第16話 看板を借りる
「いつもコメントしてます。『夜更かし』って名前で」
男は、手にした画面をこちらへ向けた。
のあの配信のコメント欄だった。同じ名前が、いくつも並んでいる。『おやすみ』『今日もかっこいい』『返事ください』。
(……見覚えはある。毎回いるやつだ)
二十代の後半くらい。探索用の上着はくたびれていて、手入れもされていない。肩のあたりに、協会の登録章がついていた。
花束を持って待っていた、あの男ではない。別の顔だった。
「DMも、何回か送ってて。返事がないから、直接のほうが早いかなって」
「お返事は、していません」
「うん、だから来たんだよ」
男は、当然のように笑った。
のあの半歩前に、ルカが出た。
「あの、もう夜なんで。用事があるなら、協会の窓口を通してもらえますか」
「あんた誰? 関係ないでしょ」
男は、ルカを見もしなかった。視線は、ずっとのあの顔にあった。
「一回でいいんだ。話を聞いてほしくて。俺、Cなんだけどさ、のあちゃんと組めたら絶対伸びると思うんだよ。灯り火なんかより、俺のほうが――」
「お話しすることは、ありません」
のあは言った。
男の笑顔が、少しだけ固くなった。
「……冷たいなあ。配信だと、もっと優しいのに」
(配信で優しくした覚えはない。暗い画面で撃ってるだけだ)
のあは、ルカの袖を軽く引いた。帰ります、の合図のつもりだった。
男の手が、伸びてきた。
ルカの肩を横へ押しのけ、のあの腕へ。
のあは、半歩下がった。
指先が、上着の袖をかすめて空を切る。
(遅い。腕を取って、肘を返せば終わる)
体は、もう動く準備ができていた。
けれど、のあは動かなかった。
(触りたくない)
男の手首を取れば、そこから先は簡単だ。簡単だから、嫌だった。触れた瞬間に、この男の中で何かが始まる。前にも、それで花束が来た。
それに、ここは管理区の門の前だった。門柱の上には、監視用のカメラがある。
(骨を折ったら、また切り抜かれる。今度は「ファンに暴行」だ)
鳴海の件のあとで、それをやれば、どう転ぶか。前の人生で、似た炎上を何件見たか分からない。
「逃げないでよ。俺、ファンなんだから」
男が、一歩詰めた。
のあは、足元の影へ意識を向けた。闇を広げれば、この男の目からは消えられる。そのまま家まで帰ればいい。
(でも、家の方角を見られる。……くそ、面倒だな)
そのとき、門柱の灯りが、何かに遮られた。
男の影の上に、もっと大きな影が重なった。
「……その手」
低い声だった。
男が振り向いた。振り向いて、顔を上げた。上げきるまでに、少し時間がかかった。
ひげ面の巨漢が、男のすぐ後ろに立っていた。片手に、毛糸の飛び出た手提げ袋を提げている。
ゴンちゃんは、それ以上何も言わなかった。
表情もなかった。店でやわらかく笑っていた顔から、何もかもが抜け落ちていた。ただ、男を見下ろしていた。
男の手が、ゆっくりと下がった。
「あ、いや……その、俺、ファンで……」
ゴンちゃんは、答えなかった。
瞬きもしなかった。
「……すみません、でした」
男は、ゴンちゃんの横をすり抜けるように離れた。一度だけ振り返りかけて、やめて、駅のほうへ早足で消えた。
足音が聞こえなくなってから、ゴンちゃんが、ふっと肩を下ろした。
「あら。怖がらせちゃった?」
いつもの、やわらかい声に戻っていた。
のあは、首を横に振った。声が、すぐには出なかった。
(……こっちまで怖かった)
ルカが、押しのけられた肩を押さえて、長く息を吐いた。
「ゴンさん、なんでいるんですか」
「まさねぇがね。ルカだけじゃ細いから、少し後ろからついてってあげてって」
「僕、細いって言われた……」
「細いわよ。かわいいけど」
ゴンちゃんは、手提げ袋を持ち直した。
「のあちゃん、今の人、前にも来た?」
「……コメントで、名前は見てました。会ったのは、初めてです」
「そう。じゃあ、まさねぇには、アタシから言っとくわね」
ゴンちゃんとルカは、のあの部屋の建物の入口まで、並んでついてきた。のあが中へ入るまで、二人とも帰らなかった。
*
部屋の明かりをつけて、紙袋を冷蔵庫へしまった。
のあは、床に座って、さっきのことを頭の中で巻き戻した。
男は、のあの言葉では止まらなかった。ルカの言葉でも止まらなかった。
ゴンちゃんは、「その手」と言っただけだった。
(何を言ったかじゃない。誰が言ったかだ)
前の人生で、何度も見た。同じ謝罪文でも、社長が出すか担当者が出すかで、受け取られ方がまるで違う。同じ商品でも、誰が隣に立っているかで、値段の見え方が変わる。
そして、寄ってくる客の種類も変わる。
のあは、通知の画面を開いた。四十件を超えた数字が、そのまま残っている。
『灯り火と組むより、俺と組んだほうが稼げる』
その一行で、指が止まった。
(こいつら、俺だけ見てるわけじゃない。俺の周りも見てる)
のあが一人に見えれば、のあの周りも、手を出しやすく見える。
灯り火の三人は、やっと仕事に戻ったばかりだった。紗月は、また知らないアカウントから連絡が来ても、きっと一人で抱える。
(……だったら、見せりゃいい)
小さくて、一人で、押せばどうにかなりそうな探索者。その後ろに、百八十と百九十の大人が立っている。しかも片方はSだ。
それを一度、はっきり見せる。
寄ってくる数が減る。減った分だけ、窓口に回す手間も、門の前で身構える夜も減る。灯り火に向く目も、少しは散る。
(評判の管理だ。前の仕事と、やることは同じだ)
借りだ、と思った。でかい借りだ。
けれど、ミレイは「答えは決まってる」と言った。まさねぇは、グラスが軋むほど怒っていた。
(借りじゃない。取引だ。……と、思うことにする)
のあは画面を伏せて、風呂の湯を入れに立った。
*
翌日の昼、カフェ・マーサの扉を開けた。
「あら、のあ。二日続けて来るなんて、どうしたの。雨でも降る?」
まさねぇが、カウンターの向こうで笑った。
窓際の席には、ミレイがいた。昼のランチにはほとんど手をつけず、画面を見ている。
「ゴンちゃんから聞いたわよ。昨日の男、門の前で待ってたんですって?」
「はい」
「……あたしも、ついてけばよかったわ」
まさねぇの声が、一瞬だけ、昨日のゴンちゃんみたいに低くなった。
のあは、カウンターの前に立ったまま、座らなかった。
「まさねぇ」
「なあに」
「看板、貸してください」
頭を下げた。
カウンターの向こうが、静かになった。窓際で、ミレイが顔を上げる気配がした。
「私の後ろに、まさねぇたちがいるって。見せたいんです。変な人が、寄ってこなくなるように」
下げた頭の上で、まさねぇは何も言わなかった。
(……やっぱり、図々しかったか)
顔を上げると、まさねぇは両手を頬に当てていた。
「やだ、ちょっと」
「……はい?」
「あんたが、あたしに、頼みごと。初めてじゃない?」
目元が、潤んでいた。
「喜んで看板になるわよ。何枚でも立ててあげる。店の前にも、管理区の前にも」
「一枚で十分です」
「遠慮しないの」
まさねぇは、カウンターに身を乗り出した。
「で、具体的に、どうすればいいの? あんたの家の前に、毎晩ゴンちゃん立たせる?」
「それは、ゴンちゃんが大変なので」
「アタシは平気よ」
厨房の奥から、ゴンちゃんの声がした。いたらしい。
窓際で、椅子を引く音がした。
ミレイが、端末を持って立ち上がっていた。画面には、もう何かの予定表が開いている。
「一人ずつ見せて回ってたら、何年かかるのよ」
ミレイは、にっこり笑った。
「一度に、何千人にも見せればいいの。――じゃあ、コラボ配信ね」
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