第18話 教えてほしい
動画の中で、真帆が右へ半歩寄った。
紗月が前を横切る。真帆の銃口は一度下がって、紗月が抜けた瞬間に、もう次の的を向いていた。
のあは、再生を止めた。
『三つ目、撃つ前に一度だけ左を見てます。そこはもう見なくていいです』
送信すると、すぐに返事が来た。
『見てた! 癖になってる。次の練習で直す』
その下に、千晴から写真が一枚。
『新しいお店の焼き菓子。のあちゃんの分、とってあるよ』
のあは、写真を拡大してから閉じた。
面談の日から、二週間が経っていた。
その間、仕事部屋には一度も行っていない。真帆の動画には返事をした。千晴の写真にも、たまに返した。護衛の予定は、どの日も合わなかった。本当に合わなかった日と、合わせなかった日があった。
(……行きづらい、わけじゃない。忙しかっただけだ)
オネエ仲間との配信があった。その前後の依頼もあった。嘘ではない。
通知が、もう一つ鳴った。
『のあ、相談したいことがあるんだ。仕事部屋に来られる日、ある?』
真帆からだった。相談、と書いてある。
のあは、予定表を開いた。明日の午後が、空いていた。
*
戸を叩くと、千晴が開けた。
「のあちゃん!」
声が一段高くなって、それから、千晴は自分の口を押さえた。
「……いらっしゃい。お茶、いつものでいい?」
「はい」
(今、抑えたな。紗月さんに何か言われてるのか)
のあは、持ってきた紙袋を千晴に渡した。前に灯り火の配信で頬張った焼き菓子と、同じ店のものだった。店の名前は、あとで千晴に聞いていた。
「え、これ、あの時の!」
「高かったので、一回だけです」
「一回でも嬉しいよ」
机の上に、カップが四つ並んだ。
紗月は資料から顔を上げて、「来てくれたんだ」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。
のあは、いつもの机の端に座った。二週間前と、同じ場所だった。
「見たよ、オネエさんたちとの配信」
千晴が、菓子の袋を開けながら言った。
「盾の人、すごかったね。あと、画面の外から飛んできたボア。あれ、まさねぇさんでしょ」
「……ノーコメントです」
「絶対そうだ」
千晴は笑って、焼き菓子を一つ、のあの皿に置いた。
「撮ってないよ。今日は」
「知ってます」
(わざわざ言うなよ。……食べるけど)
のあは、焼き菓子を半分かじった。
*
真帆が、ノートを持って向かいに座った。
表紙には、まだあの題名があった。
『のあ先生』
のあの手が、反射的に伸びかけて、途中で止まった。今さら隠しても遅い。
「相談って、これのこと」
真帆は、ノートを開いた。
一頁目に、箸袋で示した角の図があった。その次に、半歩右へ寄った立ち位置。復帰の日の岩場。この二週間で、のあが動画に返した短い言葉も、全部書き写してある。
「のあ。これからも、定期的に教えてほしい」
真帆は、のあの顔を見た。
「一回見てもらって、終わりじゃなくて。次に何を練習するか、一緒に決めてほしいんだ。ちゃんと、習いたい」
のあは、ノートの頁を見ていた。
(定期的に)
その言葉が、頭の中でゆっくり広がった。
(毎週、決まった日に、決まった時間。他人の予定に、俺の予定を合わせる)
前の人生で、一番嫌いだったものだ。定例の会議。定例の報告。定例の飲み会。休みの日の予定が、他人の都合で消えていく。
(面倒くさい)
正直に、そう思った。
「週ごとに、課題をもらえたらって思ってる」
真帆は、ノートの空いた頁に線を引いた。
「練習の日の候補は、私から送る。のあの都合が悪い週は、断っていい。私がいないときの練習も、全部撮って残す。迷ったところも書いておく」
真帆のペンは、止まらなかった。のあが面倒だと思うところを、先に一つずつ潰していくみたいだった。
(……こっちの考えてること、読まれてないか)
「無理な週は、本当に断っていいから。その代わり、断らない週は、ちゃんと見てほしい」
真帆は、ペンを置いた。
のあは、黙ってノートを見ていた。
一頁目の図と、最後の頁の図。同じ人が描いたのに、線の迷い方がまるで違う。最初は、どこに立てばいいか分からない人の図だった。今は、どこに立つかを先に決めてから、何を見るかで迷っている。
迷い方が、一段上がっている。
(……ここで止めるのは、もったいないな)
面倒だ。それは変わらない。
けれど、この先を見てみたい気持ちのほうが、ほんの少しだけ重かった。
「練習日は、真帆さんから候補を送ってください」
「うん」
「私がいないときの記録は、必ず残してください。うまくいったところより、迷ったところを」
「分かった」
「……それなら、教えます」
真帆は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
眼鏡がずり落ちかけて、真帆は慌てて押さえた。
千晴が、小さく拍手をした。紗月は、口元だけで笑っていた。
「じゃあ、お祝いにもう一個」
千晴が、のあの皿に焼き菓子を足した。
「お祝いされることじゃないです」
「じゃあ、おやつ」
(その手はもう知ってる)
のあは、二個目を取った。
かじりながら、真帆のノートを自分のほうへ引き寄せた。空いた頁に、図を一つ描く。前衛の札が、途中で止まっている図だった。
「紗月さんが、ここで止まったら。真帆さんは、次にどこを見ますか」
「え、今の、もう課題?」
「食べ終わるまで、暇なので」
真帆は、図をのぞき込んだまま動かなくなった。考え込むと、周りが見えなくなる人だ。千晴が、真帆のカップをそっと遠ざけた。肘で倒しそうだったからだ。
「……止まったほうじゃなくて、止まった理由のほう?」
「次の練習で、立って確かめてください」
(言っちまった。……もう、教える側だな、これ)
*
「正式に教わるなら、協会に届けを出せるんだって」
紗月が、資料の中から一枚を抜き出した。
「師事の届出。前に相原さんが言ってた。記録を残しておくと、真帆の評価にもなるし、のあの記録にもなるって」
「……私の、ですか」
「うん。詳しいことは、相原さんに聞いてみて」
(記録。……何の記録だ)
紗月は、それ以上説明しなかった。知らないのか、知っていて黙っているのか、のあには分からなかった。
*
翌日、相談室で、相原は二人の話を順に聞いた。
真帆がこれまでの記録を出し、のあが課題の決め方を説明した。相原は、細い眼鏡の奥で、何度か目を細めた。
「受け付けました。瀬川真帆さんは、のあさんに正式に師事。指導の記録は、月に一度こちらへ」
「はい」
「それから、これまでの助言の記録も、最初の日からの分を一緒に綴じておきますね」
相原は、書類を揃えながら、何でもないことのように言った。
「S昇格の審査で求められる、弟子を育てた実績。その記録にもなりますので」
のあの手が、止まった。
頭の中に、ゼロの多い数字が浮かんだ。
(深層の大型討伐、一件三百八十万)
一瞬だけだった。
(……違う。そういうんじゃない。真帆さんが頼んできたから受けただけだ)
「それは、関係ありません」
「はい。関係ありませんね」
相原は、書類から目を上げなかった。口元だけが、少し笑っていた。
「弟子もパーティもいらない、一人でいい。以前、そう伺いましたから。……『今は』と付いていましたけれど」
(覚えてやがる。「今は」まで)
隣で、真帆が首をかしげた。
「のあ、Sになりたいの?」
「なりたくないです」
「ふうん」
真帆は、それ以上聞かずに、自分の控えをノートに挟んだ。
*
協会の建物を出ると、紗月が入口の脇で待っていた。
「終わった?」
「はい」
「真帆、よかったね」
「うん」
真帆は、ノートを胸に抱えたまま、少し早足で先を歩いていった。次の練習の候補を、もう打ち込み始めている。
紗月は、のあの横に並んだ。歩幅を、のあに合わせていた。
「のあ」
「はい」
「空いてるときでいいんだけど」
紗月は、前を向いたまま言った。
「今度の護衛依頼、少し大きいのが来てて」




