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第20話 耳のいい獣

「被害に遭ったのは、二週間で四人です」


 面談室の机に、相原が北管理区の地図を広げた。


 異界型ダンジョンの中層。岩の柱が林のように立ち並ぶ区画に、赤い印が四つ打ってある。


「全員、命は助かっています。ただ、一人はまだ入院中です。傷は背中から肩にかけて、大きな爪の痕が三本」


「何にやられたんですか」


「分かりません。誰も姿を見ていないんです」


 相原は、四人分の記録を並べた。所属はばらばらで、ランクもCからBまで散っている。


 共通しているのは、一つだけだった。


「四人とも、射手です。狙撃か、中距離の。襲われたのは、構えて撃とうとしていたとき」


(……撃つ側が、狙われてる)


 のあは、地図の赤い印を目でつないだ。どれも見晴らしのいい岩棚の上だ。自分でも、あそこなら座る。


「協会からの指名です。中層の調査と、原因となる魔物の討伐。調査の報告だけで四十万円。討伐まで済めば、合わせて二百二十万円」


 つい、数字に目が止まった。


(二百二十。……いや、落ち着け。それだけ危ないってことだ)


「のあさんに頼むのが、いちばん安全だと判断しました。隠れて待つ仕事なら、のあさんより上手な人を私は知りません」


「……配信は、してもいいですか」


「記録になるなら、むしろお願いします」


「受けます」


 相原は依頼票に判を押してから、一言だけ付け足した。


「危ないと思ったら、調査だけで戻ってください。それも仕事です」


「はい」


(戻るような相手なら、な)


 *


「――配信、始めます。今日は中層の調査です」


『きた』


『中層って、例の噂のとこ?』


『射手ばっか襲われてるってやつ』


『のあちゃんも射手じゃん』


「だから、呼ばれました」


(囮も兼ねてるんだろうな。分かってて受けたけど)


 柱の林は、思っていたより暗かった。天井の光る苔がまばらで、柱の根元には深い影が溜まっている。風が抜けるたび、どこかで低い笛のような音が鳴った。


 のあは、印のついた場所を一つずつ回った。


 一つ目の岩棚には、乾いた血の跡が残っていた。二つ目では、柱の表面に爪の痕を見つけた。のあの頭よりずっと高い位置から、下へ向かって三本。


(下から来たんじゃない。柱を登って、上から降りてる)


 三つ目の岩棚の隅に、金色の短い毛が数本、引っかかっていた。のあは指でつまみ、明かりにかざした。黒い斑点が混じっている。


『毛?』


『猫っぽくない?』


『犬の毛じゃないな、それ』


「猫、だと思います。大きいですけど」


 毛を小袋に入れて、収納へ落とす。調査の報告は、これで半分は書ける。


(四十万の分は、もう働いた。……残りの百八十万は、ここからだ)


 のあは、四つ目の印がある岩棚に上がった。


 ほかの三か所と同じくらい、見晴らしがいい。柱の林の奥まで、射線が通る。


(ここで待てば、向こうから来る。四人とも、そうやって襲われたんだからな)


 上着の周りへ闇をまとわせ、《隠密》で気配を沈める。魔銃を闇から引き出して、膝の上に置いた。


 画面が、いつもどおり真っ黒になった。


『この暗さ、久しぶり』


『寝る準備完了』


『今日は寝ていいやつじゃない気がする』


 のあは待った。


 一時間。柱の間を、ハウンドドッグの群れが二度通った。撃たずに見送る。狙いは、あれじゃない。


 二時間を過ぎたころ、ゴーグルの端に一行が流れた。


『左奥、柱の根元。なんか光った』


 いつも敵を見つける、あの常連だった。


 のあは目だけを動かした。


 柱の根元の影で、二つの点が、ゆっくり瞬いた。


 影の中から、何かが歩み出てきた。


 猫だった。ただし、のあが知っている猫の三倍では済まない。細長い脚に、斑点の浮いた金色の毛並み。そして、頭の上で大きく開いた二枚の耳。


(サーチブルキャット。……にしては、でかすぎる。変異個体か)


 耳だけで、のあの頭ほどもあった。その耳が、別々の方向へ、小刻みに向きを変えている。


 距離は六十メートル。こちらには気づいていない。


 のあは魔銃を上げた。


 闇の魔弾を込める。照準を、耳と耳の間へ置く。


 息を吸った。


 吐く。吐き切る。


 その底で、指が動く――


 猫が、跳んだ。


 撃つより、ほんの一拍だけ早かった。魔弾は誰もいなくなった地面へ吸い込まれ、猫は隣の柱の陰に消えていた。


(……は?)


『え』


『外した?』


『のあちゃんが?』


(外したんじゃない。撃つ前に、動いた)


 柱の陰から、耳の先だけが覗いていた。二枚とも、まっすぐこちらを向いている。


 のあは次弾を込めた。音は消している。気配も沈めている。見えているはずがない。


 猫が、陰からもう一度顔を出した。


 息を吸う。吐く。吐き切って――


 耳が、ぴくりと動いた。


 猫はまた跳んだ。二発目は、岩の表面を削っただけだった。


(聞いてる)


 背中が冷えた。


(発射音じゃない。その前だ。……俺の、息を聞いてる)


 撃つ前に、息を吐き切る。十年以上続けてきた癖だった。その一定の間を、あの耳は拾っている。


 猫の姿が、柱の林の中へ消えた。


 足音はしない。


『消えた』


『どこ行った』


『こっち来てない?』


 のあは魔銃を引き、岩棚の上で身を低くした。


(位置を変えろ。ここはもう割れてる)


 腰を浮かせた、そのときだった。


『右! 下の柱! 登ってる!』


 常連の一行が流れた。


 読み終える前に、右下の暗がりが膨らんだ。


 のあは魔銃を闇へ落とし、腰の短刀を抜いた。


 金色の塊が、岩棚の縁を越えてくる。振り下ろされた前脚を、刃の腹で受けた。


 重い。


 腕ごと押し込まれ、背中が岩へ打ちつけられる。受けた刃が、爪に沿って滑った。


 左肩が、熱くなった。


(――っ)


 三本の線が、上着ごと肩から二の腕へ走っていた。遅れて、痛みが来る。


 のあは転がって距離を取り、闇を広げた。自分と同じ姿の影を、反対側へ走らせる。ミラージュ。


 猫は、見向きもしなかった。


 耳だけが、幻ではなく、のあの方へ向いていた。


(効かない。目で見てないんだ、こいつ)


 心臓の音まで聞かれている気がした。


 猫が姿勢を低くした。次は、首に来る。


 のあは左手を上げた。猫の顔の前へ、闇を叩きつける。目を塞ぐ。耳は塞げなくても、跳びかかる一瞬だけは目も使うはずだ。


 猫の動きが、わずかに鈍った。


 その隙に、のあは収納の闇へ右手を入れた。探索者用の発煙筒を二本、足元へ転がす。白い煙が噴き上がった。続けて、救難用の鳴り玉を、猫のすぐ横の岩へ叩きつけた。


 甲高い音が、柱の林に反響した。


 猫が、悲鳴のような声を上げて跳び退いた。耳を伏せ、首を振っている。


(今だ)


 のあは岩棚から飛び降り、煙の中を走った。


 振り返らない。


 足音を闇で消し、左腕を体に押しつけて、来た道をひたすら戻る。背中の後ろで、猫の低い唸り声が一度だけ聞こえた。


『逃げて』


『走れ走れ走れ』


『血、出てない?』


『追ってきてる?』


『後ろ、何もいない。たぶん』


 途中の分かれ道で、のあは一度だけ足を止めた。どちらが近かったか、頭の中の地図が一瞬ぶれた。


『左の柱の上! 耳だけ見えた!』


 常連の一行が流れた。


 見上げたときには、柱の上には何もいなかった。煙の残りが、薄く漂っているだけだった。


『ごめん、遅かった』


『いや、今のは誰も間に合わん』


『とにかく出口!』


(ありがとな。……今は、走るしかない)


 右の道を選んだ。柱の林を抜け、上層への坂を駆け上がる。左の指先が、ぬるりと濡れていた。


(健康は、傷までは治してくれない。知ってる。知ってるよ)


 坂の上に、出口の明かりが見えた。


 管理区の係員が、こちらを見て立ち上がった。


 のあは明かりの中へ踏み込んだところで、膝から力が抜けた。


 床に手をつく。左腕が、うまく体を支えなかった。


「救護を!」


 係員の声が、遠くで聞こえる。


 ゴーグルの端では、コメントがまだ流れていた。


 読み取れたのは、一行だけだった。


『のあちゃんが、逃げた』

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