三十回目で、初めて、まさねぇの袖に刃がかすった気がした。


 気がしただけだった。袖を引かれて、のあの体は宙を半周した。


 受け身を取り損ねて、肩からマットに落ちた。縫ったばかりの傷の、少し上だった。


「……っ」


「今の、痛かったわね」


 まさねぇの声が、少しだけ柔らかくなった。


「やめる?」


「やめません」


 即答だった。自分でも、驚くほど早かった。


 まさねぇは、また笑った。十日前、店で見たのと同じ、目の笑っていない笑顔だった。


「いい子ね」


(褒められてる気がしない。全然しない)


 *


 何回目か、もう分からなくなった。


 のあは短刀を握ったまま、マットの上に仰向けに倒れていた。


 腕が上がらない。足も、動かす気にならない。天井の蛍光灯が、にじんで二重に見えた。


 呼吸だけが、やけにうるさい。


(……一回も。一回も、届かなかった)


 あの猫には、力で押し込まれた。今日は、力で押されたことは一度もなかった。どこへ行っても、先に回られる。刃を向ける前に、行き先を読まれる。


(読まれてる。猫のときと、同じだ)


 視界の端に、まさねぇの裸足が見えた。


 呼吸一つ乱れていない。額に汗も浮いていない。のあの横にしゃがみこんで、頬杖をついた。


「で、何回だった?」


「……三十、七回」


「四十二回よ。途中で数え間違えたでしょ」


(見てたのか、そこまで)


 まさねぇは、のあの手から短刀をそっと抜き取った。刃を一度だけ明かりにかざして、鞘に収める。


「欠けてないわね。いい刃物だわ。持ち主が追いついてないだけ」


「……」


「悔しい?」


「……はい」


「ならいいわ」


 まさねぇは、立ち上がった。


 見上げると、蛍光灯を背にした影が、ひどく大きかった。いつもカウンターの向こうで鍋を振っている人の影と、同じ形をしている。


 その影が、にっこりと笑った。


「今日はここまで。明日もね」


 のあは、返事をしようとした。


 声の代わりに、長い息が一つ、天井へ抜けていった。

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